2006・2・12

「私たちの誇り」

村上 伸

エレミヤ書9,22-23;コリント二10,12-18

 預言者エレミヤの言葉。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな」エレミヤ書9章22節)。

 「知恵ある者」とは、生半可な知識をひけらかす小賢しい人のことではない。マルチン・ブーバーはこれを「賢者」と訳した。本当に聡明で賢い人のことである。次の「力ある者」も、単なる「マッチョ」ではない。ブーバー訳では「英雄」である。真に勇気ある英雄のことだ。「富」については、改めて説明する必要もないであろう。

 賢明さと英雄的な勇気と富――これらを自らのものとすることは多くの人の願いである。その目標が達成されたとき、人はそういう自分を誇らしく思っても良い筈である。ところがエレミヤは、それらのものを「誇るな」と言う。それらが誇るに値しない・つまらないものだからではない。むしろ、反対である。誇るに値するものであるからこそ、それらを「誇るな」と言う。一体なぜであろうか?

 「それ以上に誇るべきもの」が存在することをエレミヤが知っていたからであろう。だから、彼は続けてこう言う。「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたし(=主なる神)を知ることを」(23節前半)。

 ここで、今まで自分自身にだけ向けられていた私たちの視線は、別の方向へ、神の方へ向け変えられる。「目覚める」とはそういうことだ。今まで私たちの目は、目に見えるこの世の現象に惹きつけられていた。だが今や、その目は開かれて、それらの現象の背後に働く神を見る。それは、「わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ」(23節後半)と言われるような神である。この神を知ること。誇るというなら、このことをこそ誇らねばならない。だが、この誇りは、「何を、どのように見ているか」ということと関連している。

 先週、私は「白バラの祈り」という評判の映画を見た。「白バラ」とは、反ヒトラー抵抗運動を行ったミュンヘンの若者グループの名前である。彼らは、ヒトラーの始めた戦争やユダヤ人皆殺し政策が人道に反するということを明確に認識し、こうした悪は少しでも早く終らせねばならないと訴えるチラシを作って、あちこちに配って歩いた。そのために逮捕され、反逆罪に問われて、結局7名がギロチンで処刑される。

 その中に、ハンス・ショルとゾフィー・ショルという兄妹がいた。1943年2月18日に、兄のハンスが突然、自分たちの通うミュンヘン大学にそのチラシを撒く、と言い出す。仲間たちは「それは危険だ」と言ってやめさせようとするが、彼は「スターリングラードのドイツ軍が大敗した後は情況が変わった、自分たちの行動によって人々は一斉に立ち上がるだろう」と主張し、どうしてもやると言う。ゾフィーも兄に同調し、二人で「光のホール」と呼ばれる場所のあちこちにチラシを置く。一部はゾフィーによって3階から撒かれ、「雪のように」降った。だが、二人は学内にいたゲシュタポ(国家秘密警察)の手先に怪しまれて拘束され、取調官に引き渡される。

 厳しい尋問が始まった。実は、この時の調書の膨大な記録が旧・東ドイツの国家保安局(シュタージ)の資料室に保管されていて、1990年、東西ドイツ統一に際して明るみに出た。今度の映画は、その新資料に基づいて作られたのである。

 カメラは、主として妹のゾフィーに密着する。この時、彼女は21歳。「白バラ」の最年少メンバーで、ミュンヘン大学哲学科の学生であった。この女子学生が、海千山千といった感じのゲシュタポ取調官の冷酷な視線の前で少しもたじろがず、あくまで理性を失うことなく堂々と渡り合う。圧巻というほかはない。

 私はこの映画を見て強く打たれたが、それは何よりも彼女の「誇り」を感じたからであった。もちろん、彼女には弱さもある。取調べの後で疲れ切って獄房に帰ると、両親のことを思い仲間のことを気遣って涙を流す。時に崩れ折れそうになる。その時にゾフィーが捧げた祈りには、深く胸を打たれた。「神様、心の底からお願いします。私はあなたに呼びかけています。あなたのことは何も知りませんが、あなたと呼ばせていただいています。私がわかっているのは、あなたの中にしか私の救いは存在しないということだけです。どうか私を見捨てないで下さい、わが栄光の父よ」

 しかし、取調官の前に立つ時は、彼女はシャンとして弱みを見せない。この誇りは、フライスラーによる公開裁判の場面では一層際立つ。この裁判長が居丈高に怒鳴って被告たちを罵り、「お前たちは国家に反逆する内容のビラを配ったことを恥じてはいないのか」と詰問するのに対して、ゾフィーは胸を張って「はい、恥じてはいません」と答え、「兄と私は、ビラによって人々の目を開かせ、他国の人々とユダヤ人に対する残虐な殺戮行為を少しでも早く止めさせようとしたのです」と断言する。

 先程私は、誇りというものは「何を、どのように見ているか」ということと関係がある、と述べた。ゾフィーと彼女の仲間たちは、当時のヨーロッパの現実を、多くの市民や名も無き兵士たちが苦しみの中で死んで行くという現実を、とりわけユダヤ人の大量虐殺という理不尽な現実を、正確に見ていた。こんなことは神様がお許しにならない。そのことを広く世間に訴えるために、自分たちは行動しているのだ。この自覚が彼らに誇りを与えたのである。それと対照的に、ゲシュタポの取調官や裁判長フライスラーは、ナチスの唱える空疎なスローガンに囚われているだけで、本当の現実を全く見ていない。彼らから人間としての誇りが全く感じ取れないのも当然であろう。

 このように見てくると、エレミヤの言葉が真実であることが分かる。誇る者は、目覚めて主なる神を知ることを誇れ。そして、主なる神を知ることの中には、真の現実を知ることも含まれるのである。


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