2005・12・24

「この方こそ主メシア」

廣石 望

ルカ福音書2,8-12

I

ルカ福音書の有名なキリスト降誕の物語には、「恐れ」のモチーフが現れます。羊飼いという職業は、定住する自作農や手工業者から見れば、しばしば自分たちの土地に無断で入り込み、通り過ぎてゆく人々であったからでしょうか、当時のユダヤ教社会で、「泥棒」「嘘つき」と見なされていました。裁判の証言に立つ資格も認められていなかったのです。その羊飼いたち、夜中に群れの番をしながら野宿していた彼らに、一人の主の天使が近づき、主の栄光が彼らの周りを照らしました。そのとき羊飼いたちは「非常に恐れた」とあります(9節、ギリシア語原文は「大いなる恐れを恐れた」)。

「恐れ」は、高度に科学技術が発展した現代の私たちにとっても、じつは親しいものです。例えば、住宅の耐震強度を偽装した事件の報道に接すると、そこにいろいろな意味の「恐れ」があることに気づきます。手抜き工事をしなければ注文がもらえないのではないか、つまり周囲から「あの人は使えない」と思われた途端に、その世界で生きてゆくことができなくなるのではないか、という恐れがあります。自分の関わった悪事が暴かれて追求され、それを人前で認めてしまったら今の地位と信用を失い、社会から永久に続く制裁を受けるのではないか、という恐れがあります。そして何より、私が住んでいる建物はわずかの地震でも倒壊してしまうのではないか、私は騙されたのではないか、という恐れがあります。

私は失敗するのではないか、隠してきた失敗をばらされるのではないか、また私は裏切られるのではないか――どんなに安全な道を選んでみても、幾重にも安全策を講じてみても、またいかに利害を同じくする仲間で自分の周りを固めてみても、私たちは根源的な恐れを心の中から完全に追い払うことはできません。この世界はどうなってしまうのだろう、私の人生はどうなるのだろう、子供たちはどうなるのだろう、という不安と恐れは私たち自身のものです。

羊飼いたちは、社会の意思決定のプロセスからは排除された人々でした。彼らは、宮殿と軍隊を所有し、外国の支配者と縁戚関係を結び、税金を取り立てる王とは違います。神の意思を解釈し、民に告知する立場にあった祭司たちとも違います。この人たちは、自分たちの運命を自らの手の中に持っていません。「野宿をしながら」という表現は、頭の上に雨露をしのぐ屋根を持たない仕方で生活する、現代風に言えば「路上生活を送る」という意味に理解することもできるでしょう。その彼らに「主の天使」が現れ、まばゆい輝きが彼らを照らしました。それは、自分で自分を守るすべを持たない人々にとっては、ほとんど本能的に「恐れ」の感情を呼び覚ますできごとだったのです。

II

天使は言います、「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)。――ここで「告げる」と訳されている言葉は、ギリシア語の原文では、「福音(エウアンゲリオン)」という単語の動詞形です。「大いなる喜び〔の福音〕を告げ知らせる」と訳すことが可能です(岩波版『新約聖書II』の佐藤研氏による訳)。

「福音」という言葉は、原始キリスト教会が、キリスト教の中心的なメッセージを一言で言い表すために使いました。その内容は、キリストの死と復活です。ところが興味深いことに、この「福音」という語は、ローマ帝国における皇帝崇拝においても使われました。現在のトルコ、小アジアの都市プリエネから出土した、紀元前9年に発令された暦の勅令に関する碑文があります。小アジアの諸都市が、皇帝アウグストゥスの誕生日である9月23日を「元旦」とする決定を下した経緯が、そこに記されています。皇帝アウグストゥスについて、次のような文章が現れます(『東方ギリシア語碑文選集』458、32-41行)。

我らの生を神的な仕方で統治する摂理は、熱意と大いなる御心をもって、アウグストゥスをもたらすことで、我らの生に最も美しい飾りを与えた。摂理はアウグストゥスを、人々の幸福のために徳で満たした。彼は、我らと我らの子孫にとっての救い主として、戦争に終わりをもたらし、平和を作り出した。皇帝はその現われを通して、彼以前にすでに福音を先取りした者たちのあらゆる希望を超越したので、すなわち彼以前に生きていた善行者を凌駕したのみならず、未来の善行者から、彼に先んじて何かをなすという希望をすべて取り去ったので、そして最後に、世界にとって神〔である皇帝〕の誕生日が、彼に由来する福音の始まりであったので……。

この碑文では、ローマ皇帝アウグストゥスが、平和をもたらす世界の「救い主」であり、神なる皇帝の誕生日が、世界にとって新しい時代の幕開けを告げる「福音」の始まりであると、かなり仰々しい言葉で主張されています。

では、ルカ福音書の天使は、羊飼いたちに何と言ったでしょうか。天使はこう言ったのでした(10-11節)。

恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大いなる喜び〔の福音〕を告げ知らせる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

いったい「救い主」とは誰なのでしょうか。皇帝アウグストゥスでしょうか、それともベツレヘムの赤ん坊でしょうか。そして何が「福音」の始まりなのでしょうか。ローマ皇帝の誕生日でしょうか、それとも羊飼いたちが祝った馬小屋のクリスマスでしょうか。

ルカ福音書の誕生物語が、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(ルカ2,1)というエピソードで始まるのは、おそらく偶然ではありません。この物語では、「世界の救い主」と讃えられた皇帝アウグストゥスが、全世界に向けて人口登録を命じます。もちろんそれは民衆から税金をしぼりとるためです。しかしこの圧政的な命令は、神によって、ダビデの町ベツレヘムにおける真の世界救済者の誕生を演出するために利用されるのです。「この方こそ主メシアである」という天使の言葉には、〈イエスこそ主である、ローマ皇帝ではない〉という響きがあります。

III

牧草地を転々とし、地域共同体から半分排除されたような仕方で、野宿しながら生計を立てていた羊飼いたちから見れば、住民登録を命じるローマ皇帝が、どうして「世界の救い主」などでありえたでしょうか。そんな皇帝の即位が、どうして「福音」などでありえたでしょうか。さらに言えば、今日ダビデの町に生まれたと天使のいう「救い主」が、たんにもう一人の新しいローマ皇帝であったとしたら、それは新しい戦乱を予感させるものであったに違いありません。天使が「この方こそ主メシアである」と告げる者は、どのような意味で本当に「救い主」「福音」なのでしょうか。

古の預言者イザヤは、平和の時代が到来することを期待しつつ、次のように語りました(イザ9,1.4-5)。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
・・・
地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
一人のみどり子が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

ここでは、一人の男児の誕生に託して、戦争の終結と平和の始まりが唄われています。しかし、ローマ皇帝アウグストゥスもついてもまた、彼は「戦争に終わりをもたらし、平和を作り出した」と言われたのでした。では、真の平和とは何なのでしょうか。私たちの天使は、羊飼いたちにこう告げました(12節)。

あなたがたは、布に包まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

この小さな赤ん坊のどこが、何かの「しるし」なのでしょうか。この子は、何の特別な輝かしさも持ち合わせていない、ただの貧民の赤ん坊です。注解書を読んでも、「布に包まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という表現に、旧約預言の成就といった特別なシンボリズムはどうやらなさそうです。ですから、この表現はそのまま受けとるのがよいでしょう。布に包まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が「しるし」であるとは、おそらく次のことを意味するのではないでしょうか。すなわち、さまざまな恐れの中にある、いと小さき者の、傷つきやすく柔らかな命こそが「福音」のしるしなのだ。この世界で小さくされた者たちの命こそが、神の命の最も純粋な表れなのだ、と。そして実際、イエスの生は、小さくされた人々の悲しみや喜びに寄り添う者としての歩みでした。「この方こそ主メシアである」(10節)。

皆さん、お一人おひとりに、メリークリスマス!


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