2006・2・26

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「自分の家に帰りなさい」

廣石 望

イザヤ書65,1-10マルコ福音書5,1-20

I

今日のテキストは、有名な「ゲラサの悪霊憑きの癒し」の物語です。このテキストのあるドイツ語訳を読んで、思わずぎょっとさせられました。三節のはじめ「この人は墓場を住まいとしており」という箇所です。私はこれまで、この人は墓石の間をうろうろ歩いたり、傍に植えられた樹のたもとで眠ったりしていたのだろう、と勝手にイメージしていました。しかしそのドイツ語訳には、「彼の住居は墓の洞穴の中にあった/Der hatte seine Wohnung in den Grabhoehlen」とあります(Die Evangelien. Die Psalmen, Zuercher Bibel, Fassung 1996)。この訳は確かに可能です。すると、このゲラサ人は、墓地として使用された山の洞窟の暗がりの中で、そこに安置され、次第に朽ち果ててゆく多くの死者たちに囲まれて、たった一人で暮らしていたことになります。何と恐ろしいことでしょう。闇の中の岩壁には、腐敗してゆく身体から放たれる異臭が染み付いていたはずです。彼は死者たちの魂が襲いかかってくる幻影を見たかも知れません。気が変になってしまうのも無理はありません。彼は生きながら死に囲まれて、狂気の時間を生きていた。そして、こんなところにしか安住の地を見出せない人の運命を思うとき、何ともいえず悲しくなりました。

 このゲラサ人は「家族」から切り離されて生きています。じつはイエスも「父の家」を棄てて放浪しました。マルコによる福音書は、イエスに関して、「あの男は気が変になっている」といううわさがあったと記します(マルコ3,21)。「気が変になっている」と訳されたギリシア語は、そのまま訳せば「外側に立つ」という意味です。このうわさは、イエスが土地や財産、職業や家族からなる「父の家」を放棄して、社会のアウトサイダーとして生きたことに対する非難、つまりイエスが〈父の家の外側に立つことで、人の道から外れている〉という非難であったかも知れません。

当時の社会において「ふつう/まとも」とされる生活スタイルから外れて生きる人は、おしなべて「あいつは頭がおかしい」と中傷されたのだと思います。

II

先週の半ばまで私は、学生たちとともに、インド・ケララ州にいました。ケララ州はインド亜大陸の南端の西側にある、アラビア海に面した緑豊かな州です。キリスト教徒が多く暮らし、教育水準も高いところです。そこにSEEDS-India(Socio Economic Educational Service India)という名のキリスト教系NGOがあります。代表者のトマス・マシュー氏は日本の「アジア学院」の卒業生です。SEEDSのさまざまな活動の中に、家庭に問題がある子どもたちに対する支援があり、子どもたちとの交流プログラムがありました。

何人かの子どもたちは施設内に寝泊りし、そこから学校に通っています。他方、デイケア・サービスを利用し、寝るときは自宅に帰る子どももいます。母語が異なる隣の州から親たちが出稼ぎにきたという子ども、少数民族出身の子どもまでいて、バックグラウンドはさまざまです。それでも多くの子どもたちには、父親の違う兄弟姉妹がいます。インドにはカースト制が社会習慣として残っており、下位カースト出身者には貧しい人が多く、正式な結婚を行わないまま子どもたちが生まれてくるのです。お母さんが新しい男性と一緒に失踪したり、子どもが母親の恋人から虐待を受けたりするケースもあるそうです。子どもが施設と家庭を行ったり来たりするケースもあると伺いました。家が貧しく、自宅にトイレがないために、学校で友だちからバカにされることもあるそうです。この子たちには、いろいろな意味で「ふつうの/まとも」な「父の家」がありません。

子どもたちは日本からやってきた学生たちと一緒になって、よく笑い、よく遊びました。SEEDSは、子どもたちがきちんと教育を受け、ちゃんと自立して生活できるようになるために支援しています。トマスさんは、毎日の仕事を終えて夕食をすませると、そそくさとどこかに行ってしまいます。お尋ねすると、子どもたちのところに行って勉強を見てやるのだそうです。その時間が、自分にとってかけがえのない癒しの時間だと仰っていました。そして彼に対しても、「何の役にも立たないことに金と時間を浪費する変人」という中傷があるそうです。

III

 インドの子どもたちの状況は、決して遠い国の話とは思われません。日本における子どもに対する虐待も、基本的に同様の構造をもっているように感じます。とりわけ子どもが「心の病い」を抱えている場合、その病いを理解しようとしないケースがたくさんあるはずです。例えば動けないのに「怠けている」と責めたり、「私たちにそんな病気の子が生まれるはずがない」といって適切な治療を受けさせないまま放置して、かえって病状を悪化させたり。こうした病いを抱える人々にとって、本来安住の場所であるべき「家」は、最初の疎外と差別が始まる場所です。

イエスの「身内の人たち」もまた、おかしな連中と一緒に村々をほっつき歩いて、病気治しなどといういかがわしいことをしている長男イエスを「一家の恥」と感じ、彼を取り押さえて村に連れ帰り、世間の目から隠そうとしたのかも知れません。

IV

子どもたちの苦しみ、とりわけ「心の病い」をもつ者の苦しみには、それが個人の抱える病いや苦しみであると同時に、時代や社会が抱えている矛盾や抑圧がそこに噴出していると感じられるケースがあります。このゲラサ人の場合も、そうです。

「ゲラサ」とう町は、「十の町/デカポリス」と呼ばれるギリシア系の都市連盟のひとつです。デカポリスはローマ帝国の属州には編入されず、シリア州総督の管轄下に置かれて、大幅な自治権を認められて商業が栄えました。都市とその周辺を実効支配していたのはギリシア系の入植者たちです。この地方で「豚」が飼育されていたというのは(11節)、ここがユダヤ人から見れば「穢れた」土地であることを示します。さらにこの人物に憑依した悪霊は、イエスから名を尋ねられて「名はレギオン。大勢だから」と答えています(9節)。この返答は衝撃的です。「レギオン」とはローマの「軍団」を意味するラテン語「レギオ」のギリシア語形だからです。通常、一個軍団は歩兵5,000〜6,000人、騎兵120騎から成っていたそうです。〈私の名はローマ軍である〉と、この悪霊は名乗るのです。悪霊が豚の大群に乗り移って溺れ死んだという報告は(11-13節)、明らかにユダヤ人の視点から物語られています。

悪霊に憑かれた人自身がユダヤ人であったのかどうかは不明です。しかし何れにせよ、この人物の苦しみの背後には、ユダヤ人社会と異教徒社会の間にあった文化差別が垣間見えます。また商業的に繁栄するギリシア系の都市と、主として現地民族が暮らす農村地域との間には、大きな経済格差が存在したはずです。そして「レギオン」が悪霊の名であることは、ローマ帝国が、その圧倒的な軍事力によってこの地域全体に及ぼした抑圧の証拠です。

 さらにこの人をとりまく地域共同体と、彼自身の個人史を見ると、この人が幾重にも疎外された生を生きていたことが分かります。彼が生活しているのは、ユダヤ人にとって強度な穢れを意味した墓所です。通常、墓所は村の居住地域の外側に作られました。さらにこの人には、鎖や足かせで身体を拘束されるという虐待を受けた経験があります(4節)。虐待したのは、おそらく親族です。さらに現在は、地域共同体からまったく切り離されて生活し、その孤独な生活の中で一人叫び続け、さらに石を用いて自傷行為を繰り返しています(5節)。この人の自尊感情は、ズタズタに引き裂かれた状態です。彼は、あたかも時代と社会の矛盾を一身に引き受けたかのような苦しみの中にありました。

V

 イエスの活動は、自ら率先して、当時の社会で「ふつう/まとも」と考えられた生活スタイルから離脱し、デモンストラティヴに社会規範を転倒させることで、社会や共同体から疎外された人々を解放し、彼らを再び共同体に統合しようとするものでした。イエスは、悪霊を祓ってもらい正気に戻った男性に命じて、言います、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)。

 では私たちは、家族と地域共同体に対して、どのように関わるべきでしょうか。そのヒントになるかも知れないイメージをお話します。先ほど言及したSEEDS Indiaは、聴覚障がいをもつ人々の教会を支援しています。私たち一行は、先週の主日礼拝をそこで共にまもりました。インド社会では、手話を使うこと自体が違和感をもって受け止められ、手話を使う人はそれこそ「気が変である」と偏見の目で見られることもあるそうです。事実、彼らの礼拝堂の向かいには、壮麗なシリア正教教会がありましたが、ほとんど交流はないそうです。

さて、彼らの礼拝堂は、小さな教室ほどの木造モルタル塗りでした。四方の壁のほかには、前方に黒板と説教壇があるだけです。説教者は、英語と当地の言葉であるマラヤラム語でキーワードを黒板に書きつけながら、手足をいっぱいに使って説教しました。会衆は、手話を用いて生き生きと讃美歌を歌い、祈りました。学生たちも、私たちの教会学校の子どもたちがするように、まず手話を交えて日本語で歌を披露しました。そして次には、マラヤラム語に訳した大きな歌詞カードを見せながら、歌詞の意味を説明し、最後には会衆の人々とともに手話で歌いました。私にとって、声なき歌をともに歌うことは非常に印象的で、ほとんどスピリチュアルな経験でした。

 学生たちが歌ったのは、イ・ミンソプさんという人が韓国語で作った「君は愛されるために生まれた」という歌の日本語訳です。

きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている
きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている
永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ
きみの存在が 私にはどれほど大きな喜びでしょう
きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている
きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている

(作詞・作曲/イ・ミンソプ 訳詞/神 明宏 朴 鍾弼 & B.B.J、

(C)2004 Lee Min Sup/LIFE MUSIC(WORD OF LIFE PRESS MINISTRIES)

 私にはこの歌が、「レギオン」にとり憑かれたゲラサ人を癒したイエスのメッセージの核心を、分かりやすい言葉で表現しているように思われてなりません。「君は愛されるために生まれた」---私たちを自分自身や周囲の人に対する疎外から解放するのは、このメッセージです。だから「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(19節)。私たちの帰る家が、今週も、そのような神の創造的な力が働く場所となりますように!


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