I
親愛なる会衆の皆さん、イースターおめでとうございます。
イエス・キリストの復活の出来事は、キリスト教信仰と宣教の出発点です。そして福音の内実そのものです。では、どのような意味で、キリストの復活は人間にとって、そしてこの世界にとって今日も大切なものであり続けているのでしょうか。そのことを私たちの生の経験から出発しつつ、聖書との対話を通して何度もくりかえし言い表すこと、少なくともそれを試みること−−それは、キリスト者として生きる私たちの内的な原動力です。また教会にとって、変わることのない課題だろうと思います。
パウロは、『コリントの信徒への手紙一』15章で、彼なりの仕方でそのことを試みています。さきほどお読みした段落で問題になっているのは、キリストの復活そのものではありません。その内実はともかくとして、キリストの復活そのものは、とりあえず前提されています。その上で、キリストを信じる者たちの復活が、とくに「体」との関係という視点から論じられています。これは、私たち一人ひとりの存在が、キリストの復活と何の関係があるのか、という根源的な問いに結びついています。
復活祭の主日、パウロに導かれながら、私たちの信仰の出発点について、もう一度ともに考えてみましょう。
II
この段落の全体を通して、「体」(ギリシア語「ソーマ」)が問題になっています。死者は「どんな体で来るのか」(35節)、あるいは「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する」(44節)といった具合です。
「体」とは、聖書の伝統によれば、固体であることと人格であることをあわせたような概念です。「体」とは互いに向かい合い、五感と思考を通して世界を認識し、手足をつかって世界に働きかける一人ひとりの生き物としての人間のことです。その意味で、ひとりの人間は、その全体がひとつの「体」です。「私は体を持つ」というより、「私は体である」という方がぴったりします。一部分が「体」で、別の部分が「霊」であるといった考え方がギリシア思想の伝統にありますが、パウロは基本的に聖書的な発想に従っています。
では、死は「体」の終わりを意味するのでしょうか。とりあえずその通りです。生きている者にとって、亡くなった人々と以前と同じように言葉を交わすことは、もはやできません。私たちは親しかった人に心の中で呼びかけますが、その人が声に出して返事をしてくれるわけでもありません。触ろうと思っても、その人はもういないのです。その意味で、死は確かに個別的な人格としての「私」の終わりです。この死の事実を直視しない宗教があるとしたら、それはちょっとアブナイ感じがします。
III
ところがパウロは、「後でできる体」(37節)、「天上の体」(40節)、「霊の体」(44節)について語ります。これは「死後の私・あなた・あの人」「天国の私・あなた・あの人」「霊的な存在としての私・あなた・あの人」と言い換えてよいでしょう。
なぜパウロは、こんなよく分からない、またある意味ではとんでもないことを言うのでしょうか。それは、彼が復活のイエスに出会うという不思議な経験をしたからです。復活のイエスは、死んだイエスと同じ人でした。パウロに現われたイエスは、「主よ、あなたはどなたですか」と問う彼に、「私はあなたが迫害しているイエスである」と告げた、と使徒言行録にある通りです(使9,5)。つまり殺されたイエスは「体」的な存在としてはいったん壊れてしまい、ふつうに「土」に返ったのですが、神によって「起こされ」、新しい「体」を与えられた、つまり同じ人がもう一度新しく立てられたのです。ヨハネ福音書の有名な「疑うトマス」のエピソードでは、トマスに現われたイエスの「体」には、磔刑に処されたときの傷が残っていたとあります(ヨハ20,27)。この物語も、イエスの死体がそのまま生き返ったというよりも、もともとは、復活したイエスが磔刑に処されたイエスと同じ人であったことを表現しているのだと思います。
この経験を通してパウロは、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にもそれぞれ体をお与えになる」(38節)と言います。死んだイエスに、もう一度新しい「体」を与えた神は、同じことを私たちに対してもなさるだろう。「体」とは、神の被造物なのです。そしてそのことは、すでにこの世界に存在する被造物を見ても分かる。つまり「体」を与えるという神の行為は、「肉」つまり有限な存在としての被造物の多様性−−「人間」「獣」「鳥」「魚」のそれぞれの「肉」(40節)−−、あるいは天体の「輝き」の多様性−−「太陽」「月」「星々」のそれぞれの「輝き」(41節)−−にも明らかだ、とパウロは言います。もっともこの発言は、復活したイエスを、私たちと交流する一人の生きた人格として経験した者にしかできないものであるように思いますけれど。
IV
復活信仰は、イエスが、その死を通り抜けて、いまも私たちと交流する一人の生きた人格であると信じることを含んでいます。そのことをパウロは、種蒔きの比喩を通して説明します(42-44節)。「蒔かれる」とはこの世の生を、そして「復活する」とは、この世界の限界を超える生を示しています。この世界で生きることを指してパウロは、それは「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」に蒔かれることだと言います(43節)。これらの表現は、決して厭世的で悲観主義的な人生観を示すものではありません。パウロが念頭においているのはもっと具体的なもの、つまりイエスの死に方、悲惨で弱々しく愚かしい磔刑の死です。その上で彼は「自然の命の体」(44節)と言って、十字架に極まったイエスの生を、私たち人間一般の地上的な生と重ね合わせます。
ひとつ注意していただきたいことがあります。それは、この段落で「復活する」と訳されている言葉が、原語ではすべて「起こされる」という受身形であることです。背後にあるのは、もちろん「神が起こす」という理解です。惨めな死を遂げたイエスを、神が「朽ちないもの」「輝かしいもの」「力強いもの」に「起こした」ように、私たち死すべき者たちをも同様に「起こす」であろう。つまり「自然の命の体」を死ぬ私たちを、同じ人格として「霊の体」に新しく創造されるであろうというわけです(44節)。
すると「体」とは、つまり「私」という個別的な存在は、たんにこの世界における神の被造物であるだけでなく、新しい創造行為の対象でもあります。まさにこの点に、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にもそれぞれ体をお与えになる」(38節)、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する〔=起こされる〕」(44節)というパウロの発言の根拠があります。「体」とは、神が新しく造りだすものなのです。私たちのアイデンティティの根拠は、「体」の同一性、つまり私が私であることにはありません。それは、私を創造する神にあります。逆に言えば、私たちが日々生きている「体」もまた、私を超えるクリエイティヴな力によって生かされている命です。
〈神がイエスを死者たちの中から起こした〉という信仰は、神は存在しないものから死を通り抜けて命を生み出すという、神のクリエイティヴな力への信仰、そしてその力が私たちにも及ぶだろうという希望とひとつなのです。
V
この希望は具体的なできごとと結びついており、「イエス・キリスト」という名をもっています。パウロはそれを人類全体の運命にむすびつけて理解します。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」(45節)。前半は創世記(2,7)の引用です。そして「最後のアダム」とはキリストを指しています。
このパウロの発言は、手紙の宛先であるコリント教会で通用していたある人間理解を踏まえつつ、それにパウロが修正を加えようとしているのではないか、と学者たちは考えています。ある説によると、コリント側の理解とは次のようなものでした。すなわち「最初のアダム」は土からできた、やがて滅んでゆく存在として、つまり普通の人間として創造されたが、霊的な神の知恵によって救われる者の霊は永遠の命をえる。つまり「体」は滅ぶが、霊的な「私」だけは永続する。だから本来は、永遠に生きる「最後のアダム」こそが第一の存在であり、他方でやがて滅んでゆく「最初のアダム」は二次的な存在に過ぎない、という理解です。
これに対してパウロは、「体」には、自然的な体と霊的な体の両方があるのだと言います。そして二人のアダムは、自然の体をもつアダムが最初にあり、霊的な体をもつアダムがその後に来る、とも(46節)。「命を与える霊」(45節)とは、そのまま訳せば「命を創造する霊」となります。イエス・キリストは、神によって「死人の中から起こされる」ことで、神の創造的な力を証言する出来事となった。このキリストこそが「最後のアダム」つまり「真の人間」であり私たちの未来なのだ、とパウロは考えています。
復活信仰とは、この世にあって、命を創造する神の力に信頼しつつ歩むことです。
VI
先月私は、韓国のソウル市郊外にある「ナヌムの家」を訪問しました。いわゆる「日本軍『慰安婦』」であった女性たちのサバイバーのために、1992年に開設された共同生活施設です(http://kyoto.cool.ne.jp/nanum/index.html)。この女性たちは、異国の軍隊の「性奴隷」とされたことを公に言えないまま、その多くが孤独と貧困の中で生きてきました。しかし1990年代、女性の人権をめぐる国際世論は大きく進展しました。紛争や戦争時における女性に対する性暴力は、人道に反する罪であるという認識が広まりました。旧ユーゴやルアンダにおける組織的な集団レイプや強制妊娠は、国際的な法廷で裁かれるようになりました。国連人権委員会を始めとする国際機関は、日本政府に対してもいくつかの勧告を出しています。2000年には民衆法廷である女性国際戦犯法廷が日本で開かれました。こうした女性の人権を重視しようとする国際的な流れに照らすとき、日本政府の拒絶的な態度はかなり目立ちます。2005年には「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」が西早稲田にオープンしました(http://www.wam-peace.org/)。そのエントランスホールの壁面には、名乗りをあげた元「慰安婦」たち−−たくさんの国の女性たち−−の写真が掲げられています。
さて「ナヌムの家」では、心理療法のひとつとして絵を描くことが導入されたのですが、その中から優れた作品がたくさん生まれました。多くの印象的な絵画を残した一人である姜徳景(カン・ドクキョン)ハルモニの遺作に、「責任者を処罰せよ−−平和のために」という作品があります。重い病を患っていた彼女が、「これだけは描いてからでないと死ねない」と決心して描いたものです。絵の中央には大きな裸の木があり、そこに白い目隠しをされた日本の軍人が、何重にも巻かれた鎖で縛り付けられています。そしてこの軍人に向かって、真正面と左右から拳銃がつきつけられているのです。背景は真っ赤な血の色です。これは恐ろしい構図です。ハルモニによると、これから処刑されようとしている、この口ひげをはやした軍人は昭和天皇その人であるそうです。この絵には、踏みにじられた女性の尊厳に対する憤怒があふれています。
しかし、それだけではありません。木の周囲を数羽の真っ白な鳥たちが飛んでおり、木の枝にはひとつ鳥たちの巣があります。そして巣の中には、いくつもの小さな真っ白な卵。この純白の鳥たちと卵は、未来にはついに「真の人間」が生まれるだろう、という姜徳景ハルモニの希望を表わしているのだそうです。つまり彼女もまた「最後のアダム」「真の人間」の誕生を、そして「命を与える霊」の働きを彼女なりの仕方で信じたのです。
私たちの国がこうした歴史を抱えていることは、とても重苦しいことです。しかし、その中を通り抜けてゆくことが、「命を与える霊」となったキリストを信じる者たちの運命であるように感じます。