05・10・2

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「あなたがたの信仰によって」

村上 伸

イザヤ書58,6-14テサロニケ第一3,6-10

 10月は宗教改革を記念する月なので、先ずそのことに関連して語りたい。

 宗教改革の直接の発端が「免罪符」の問題にあったことはよく知られている。当時カトリック教会はサン・ピエトロ大聖堂建築のために抱え込んだ莫大な負債を処理するために、この「おフダ」を大々的に売り出したのである。代金の「コインがチャリンと音を立てるや否や、煉獄の火で焼かれている愛する者たちの魂はたちどころに苦しみから解放されて天国に移される」というのが売り口上だった。

 当時ヴィッテンベルク大学で聖書を講じていたマルチン・ルターは、このことに疑問を抱いた。聖書にはこんなことは書いてない! そこで彼は、1517年10月31日、「聖書に照らしてこの問題を検討しよう」と呼びかける「95か条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出したのである。その頃、ローマ教皇庁の決定は絶対で、反対する者などはいなかったから、ルターは全く孤独な戦いを挑んだわけである。

 しかし、時の勢いというものであろう。この小さな・勇気ある行動が、思いがけなく大きな反響を呼んで、彼は一躍、世界史の舞台に押し上げられる。初めの内はローマ教皇に対して忠実であった彼も、教皇庁とのやり取りの中で次第に先鋭になり、教会の在り方を厳しく批判する文書を次々に書くようになる。これらの文書は、発明されたばかりの「グーテンベルク印刷術」のお蔭で大量に印刷され、瞬く間に多くの読者を獲得する。影響は広範囲に及んだ。

 事態を重く見たヴァチカンは、1521年、皇帝の力を借りて、ヴォルムスに帝国議会を召集した。ルターはそこに呼び出される。そして、居並ぶ権力者たちから自説を撤回するように要求される。そのとき、彼は天にも地にもただ独りだった。恐怖を感じた。しばらく躊躇っていたが、こう述べと伝えられる。「私はここに立っている。これ以外に私の在りようはない。神よ、私を助けて下さい」

 ルターだけではない。信仰者はしばしば唯一人で神の前に立たねばならない。だが、それは単なる「孤独」とは違う。彼はむしろ「単独者」として、それも「祈りに応えて助け給う神」の前にいるのである。

 そして、「単独者」として神の前に立っている人は他にもいる。その人たちとの「連帯」が彼を支えるのである。ルターの話を続ける。彼が帝国議会が行われていた場所を出て独りで歩いていると、突然、覆面の騎士が現れて彼をさらう。それっきり行方不明になった。実は、その騎士はかねてルターを尊敬していたフリードリッヒ選帝侯の手先で、こういうやり方でルターをヴァルトブルク城の奥深くに匿ったのである。この城の中で、彼は聖書のドイツ語訳を完成させた。だから、信仰者は「単独者」として立たなければならないが、同時に、主イエスを信じる者たちの「連帯」の中で生かされているのである。この連帯から切り離された信仰生活などはあり得ない。

 最後に、この「連帯」について述べたい。連帯とは、パウロも言ったように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12章15節)ということである。

 パウロが以前テサロニケの町で伝道していたとき、彼に悪意を抱くユダヤ人に迫害されて「夜逃げ」同様に去ったことは前にも述べた。それ以来、パウロとテサロニケの信徒たちは強い連帯意識で結ばれた。そのことは、1章2-3節に明らかである。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを・・・心に留めているのです」。そして、3章5節によれば、パウロは「わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るため」に、最も信頼する若き弟子のテモテをテサロニケに派遣したという。

 ここからが今日の箇所である。その「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれた」6節)という。それに加えてテモテは、パウロとテサロニケの信徒たちの間の好意と友情にはいささかも変わりがないことを確認して来た。この報告は、苦労の多いパウロに溢れるような喜びをもたらした。「この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」(9節)。

 さらに意味が深いのは、7-8節の言葉であろう。このパウロの言葉を、青野多潮氏の正確な訳で引用したい。「兄弟たちよ、私たちはすべての危機と艱難に際して、あなたがたのゆえに、[すなわち]あなたがたの信仰によって、慰められた。なぜならば、もしもあなたがたが主にあって堅く立っているのなら、今、私たちは生きる[ことになる]からである」。この最後の一句は、『文語訳』では実に簡潔で力強い日本語だ。「汝等もし主に在りて堅く立たばわれらは生くるなり」

 祈り会にいつも出席されるある方が、よく「兄弟姉妹の信仰によって支えられて・・・」と祈られる。私はその言葉を聞く度に胸を打たれる。本当にそうなのだ。「あなたがた」が主にあって堅く立っているのなら、今、「私たち」は生きる。この深い連帯! これこそ、主イエスを信じる全世界の人々に与えられた祝福なのである。「世界聖餐日」に当たり、この連帯を覚えつつ聖餐式を守りたい。


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