旧・東ベルリンのほぼ中央にベルリン=ブランデンブルク州教会の本部がある。私たちの教会の親しい友人であるアンネリーゼ・カミンスキーさんは、この建物の4階に州教会総会議長としての執務室を持ち、二人の秘書に助けられて仕事をしている。私はベルリンに行く度に、この部屋に彼女を訪問して話し合うことを楽しみにしているのだが、今回は特に彼女の好意で、滞在中、図書館を使わせて頂くことができた。毎日そこに通って必要な資料に目を通した。有難いことであった。
その建物の隣りに小さな本屋さんがあって、神学書や、子供向けの楽しい本が並んでいる。ある日、仕事に疲れた私は、そこで本を見ていた。すると10歳前後と思われる女の子が3人、カヤカヤと楽しそうに談笑しながら入ってきた。言葉はドイツの子と変わらない。だが、顔はどう見てもアジア系である。帰り際に傍に寄って、「あなたたちはアジア系のように見えるけれども・・・」と声をかけたところ、誇らしく胸を張って「その通りです」と言う。「どこから?」と重ねて聞くと、「ベトナムです」。
翌日またその本屋に行くと、前日のやり取りを聞いていたらしいドイツ人の女主人が問わず語りに、「あの子たちの一家はベトナムからの移民なのです。今までずいぶん苦労をしました」と話してくれた。苦しい中で両親は一生懸命に働いて子供たちを育て、やっとこの頃暮らしも落ち着いたのだという。「時々、両親がお小遣いを上げるらしいの。するとあの子たち、本が大好きなものですから、ああやって本当に嬉しそうにここに買いに来るのです。明るくて優しくて、私たちもあの子たちが来るのをとても楽しみにしています」。この話を聞いて胸が温まるような思いがした。
それと同時に、私には思い当たることがあった。まだ「ベルリンの壁」が落ちる前、80年代に東独政府は他の社会主義国から沢山の外国人労働者を入れたことがある。ベトナム人とモザンビーク人(アフリカ)が特に多く、いきなり200人ものベトナム人が小さな村で暮らし始めるようなこともあった。当然、いろいろな形で摩擦が生じる。だが、東独政府は「西側諸国におけるような人種差別はわが国には存在しない」という建前を振りかざしていたために、現実には問題があるのに、それと直面することを避けていた。
だが、89年11月9日に「壁」が落ちると問題が俄かに表面化した。東西ドイツの再統一は善いことであった。これは誰も疑わない。だが、「われわれは一つの民族だ!」という民族的高揚感が、いつの間にか「外国人は出てゆけ!」というスローガンに変わった。その経過は微妙で、社会心理学者などが何故そうなったのかを研究しているが、確実なことはよく分からない。確かなことは、その後、「失業者の急増」という問題が起こったことである。その際、先頭に立って「外国人は出てゆけ!」と喚いたのはネオナチだが、一般市民の間にも外国人に対する敵意や憎悪は急速に広がった。こうした社会の風潮の中で、あのベトナムから来た家族がどういう目に遭ったか。具体的なことは何も語られなかったが、私には大体推察できる。
しかし、あの少女たちの屈託のない様子を見ていると、一番辛かった時期はもう過ぎたのだろうと思われる。周りの社会も、少しは落ち着いて来たのだろうか。彼女たちを泣かせるような社会にならないように、と心から願うものだ。
さて、ここで今日のテキストに目を留めたい。「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように」(12)。何という愛の充満がここにはあることであろう! これが、人間の本当の暮らしなのだ。
私たちがまだ愛知県の安城で伝道をしていた頃、妻の父が訪ねて来てしばらく一緒に過ごしたことがある。引退するまで、ある銀行の責任ある立場で精力的に働いて来た人だが、一緒に暮らす中で、教会が目指していることを自然に感じ取ってくれたらしい。ある日、しみじみとこう言ったことがある。「こういうのが本当の人間の暮らしなんだなあ」。お互いの愛と、すべての人への愛が豊かに満ちあふれること、ただそのことを祈り求めて行く生活。これが、本当の人間の生活なのだ。
もちろん、これを書いているパウロの周りには、それとは違う別の現実もあった。パウロがテサロニケに滞在していた頃、ユダヤ人は彼に何か違う匂いを嗅ぎつけ、彼に対して敵意を持ち、その敵意を声高に喚き、遂には暴動を起こして彼をその町から追放した。これが、しばしばこの世の現実である。
先ほど私は、東ドイツで起こったことについて、つまり、「われわれは一つの民族だ!」という民族的高揚感があれよあれよという間に外国人への偏見・敵意・憎悪につながって行った、という事実について述べた。愛国心やナショナリズムが殊更に強調されるようになると、必ずと言っていいほど危険な動きが始まる。これは何もドイツには限らない。現在の日本が正にそうである。それは、自分の民族に対して自然に感じる「懐かしさ」や「愛情」とは別のことだ。
パウロは、自分を追い出した敵意の人々がまだいるテサロニケの町に、再び行きたいと切望する。「どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように」(11)。それは何のためか?
単純に言えば、愛を届けるためである。パウロを追い出したこの町にも、愛によって生きている仲間がいる。彼らとの交流を通じて、この町の真ん中に、真の人間的生活の柱となる「愛」の楔を打ち込む!そのために行きたいと彼は願ったのであった。