2006・5・7

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「見えないものに目を注ぐ」

村上 伸

エゼキエル書 34,23-312コリント 4,16-18

 西欧の教会は中世以来、受難節から聖霊降臨祭に至るまでの、つまり、イースター前後のすべての日曜日に、甚だ含蓄に富むラテン語の名前をつけた。復活祭後に限って紹介すると、復活後第1主日はQuasimodogeniti(生まれたばかりのように)、第2主日はMiserikordias Domini(主の憐み)、そして、今日の第3主日はJubilate(喜びの叫びを上げよ)である。この後は、Kantate(歌え)、Rogate(祈れ)、Exaudi(聞きたまえ)と続いて、それから聖霊降臨祭が来る。

 これらの名は、いずれもその日の礼拝の最初に読まれた聖句からつけられた。「生まれたばかりのように」という名は、1ペトロ2章2節「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」から取られた。次の「主の憐み」は、詩編33編5節「地は主の慈しみに満ちている」という慰め深い聖句から、そして今日の「喜びの叫びを上げよ」という名は、先ほど私たちが交読した詩編66編1節「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」から来ている。

ところで、「名前をつける」という行為にはどんな意味があるのだろうか。創世記2章19節によると、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」。つまり、神は「名前をつける」という特別な権利を人間に与えた、ということだろう。命名は人間だけに許された特権であって、本来は支配を意味する。しかし、同時に愛や期待、願望なども現わしている。

 親は子供が生まれると喜び、その子を慈しんでなるべく良い名前を考える。ペットに名前をつけるのも、支配関係を示すというよりは愛情の現われだろう。さらに、聖書に登場する人々はよく名前をつけるが、それは自分の子供には限らない。「場所」や、重大な「事柄」などにも名前をつける(例えば「ベテル」)。こうした場合は、「名前をつける」ということは、一種の「信仰告白」である。

昔の教会が復活祭前後のすべての日曜日に特別に美しい名をつけたのも、「信仰告白」的な行為と言えよう。すなわち、主イエスの復活によって「何かが決定的に変わった」という信仰の告白なのである。では、何が変わったのか?

 少し遡って、今日のテキストの直ぐ前に書いてある言葉を引用する。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させた」4章14節)。これこそ、主イエスの復活と共に起こった決定的な変化である。その前の11節には、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」と言われている。さらに遡れば、7節に、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」という言葉がある。これらを一貫するものは、「私たちはイエスと共に復活した」という信仰なのだ。

この信仰に立ってパウロは言う。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8-9節)。イエスと共に復活した以上、何があっても行き詰らない、と。

 だが、そもそもどうしてそんなことが言えるのだろうか? この言葉が「負け惜しみ」や「強がり」ではないという保証はあるのだろうか? パウロ自身、ひどい迫害や苦しみに出遭って絶望に瀕したことがあると何度も正直に告白している。2コリントの始めの方でも、「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」1章8節)と打ち明けているではないか。

パウロは「生きる望みさえ失った」ことがある。それは本当だ。だが彼は、「自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった」(同9節)と言う。絶望のどん底で、いわば視線を転換させられた、というのである。

 宗教改革者マルチン・ルターは、若い頃修道院に入って修行を積んだが、努力すればするほど、自分には「神の義」を実行することなど不可能だと思った。ひどく苦しんで、遂には「神の義」という言葉を憎むようになったという。その頃、修道院長のシュタウピッツが彼の暗い顔を見て、「君は自分のことだけを見て悩んでいる。だが、今、君に必要なのは、キリストといわれるあの方を見上げることだ」と忠告した。その一言が彼に転機をもたらしたという。パウロの場合も同様だ。彼が「わたしたちは落胆しません」(16節)と断言することができたのは、「自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにした」(1章9節)からに他ならない。

 アフロ・アメリカン(黒人)霊歌に「誰も知らない私の悩み」というのがある。「私が経験した困難や悲しみは誰にも分らない。イエス様以外の誰も分かってはくれない。・・・ああ、主よ、私はある時は高揚しますが、ある時は打ちひしがれています」と歌う。自分は苦しみや悲しみに打ちひしがれている。そういう自分を見ている限り、生きることは辛くなるだけだ。だが、Nobody knows but Jesus(イエス様だけは分かって下さる)と歌って、彼らは視線を転換した。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」(18節)とパウロが言うように、惨めな自分に目を奪われることを止め、この自分の中に宿る復活のイエスに目を注いだのである。「見えないもの」とは、復活のイエスのことである。この方は「きのうも今日も、また永遠に変わることがない」(ヘブライ13章8節)。この方に目を注ぐとき、私たちは始めてしっかりとした土台の上に立つ。そして、「内なる人は日々新たにされていき・・・わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる」(16-17節)という約束も、私たちのものとなるのである。


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