パウロは第二次宣教旅行中、紀元50年頃のことだが、数日間フィリピに滞在した。使徒言行録によると、この町は「マケドニア州第1区の都市で、ローマの植民都市」(16章12節)だったというから、かなり重要な町である。ここで、何人かの婦人たちがパウロの話を聞いて洗礼を受けた。先ず上々の滑り出しと言うべきだろう。だが、パウロは弟子のシラスと一緒に投獄されてしまう。事情はこうである――。
彼らは「祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」(16節)。「占いの霊」は、元のギリシャ語では、「ピュトンの霊」である。「ピュトン」とは、ギリシャ神話の神アポロンに殺された大蛇の名であった。アポロンは賢く美しい神で、特にデルフォイの神殿で神託(神の御告げ)を語ったといわれ、その神託は古代ギリシャ人の生活を規定したほどに重んじられた。だから町の人々は、「神託」めいたことを語って小金を稼いでいたこの女奴隷を見るとアポロンと比較し、「ピュトンの霊に取り憑かれた」と笑い者にしたのだろう。
この女奴隷は、新宿の盛り場にいる易者のように、「神の御告げ」と称してまことしやかに語ることを商売にしていた。むろん、雇い主がいたのである。ところが、この女性はパウロたちにつきまとい始めた。大声で「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」(17節)と叫ぶのである。別に間違ったことを言ったわけではない。だが、余計なお世話である。始めのうちは放っておいたパウロもやがて煩わしくてたまらなくなり、「イエスキリストの名によって命じる。この女から出て行け」(18節)と霊に命じた。すると憑き物が落ちた。騒ぎは収まったが、納まらないのは彼女から毎日「売り上げ」を召し上げていた雇い主である。商売を邪魔されて怒った彼らは、パウロとシラスを捕まえて役人に引き渡し、悪しざまにあることないことを訴えた。役人は捨ててもおけず、「二人の衣服をはぎ取り」(22節)、「何度も鞭で打ってから牢に投げ込み」(23節)、逃亡を防ぐために「一番奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた」(24節)というわけである。
ところで、幸か不幸か私はまだ牢屋というものを知らない。しかし、親しい韓国人の友パク・ソンジュンから、中の様子を何度か聞いたことがある。彼は軍事独裁政権の時代に、「社会主義」に関する研究をしたというだけの理由で13年半も獄に入れられた、いわば牢屋の「専門家」である。彼によると、獄中にもある程度の自由はあるらしい。彼はその自由を活用して、日本語と中国語をマスターした!
パウロの場合は、その自由を、讃美歌を歌ったり祈ったりするために用いた。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」(25節)。この牢屋がどのような構造になっていたか、私たちには分からないが、どこからとなく讃美や祈りの声が聞こえてくるというのは、他の囚人たちにとって思いがけない慰めではなかったか。
ボンヘッファーはテーゲルの陸軍刑務所に入れられた時、看守たちが囚人を罵る声が絶え間なくワンワンと建物中に反響しているのに閉口したという。夜になると、今度は囚人たちが発するさまざまな声が聞こえてくる。泣き声、夢の中で発する呻き声、子供が母親に訴える時のような泣き言…。パウロが入れられた牢の中の情況も、それ程違っていたとは思われない。このような罵声や泣き声は、人の心を暗くする。
だが、そういう情況の中で、喜ばしい賛美の歌と、静かな祈りの声が聞こえてきた。他の囚人たちは「それに聞き入っていた」という。この表現に、私は心を打たれる。
今から40年前、留学してベルリンの学生寮に住んでいた時、夜中にどこからとなく美しい歌声が聞こえてきたことがある。「さくら、さくら…」。確かにそう聞こえた。思いがけない喜びだった。私はしばらくその歌声に聞き入っていたが、その内に我慢できなくなり、音の発生源を捜してそっと寮中を歩き回った。どうやら、ある部屋からその声は洩れて来るらしい。ノックをし、顔を覗かせた学生に「夜中にすみません」と謝りながら訳を話すと、部屋に入れてくれた。それはレコードだった。しかも、ハリー・ベラフォンテというラテン系の歌手が見事な日本語で歌ったレコードだったのである。
私たちの言葉や声は「騒がしいどら、やかましいシンバル」(1コリント13章1節)のようであってはならない。私たちの賛美の歌や祈りが、人の心に染み入る静かな美しい声であることを、私たちは心から望む。
さて、話は続く。「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)。するとその時、今まで権力をかさに着て威張っていた看守たちは、「牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げて閉まったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした」(27節)。これに反して、足かせをはめられて閉じ込められていた囚人のパウロは、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)と大声で叫んで絶望した看守を励まし、人間として真実に生きる道を示した。一瞬にして立場が逆転したのである。
揺れ動いたのは地面だけではない。人間の生活の基盤が揺れ動いたのである。私たちはどのような基盤の上に自分たちの生活を築いているか? すぐ揺れ動くこの世的な権力の上か?それとも、永遠に揺るがない神の真実の上か?
このことを、深く考えさせられる。