2006・4・2

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「青銅の蛇」

村上 伸

民数記 21,4-9ヘブライ5,7-10

 イスラエル民族は、モーセの指導の下にエジプトから脱出し、40年間荒れ野を漂泊した末にやっとカナン地方に近づいた。今日の説教テキスト(民数記21章4節以下)には、その頃起こった一つの出来事が記されている。

 聖書巻末の「地図2」によって「出エジプトの道」をたどると、シナイ半島をアカバ湾沿いに北上したイスラエル民族は、「ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回」(4節)した後、死海の南から大きく東側を回る道を通ってカナンに接近した。その頃、人々は長い砂漠の旅に疲れ果てていたためか、「神とモーセに逆らって」(5節)不平を言った。それも、蔭でそっと洩らした、という程度ではない。面と向かって大声で詰問したのである。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」

 この不従順・不信仰を神は裁かれた。これまでも「疫病の流行」などの仕方で裁きが下ったことがあるが、今回は、「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」(6)。

 裁きのために送られた蛇は、人畜無害な「やまかがし」や「青大将」などではなかった。「炎の蛇」であった。「炎の蛇」とは何か?

 預言者イザヤは、2回ほど、「飛び回る炎の蛇」(イザヤ書14章29節、及び30章6節)に言及している。これは猛毒をもつ毒蛇で、しかも、どうやら翼が生えていたらしい。そこら中を飛び回っては、人々を毒牙にかけるのである。毒蛇というだけでも恐ろしいのに、羽の生えた毒蛇! 食べ物のことで居丈高に不平を言っていたイスラエルの人々も一遍でシュンとなり、モーセに詫びを入れて来た(7節前半)。

 その時、「モーセは民のために主に祈った」(7節後半)とある。この小さな言葉に、私は感動する。モーセはただ権威を振り回すだけの、いわゆる「カリスマ的」指導者ではなかった。もちろん、カリスマ性は備えていたが、同時に、「苦しむ民の声を聞く人」であった。出エジプト記3章7節によれば、彼が主なる神(ヤハウエ)から「民族解放」という重大な使命を与えられたとき、神はこう言われたという。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。それ以来、モーセは神と共に絶えず民の苦しみの声を聞きとり、その意味を理解し、民がそこから救われるようにと祈る人となった。5節「神とモーセ」と並べているのも、そのことを暗示しているであろう。

 預言者とは、このような存在である。そして、どの民族にも、災厄を免れ・死から救われるために命がけで祈る人がいなければならない。今日、人々にとっての「災厄」とは偏狭なナショナリズムであり、「死」とは戦争とその準備である。そのような災厄と死から、日本人だけでなく世界のすべての人が救われなければならない。そのために力を尽くして祈るのは、教会の預言者的責任である。

 さて、話を本筋に戻そう。神は、このモーセの祈りに答えて言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」(8節)。これは奇妙な話である。カラスの害を防ぐために、カラスの死骸を竿に吊るして畑に立てるというやり方があるが、恐らくはそういう民衆の習慣がヒントとなって生まれた話なのかもしれない。

 とにかく、モーセは神のこの命令に従って蛇を造った。だが、それは突然、「青銅の蛇」に変わっている。「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(9節)。多分、これは別の伝承に基づくものだろうと学者たちは言う。後に紀元前8世紀の終わり頃に、ユダのヒゼキヤ王が王国内にはびこっていたあらゆる偶像礼拝を止めさせた際、「モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた」(列王記下18章4節)という記述がある。それとも関係があるかもしれない。しかし、今はそれにこだわらない。問題は「青銅の蛇」だ。一体、これは何を意味するのだろうか。

 私が最近使っている『牧師用カレンダー』には、受難節第5主日の説教テキストとして今日の箇所が指定されている。この箇所が、正に「受難節のために」選ばれている理由は何だろうか。私はこのことについて何度も考えねばならなかった。その上で辿りついた結論はこうだ。

 イスラエル民族が40年に及ぶ荒れ野の旅の中で繰り返し経験したように、私たちの人生にもしばしば危機が訪れる。先ず衣食住に関する問題。それが十分でないところから来る不平不満。前途に対する不安や恐れ。それに伴って現れる肉体的・精神的な苦しみ。生きる意味の喪失。「昔は良かった」と過去を懐かしむ後ろ向きの姿勢。

 そのような時、私たちの誰もが見上げることのできるもの、いや、見上げなければならないものがある。モーセは、それを高く掲げたのであった。それが「青銅の蛇」であって、それは「神が共にいて下さる以上、我々の命を脅かす脅威はもはや存在しない」という人生の真実の象徴としてそこにある。誰もがそれを仰ぎ見て、この人生の真実を知ることができるように、この「青銅の蛇」は高く掲げられた。

 私たちにとって「青銅の蛇」とは何か? 十字架につけられ、死人のうちから復活したイエス・キリストに他ならない。この箇所が受難節の説教テキストとして選ばれたのには、矢張り深い意味があったのである。


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