この物語は、私にとって、新約聖書の中でもっとも魅力的な物語のひとつです。一見するとそれは、ひとつの美しい奇跡物語のように響きます。ほとんど童話のようです。複数の福音書記者によって、それぞれに特徴的な仕方で物語られていて、私たちはそこに今でも何か新しいものを発見します。思いますに、3つのレヴェルを区別することができるでしょう。
しかしまずは物語そのものを見てみましょう。ガリラヤ湖を訪れたことのある方ならば、夕暮れ時の素晴らしい雰囲気を思い出していただけるでしょう。夕暮れの柔らかな光と変化に富んだ色彩、湖面には何艘か小船が浮かんでいます。沈み行く太陽が湖の上に光を放っています。
そこにイエスが弟子たちとやって来ます。イエスは病人を癒してきたところです。イエスは――マルコの物語によれば――たくさん譬え話を語って、「神の王国」の秘密について、人々はそれに気づいていないかも知れませんが、それでももうすでにここにある「神の王国」の神秘について語ってきたところです。「神の王国」の神秘は、イエスとともにそこにあり、イエスの言葉と行為を通して、それは私たちの心の中で育ってゆきます。
イエスの言葉は人の心を静めます。夕暮れの湖面の水のように、湖畔の夕暮れのように静かに。弟子たちは湖の対岸に渡ってゆく。心は満ち足りて、でも体は少し疲れて、弟子たちは夕暮れの気分に浸っていました。喜びに満たされて。一仕事終えたイエスは小船の後ろの方で身を横たえて、眠っています。
静けさが支配しています。しかし、それは嵐の前の静けさでした。ガリラヤ湖では、ときどきそうした突風が吹きます。山々からの吹き下ろしが突風を巻き起こすのです。風のせいで湖面は波立ち、波が船を揺さぶり、打ち付けます。そしてイエスは眠っている。彼は義人の眠りを眠っているのです。
弟子たちはどうしたでしょうか? 彼らもまた喜びに溢れていた、信仰に溢れていたのです。それが今ではどうでしょう? 天候が急転するように、彼らの信仰も急転します。突然にすべてがダメになってしまったように思えるのです。死の不安がむくむくと広がります。弟子たちは師匠イエスのことを、もしかしたら彼が死ぬかも知れないと心配しているでしょうか。どうも、そうは見えません。弟子たちが心配しているのは、ただ自分の命です。しかしともかく彼らは、イエスのもとにやってきます。弟子たちはイエスを起こして言います、「先生、私たちが滅びることについて何もお尋ねにならないのですか」。非難の調子がはっきりと聞き取れます。私たちの命が危険に晒されています。そしてあなたは眠っておられる。イエスはどうしたでしょうか? 彼は弟子たちの呼びかけに応えます。イエスは立ち上がって風に語りかけます。それが幽霊か悪霊であるかのように、それが猛り狂う嵐という破壊的な力とかたちをとって現れたサタンであるかのように。「黙れ、静まれ!」。嵐は凪に変わります。深い静けさが周囲に、そして湖全体に広がります。
しかしイエスは、それだけで終わりにしません。彼は弟子たちを助けた後で、彼らに向かって非難めいた口調で語りかけます。弟子たちを「信仰の小さい者たち」と呼び、こう言います、「あなたたちは、なぜそんなに恐がるのか」。
このとき本当の恐れが、弟子たちを襲います。これはもはや、命を失うかもしれないという被造物の恐れではありません。まったく異なる恐れが彼らを捕らえます。それはこれまで経験したことを超える何かと直面するという経験です。弟子たちは、神の不可思議な力に出会ったのです。「トレメンドゥム・エト・ファスキナーンス/戦慄と魅惑を同時に惹き起こすもの」――聖なるもの、聖なる神との出会いを、人は後にそう表現しました。そして弟子たちはうろたえ、混乱し、衝撃を受けてこう問います、「このイエスは何者なのだろう」。
1.物語の第一のレヴェルは、私たちの信仰というレヴェルです。この物語は、私たち自身の信仰の物語のようなものではないでしょうか。私たちは洗礼を受け、堅信礼を受けました。私たちは教会に通います。私たちは「信じていますか」と問われれば、誰もがその人なりの仕方で肯定的な返答を返すでしょう。もちろん、祈りもそこに含まれます。全体として私たちは、信仰のうちに静かなクリスチャンとしての生活を送っています。目立つことなく、極端に走らず。信仰は生の確かさ、静けさ、そして高齢になれば夕暮れの平和を与えてくれます。
しかし、次の瞬間にすべてが突如として変わる。不運な出来事が起こります。私たちに近しい人が死去する。生活上のパートナーが家を出て、他の人のもとに行く。すべてが壊れるのです。争い、離婚。あるいは病魔が私たちに襲いかかります。そうしたことは私たちを、とりわけ疑いの中に突き落とします。「どうして私が、どうしてこの私が?」。私たちの教会にはノートが置いてあり、そこに人々は祈りの課題を書き込めるようになっています。そこには繰り返し「なぜ」という問いが書き込まれています。「なぜ私の父は苦しまなければならなかったのですか?」「神さま、なぜあなたは私たちの祈りを聞き入れて下さらなかったのですか?」。私たちの叫びと嘆願は、聞き入れられるかも知れません。しかし、私たちの心が静まり、気づかなかったけれどもキリストが常に私の傍らにおられたことが分かるまで、とても長い時間がかかるかも知れないのです。キリストは眠っており、私の言うことを聞いて下さらないと思っていたとしても、それでもキリストはそこにおられたし、今もおられる。そしてその時がくれば、嵐と波をお鎮めになる。
そして私たちの祈りが聞かれ、私たちの心が静まったとき、そのとき私たちにも、ちょうど弟子たちがそうであったように、あの問いが浮かび上がってきます、「キリストよ、あなたは何者なのですか?」。あるときは信仰においてキリストはとても近くあられ、またあるときはあまりに遠い。小学校の生徒であったとき『イエス・キリストとは誰か』というタイトルの書物を手にしたときのことを思い出します。私はこんなタイトルの本があることに驚きました。だって、2000年もたった今、キリストが誰であったか、また誰であるかは、全部分かっているではありませんか。しかし年月を重ねた今、私は繰り返しそのことを問うようになりました。私は先ごろハイデルベルク大学で、偉大な宗教創設者たち、仏陀、孔子、老子、ツァラツストラ、モーセ、モハメット、そしてイエスに関する講義を行いました。そして繰り返し私は自問せざるを得なかったのです、本当に私はイエスを知っているのか、と。イエスのいろいろな側面を発見することはできます。繰り返し新しい側面を発見できます。しかし最終的に、唯一のそして最も大切な答えは、かつて教会教父テルトゥリアーヌスが与えたもの、すなわち「彼が何者であるにせよ、彼は私のキリストだ」というものです。そう言うことのできる者は、心の中に大いなる静けさが広がってゆくのを感じることができます。
2.第二のレヴェル。このテキストは、もうひとつ別の状況、すなわち教会の状況を映し出しています。私たちは皆、エキュメニカル運動に由来する教会のシンボルを知っていますね。いっぱいに帆を張って波間を進む船のシンボルです。このシンボルは、今日のテキストから採られています。静かな流れに身を任せ、心地よく、満ち足りていた船が、突然に嵐に巻き込まれる。これが私たちの時代の教会のイメージです。しばしばそうであるように乗組員たちは無力で、なす術を知りません。船乗りたちはあちらに走り、こちらに走りし、与えられる指令は混乱していて、互いに矛盾しています。船は蛇行し、航路から外れてしまいます。これこそ、今の時代の私たちの教会のイメージです。
かつて教会は、ドイツ社会という港の中で、たいへん安全に感じていました。経済がうまくいっている間は、お金も十分ありました。ところが今や、突然に危うい状況が生じます。時代の嵐は、暴風にまで成長しそうです。お金が足りなくなります。人は自分たちの本来の中心点について思いをめぐらせ、そこから新しい方向性、新しい勇気を得ることをしないで、コンサルタント会社に助けを求めます。いつも議論するだけ。構造改革が救いをもたらすように見えます。いいえ、そんな仕方で教会を建てることはできません。
では、どうすればよいのでしょうか?
私たちのテキストは、はっきりと道を示しています。そしてこの道は、世界中のあらゆる教会に当てはまると私は思います。君たちが孤独に放置されているわけではない、ということを思いめぐらせよ。イエスはまだボートに乗っておられるではないか。彼は船を下りたわけではありません。彼はなお「あなたがたはなぜ恐がるのか」と問うておられます。彼のことを思いめぐらせよ。イエスから何を行なうべきか示唆を得るがよい。イエスが彼の霊を通して与えた賜物について思いめぐらせよ。あらゆる教会には豊かな賜物の宝が与えられています。それを呼び覚ますこと、それを開き、花開くための空間を与えることが大切です。教会はそれが抱える課題によって生きるわけでも、そうした課題のために生きるわけでもありません。そうではなく教会は、その賜物によって生きるのです。聖霊は、とうの昔に賜物を分け与えています。私たちは教会のメンバーたちの中にそれを発見するだけでよいのです。最も尊い賜物は、師であるイエスご自身です。
3.第三のレヴェル。このテキストには、さらにもうひとつの位相があります。私たち現代の読者は、この位相を直接的に聞きとることはできませんが、マルコ福音書の最初の読者たちはそれを聞きました。それは公的かつ政治的な位相です。その位相にとりくむとき、「このナザレのイエスとは何者なのか?」という問いが新しく立ち現れてきます。
「風は凪ぎ、雲は晴れ、大波は平らかになる。あなたのうなじへと日は明けて、静けさが支配するであろう」――こうした、またこれに類似した賛歌が、新約聖書の時代、皇帝のために作られました。偉大なるローマ元老院議員キケロは、後に皇帝となった将軍を讃えて、この者には「敵たちが聞き従った」のみならず、「風も天候も」唯々諾々と従った、と言います。当時、皇帝ウェスパシアーヌスについて、ある盲人がアレクサンドリアに彼に治癒を願い出ると、ウェスパシアーヌスは自分の唾液を使って彼を癒した、という物語が語られました。
こうしたことすべては、イエスについても物語られます。すると私たちの物語は、他にもたくさん存在する礼賛物語のひとつにすぎないのでしょうか。つまりは古代において、エジプトのファラオたち、バビロニアの支配者たち、またローマ皇帝たちを讃えて歌われたへつらい歌のひとつなのでしょうか。同じような仕方で、イエスを讃えるのでしょうか。私たちはもっと注意深く見なければなりません。マルコは彼の福音書を、他でもないこのウェスパシアーヌスとティトゥスの時代に執筆しています。二人のローマ皇帝はヘロデ王の友人たちでした。後にティトゥスはユダヤ人の敵となり、神殿を破壊しました。そしてマルコは、福音書のちょうど中央部分で、ヘロデが偉大な皇帝を讃えてカエサリア(カエサル=皇帝)・フィリピに建設した巨大なアウグストゥス神殿を前にして、ペトロが次のように告白したと物語ります。「イエスよ、あなたこそメシアです」(マルコ8,27以下)。そして後にローマ軍の百人隊長が、十字架のもとでこう告白します、「この人は本当に神の子であった」(マルコ15,39)。
いま私たちは、私たちのテキストの政治的位相を感じとります。いいえ、私たちは皇帝に向けて、賞賛の言葉を歌い、それを語ることはしません。いいえ、私たちは世界で最も権力ある人間を、神的な人格として崇拝することはしません。そうではなく、とるに足らぬあのナザレ人の大工を讃えて歌います。彼こそが、そして彼だけが神の子です。私たちはこの地の力ある者たちの前に膝を屈めません。わたしたちはおべっかを使ったり、皆が歌っている賞賛の歌に声を合わせたりしません。私たちは、むしろそれに抗います。そして神が、私たちの弱さの中に、彼の力を顕わになさることを知っています(コリント第二 12,9)。それは、寒村ナザレ出身のこのちっぽけな人間において、そしてまさに彼の十字架の死において、神がその力を示されたのと同じように。私たちはここで、どこから本当の助けを得ることができるかを、マルコから学びます。それは権力ある人々からではありません。この世の権力者たちに、群れをなして追従することによってではありません。権力と軍隊の力に信頼することによってでもありません。キリスト者は何世紀にも亘って、この間違った道に迷い込んできました。ある権力者が現れ、神の名によって十字軍へと呼びかけると、今日に至るまでキリスト者は、権力と力ある者の前に膝を屈めるという誘惑に屈してきたのです。
政治は説教壇には属していない、と人は言います。もちろんそれは正しいのです。しかし私たちは、マルコとともに、またマルコから――そのことを私たちは礼拝においても思い起こさなければなりません――次のことを学びます。すなわち私たちは惑わされない、二度と誤魔化されない、私たちを間違った道へと誘惑する権力の前に屈することはしない、ということを。この誘惑が、たいへん信心深い仕方で行なわれるとき、わたしたちはとりわけ用心深くあらねばなりません。
神がどこにおられ、どのような仕方でその力を発揮しようとしておられるのかを、私たちが学ぶことができるのは、イエスお一人からです。「柔和な者たちは幸いなるかな。彼らは大地の国を所有するであろう」(マタイ5,5)。そのように柔和な方にこそ、風も波も従うのです。この方が私たちとともに、教会という名の船の中におられる。神に感謝あれ。