2005・9・18

  05・9・18  ⇒MP3音声

「主の戒めに耳を傾ける」

村上 伸

イザヤ書48,17-19マルコ福音書9,14-29

「教会カンファレンス」開会礼拝の説教テキストに、私はイザヤ書48章17-19節を選んだ。それは、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」(18節)という聖句がカンファレンスの標語として「しおり」2頁に掲げられているからである。先ず、この標語について考えよう。

 これは「第2イザヤ」(イザヤ書40-55章)に属するから、時代背景が「第1イザヤ」(1-39章)とは違う。「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる」(17節)という言葉の背景には、「捕囚からの解放」という歴史的事実があった。第1イザヤの時代には生々しい現実であったアッシリヤ帝国の脅威は既に過去のものになり、第2イザヤは「大国による苦難から遂に解放された」という喜びに溢れていた。だから、この預言者の第一声は、「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(40章1節)だったのである。

神は、このように歴史を支配し給う。このことを知る者は、「わたしの(=神の)戒めに耳を傾ける」(18節)。「戒め」とは、人と神との関係・人と人との関係を示すもろもろの律法のことだが、十戒の冒頭に「わたしはあなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20章2節)とあるように、神の無条件の恵みが何よりも先にある。人間はその恵みに答えなければならない。そのように人間の側からの応答を求めたのが律法なのである。だから、「戒めに耳を傾ける」ということは、神の恵み・神の愛に注目することに他ならない。

このように「戒めに耳を傾ける」とき、初めて「あなたの平和は大河のように」流れるであろう。「平和」(シャローム)とは、単に戦争のない状態ではない。必要な衣食住があり、そこに生きる人々が自由に成長し、そして人々の間に愛と信頼が支配する。そのように調和の取れた社会の在りようを「シャローム」と言う。それは「大河のように」いつまでも続くだろう。また、そのときには「恵みは海の波のようになる」。「恵み」(ツエダーカー)は「義」とも訳される。それは、共に生きる人間の正しい在り方のことだ。そのような「正しさ」、愛と結びついた「義」が、「海の波のように」いつまでも変わらずに存在するようになるであろう。「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」。これが神の約束なのである。私たちは、どんな時もこの約束を信じて生きて行く。

ここで、第2イザヤよりも前の時代に生きた第1イザヤについて、少し述べておこう。この偉大な預言者は、紀元前8世紀、世界史的な激動の時代に活躍した。ユダヤは紀元前922年以来、北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂して対立していたが、イザヤは南王国ユダの都エルサレムから世界に目を配っていた。イザヤだけでなく、当時の預言者は皆そうだったが、驚くほど視野が広い。新聞もテレビもない時代に、どうやって情報を手に入れたのだろうか。とにかく、彼は隣接する諸民族のことはもちろん、メソポタミアの政治情勢も正確に掴んでいたし、エジプトやエチオピア、さらには地中海沿岸の諸国の動きまで把握していた。しかも、単なる「物知り」とか「情報通」ではなく、世界や人類、その歴史についての見方に「深み」があった。

それに比べると現代日本の政治家たちは、これだけ情報化した時代にいながら世界歴史の見方が浅薄で、視野がいかにも狭い。せいぜい自分の国のこと、それも目先の利益のことしか頭にないようだ。

 金曜の夜、私は池明観先生――元・東京女子大学教授。軍事独裁政権の暗黒時代に、毎月雑誌『世界』に「韓国からの通信」を書き続けて、弾圧されていた人々を励ましたT・K生はこの人である!――の講演を聞いた。彼は現代の預言者の一人だと思うが、世界の歴史を広い視野から、しかも信仰に基づく深い洞察をもって捉え、そこから「北東アジアの現状」について語ったのであった。

彼はこう語り始める。「北東アジアは今、世界で最もダイナミックに発展している地域です」。北朝鮮の問題があるとはいえ、大局的に見ると、日・中・韓の経済は大きく伸び、文化交流も進み、相互理解も深まっている。だが、残念なことに政治が遅れている。そのために、摩擦が強まったように感じられ、危機感も深まっているが、実際はかつてないほどに関係は良好なのだ、と言うのである。

同感である。最近『朝日新聞』の夕刊に、「ニッポン人脈記」という連載記事が載っている。心の広い善意の人々が、アジアの近隣諸国の人々との間に、どれ程深く、美しく、しかも揺るがぬ人脈を築き上げてきたか。ところが、しばしば政治がこの関係を阻害している。この政治の「後進性」。これは、要するに「視野の狭さ」と「浅薄な歴史理解」から来るのである。それはどの国にもあるが、日本において最も著しい。

今回のカンファレンスでは、「憲法」の問題を中心に考え、教科書や靖国参拝なども話題にするが、これらの諸問題において、日本の政治家たちには世界に通用するような見識がない。先週の選挙結果も、このことを証明している。

私たちの教会は、預言者に学びながら広い国際的な視野を持たねばならない。それは何よりも、世界の苦悩に敏感であること、それに対して私たちの目と耳と心を大きく開くことである。それが、「創造的少数者」の必要条件であろう。

 もう一つ、第1イザヤについて言いたい。当時、ユダヤはアッシリヤの脅威にさらされていた。この東の超大国は、B.C.722年にサマリヤを征服して北王国を滅ぼし、余勢を駆って南王国にも迫って来た。そのためにアハズ王は激しく動揺する。この頼りない王に対し、イザヤは「落ち着いて、静かにしていなさい」(7章4節)とたしなめ、軍事同盟によって国の安全を守るなどという試みは無益であると断言する。「武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する」(8章10節)。武装や軍事同盟ではなく、万軍の主・歴史の主である神を畏れ、ただ彼に信頼せよ!これは、「日本国憲法」第9条の精神と通じているのではないか。

このイザヤの剛毅な立場は、ただの「無為無策」でも「敗北主義」でもない。歴史に対する深い洞察に支えられた信仰的な決断だったのである。どんなに強大な国でも、決して永続はしない。「奢る平家は久しからず」というのは本当だ。現に超大国アッシリヤは、紀元前 609年には新バビロニア帝国によって滅ぼされ、そのバビロニアも 539年にペルシャ帝国に取って代わられた。この歴史の大きな動きを知るならば、その時々の支配者たちを必要以上に頼りにしたり、あるいは逆に恐れたりする必要はなくなる。そして、世界の歴史は私たちに教えている。神から人類に贈られた「良識」というものがあって、それが結局は粗暴な力を抑えるであろうということを。神はそのように歴史を支配し給う。イザヤはこれを信じたのであった。私たちも、この時代にあって、このことを信じよう。


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