2001・4・1

アンネリーゼ・カミンスキー

出エジプト記 3,13-15 ; および 32,1-6

 

愛する皆さん、愛する姉妹たち、兄弟たち!

「そうですね、もし神様を見ることができ、把握することができるなら、その時は信じられるかも知れませんね」。このような言い方に、私たちは時々出会います。イースター物語に出てくる「疑うトマス」(ヨハネ 20,25)もそう願っていました。彼は、信じる前に先ず見たい、手で触りたいと言います。

人間はいろいろな条件を持ち出します。そして、神をそれに従わせようとする。しかし、これが、あれほど私たちが持ちたいと思っている神でしょうか? それは、何もかも自分の手の中に握りたい、勝手に操作して自分の願望のために使うことができるような神を持ちたい、という願いに過ぎないのではないか?

神への問いは大古からあります。旧約聖書の多くの物語が、既にそのことについて報告しています。

イスラエル民族が長くエジプトで囚われの状態にあった後で約束の土地に入ることを許された時、モーセは何度も繰り返して神への問いと直面しました。

最初彼は、「この民族を囚われの地から導き出せ」という、神から与えられた任務を拒否しようとしたのです。彼が持ち出した論拠は、出エジプト記3,13以下に書いてあるようなことでした。

しかし、それでもまだ、モーセは満足しません。神が彼に現われたなんて言っても、民は彼を信じないかもしれない。

そこで神は、モーセがこのように躊躇していることに同情して、徴として一本の杖を彼に与えます。モーセがそれを使っていろいろな奇跡を起こすことができるように、というわけです。

神は、どれほどの忍耐をもってモーセと語り合っていることでしょう。しかも、その議論の仕方はどうでしょう。私は、これは実に驚くべきことだと思うのです。今日だったら、私たちはおそらくこう言うでしょう。「神は命令する側で、モーセは命令される側ではないか」と。

荒れ野を通って行く道は困難で、しかも長い。聖書はその大変さを詳しく描写しています。民は時には全く神によって心満たされ、夜は火の柱・昼は雲の柱に導かれて、感謝している時もありますが、神を疑って文句を言う時もあります。

モーセが律法の板を受け取るためにシナイ山の上で神の傍にいた時、それは人々にとっては余りにも長い時でした。

一体彼は、本当に帰ってくるのか。皆には見当もつきません。そして、その後に続くのはひどい物語です。イスラエルの人々はモーセの兄弟、祭司アロンに要求して、「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい」(出エジプト記 32,1)と言います。金の耳輪を溶かして、一頭の小牛が鋳造されます。

「すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」(4節)。

翌朝、彼らは金の小牛の周りで歓声を上げ、感謝の捧げ物を捧げました。

マルク・シャガールは1966年に一枚の石版画を書き、これを「金の小牛の周りでの踊り」と名づけています。

民は牛の偶像を熱狂して歓迎している。一つの像が、やっと目に見える形・手で触れる形でここにある。踊る人々は、よろめく人のような、夢中で浮かれている人のような印象を与えます。

牛の像の背後には、二人の大きな人物像が見えます。それは、この大騒ぎを演じている人々でしょうか?その内の一人は、多分アロンです。祭司の服を、彼は脱ぎ捨てている。彼は神へのすべての希望を失って、今はこの、全く情けない印象を与える金の小牛に依存しているのでしょうか?

モーセが山から帰ってきた時、どんなに驚愕してこの有り様を見たか。私たちはそのことを聞いています。そして、それにもかかわらず、彼はこの背信の民のために神に向かい、神がこの民を滅ぼさないようにと恵みを乞い求めるのです。

ダイナミックな物語で、呼んでいて本当に手に汗を握ります。

今日の我々の時代に、似たようなことがないでしょうか?

説教の始めに私は、今日でも多くの人が、手で触ったり目で見たりできる神を持ちたいと思っている、と申しました。その神を人は必要な時には歓迎する。その気にならなくなると、また脇へ片づける。多くの人は自分たちの宗教的な生活を、正にこのように見てはいないでしょうか?他の人々は、おそらく一人の人間を、しかも自己自身を、台座の上に立てて拝ませようとしている。

しかし、このような神は、助け・共に生き・私たちのために命を捧げてくれる神ではありません。

ボンヘッファーはこう書きました。

「我々が考え出す神。どんなことでもしなければならない、また、それができると我々が勝手に思っているような神。そのようなものとは、イエス・キリストの神は全く関係がない。神が何を約束し、何を成就して下さるかということを知るためには、我々は常に繰り返し、とても長い時間をかけ、非常に落ち着いて、イエスの生・言葉・行動・苦しみと死に思いを潜めなければならない。確かなことは、我々がいつも神の近くで、神の臨在のもとで生きることを許されているということ、そしてこの人生は我々にとって全く新しい人生であるということである。神にとって不可能なことは何一つないのだから、我々にとっても不可能なことはもはや何もない、神の意志がなければ、いかなるこの世の権力といえども我々を手にかけることはできない、そして、危険や困窮は我々を神に近づけるだけだ、ということである。確かなことは、我々は何一つ要求すべきではないけれども、すべてを祈り求めることは許されている、ということである。確かなことは、苦しみの中に我々の喜びが、死の中に我々の命が隠されている、ということである。確かなことは、これらすべてのことにおいて我々を支える確信の中に我々が立っている、ということである」。

ボンヘッファーはこの言葉において、我々にとってキリスト教の神とは何かということをを素晴らしい仕方で総括した、と私は思っています。

聖書の神は、ご自分の名前を「私はあなたのためにここにいる」という言葉で言い換える神です。この言葉は、愛の徴のようなものです。そうです、愛によって、神と彼に生かされている人間は互いに結ばれています。これは、汲めども尽きない愛であり、全生涯を通じて私たちを支えてくれる愛です。これが喜びの叫びを上げて賛美するための根拠なのです。詩編には素晴らしい賛美の歌があるし、クリスマス物語の中にはマリアの賛歌も、年をとったシメオンもあります。そして讃美歌の中では、多くの詩人たちが、今日に至るまで神への賛美を歌いました。私たちが礼拝の度毎に歌う歌です。

ですから、キリスト教信仰には第一に神を賛美することが属しているのです。そしてそれは同時に、お互いの交わりを創り出します。

神を賛美すること。これが私たちの職務です。日本、ドイツ、そして全世界の至る所にある教会で、私たちはこのことを喜んでいるのです。アーメン。


 
 



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