私たちの世界は先行きどうなるのだろうか? 現代世界は、どの面から見ても混迷の度を深めるばかりだ。このような時代にこそ、預言者が必要である。今日は、紀元前7世紀の預言者エレミヤから、預言者的精神について学びたい。
イスラエル王国は紀元前922年に南北に分裂し、北王国イスラエルが紀元前722年にアッシリヤ帝国の侵略によって滅亡し、南王国ユダも紀元前587年、新バビロニア帝国によって滅ぼされ、主だった人々はバビロンに拉致されて、約半世紀の間、異郷での苦しい生活を強いられた。名高い「バビロン捕囚」である。エレミヤが神の召命を受けて預言者となったのは、このような先行き不透明な混迷の時代であった。
その頃、人々の不安に乗じて「預言者」を自称する人々が多く現れた。大抵は職業的預言者で、「占い」を語ることを生活手段にしていた。エレミヤ書23章16節以下でエレミヤが批判しているのは、この種の預言者である。
16節前半でエレミヤは、「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない」と言う。何故か? 後半で、彼はその理由に触れる。「彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」からだ。同じ意味の言葉は、14章14節にもある。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ」。つまり、彼らは神の名を使って語ってはいるが、実は自分勝手な空想、つまり「偽りの幻」や「お呪い」の類を喋っているに過ぎない。今日の箇所の21節にも、「わたしが遣わさないのに預言者たちは走る。わたしは彼らに語っていないのに、彼らは預言する」とある。だから彼らに耳を傾けてはならない。
本当の預言者はそんなものではない。預言者とは、その時代の人々に対して「神の言葉」を語る人のことである。イザヤでもエレミヤでもそうだが、預言者はその時代の政治・経済、あるいは歴史の大きな流れを幅広く見ていて、何が問題なのかを正確に知っていた。驚くべき見識である! その上で預言者は、神がこの時代に何を求めておられるかを、「律法」(十戒)を通して深く考えた。これが「神の言葉」である。預言者は、この「神の言葉」を託されて語るのである。将来起こるべきことを「予め言い当てる」のは、預言者の仕事のほんの一部に過ぎない。だから、私たちは「予言者」という字は意識的に避けて、「神の言葉を預かる」という意味で「預言者」と書く。
今日のテキストの18節に「主の会議」という見慣れない言葉が出てくるが、これは歴史の主である神が高い天から世界の動きを見通し、その驚くべき知恵を最大限に働かせて決定を下すことを意味する。預言者とは、いわばこの「主の会議」に陪席して、世界史の秘密を知り得た人のことを言うのである。
だが、預言者が神によって知らされたこのような真実を語ると、「あいつは真面目すぎる」とか、「鬱陶しい」とか言われて、ことに故郷の人から嫌われた。だから、エレミヤは何もすき好んで預言者になったのではなかった。20章で、つい心の内を洩らして「主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません」(8節)と言ったことからもそれは分る。しかし、だからと言って真実を語らずに済ますことはできない。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(9節)。
つくづく損な役回りではないか。人間的な気持ちに逆らって真実を語ることを神から強いられる。「召命を受ける」というのは、そういうことだ。預言者というものは、このように「神と戦って負けた」という意識を持っていた。わたしの負けです! このようにして預言者になった者は、ただ「神の言葉」を語らねばならない。
エレミヤが「召命」を受けたとき、神は、「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」(1章10節)と言われた。「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」という四つの厳しい言葉が先行することからも分るように、彼が預言者として語るべき言葉は、時代に対する厳しい批判とならざるを得ない。だから、世間の拍手喝采や人気を期待してはならないのである。
だが、偽りの預言者は、拍手喝采や人気を得るために甘い約束を語る。今日の箇所で、エレミヤが指摘しているのはその点である。「彼らは常に言う。『平和があなたたちに臨むと主が語られた』と。また・・・『災いがあなたたちに来ることはない』と言う」(17節)。8章11節も同じ意味である。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」。
これらの偽預言者批判を読んで、思い当たることがないだろうか。これは、そのまま現代の政治指導者たちに当てはまるのではないか。小泉政治は「ポピュリズム」だという批判がある。しかし、これはなにも彼に限ったことではない。どこの国でも権力を持つ者の手法は同じだ。選挙に勝つために人気取りの約束を乱発する。批判をかわすために真実を隠す。詭弁を弄し、数字をごまかす。「平和のため」という美しい言葉を使って軍備を増強し、戦争を始める。あるいは、その戦争に手を貸す。
だが、エレミヤは言う。「誰かが隠れ場に身を隠したなら、わたしは彼を見つけられないと言うのかと主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる」(24節)。天と地を満たす神! 預言者は、天と地の至る所にいてすべてを見ておられる神を指し示す。この精神を、教会は受け継がねばならない。