今日の箇所の内容は単純である。つまり、パウロにとってテサロニケ教会の人々は「希望、喜び、そして誇るべき冠」(19節)であり、「誉れ」(20節)であるということ。要するにこれに尽きる。
これは「お世辞」のように聞こえるかもしれないが、そうではない。第一、パウロは心にもない「お上手」を言うような人ではなかった。次の第3章を読んでも分かるように、彼はテサロニケ教会の人々の神との関係、つまり、彼らの信仰を見て本当に心を打たれ、深く慰められていたのである。
どんな人でも、人間である以上、「100%良い」とか「100%悪い」とかいうことはあり得ない。良い所もあれば、悪い所もあり、その両面が混じり合っているのが人間である。そのような人間として、私は神と向き合う。そして神は、私の美点も弱点もすべてを知った上で、この私を「あるがままに」受け入れて下さる。そう信じる。少しばかり良い所があるからといって高ぶったり、悪い所があるからといって卑下したりしない。この私を「あるがままに」受け入れて下さる神の深い愛に信頼する。「主にしっかりと結ばれている」(3章8節)というのはそういうことであり、それがテサロニケの人々の信仰であった。そして、それはパウロにとっても、希望・喜び・誇るべき冠・誉れだったのである。
このことと関連して、今日は特に述べたいことがある。
「テゼ共同体」の創立者であり、現代の霊的指導者として多くの人々に敬愛されたブラザー・ロジェ(Roger Louis Shutz)が、8月16日地上の生涯を終えた。皆と一緒に祈っていたとき、同席していた30代の女性がいきなりナイフで彼を刺したのである。詳しい事情は分からない。この悲報は、世界中の教会に衝撃を与えた。23日にテゼで行われた葬儀には、ローマ教皇庁、東方正教会、英国国教会、世界教会協議会などの代表が参列し、国連のアナン事務総長からも弔辞が届いたという。
ブラザー・ロジェは1915年にスイスに生まれたプロテスタントのキリスト者である。1940年、25歳のとき、フランス・ブルゴーニュ地方のテゼ(Taize)という小さな村に移り住み、第二次大戦のために難民となって苦しむ人々の世話を始めた。戦争で引き裂かれた人々の心の傷を癒し、「見える和解と一致の小さなしるし、交わりの譬え」となることを目指して奉仕の生活を始めたのである。この志に共鳴する人々が次第に増えて、祈りと奉仕の生活を共にするようになった。初めは皆プロテスタントであったが、後にカトリックのブラザーたちも加わり、教会の枠を超えた「エキュメニカルな男子修道共同体」として広く知られるようになった。
私は1977年のイースターに、友人と二人でドイツから車でスペイン・バルセロナにボンヘッファーゆかりの教会を訪ねたが、帰途、どちらからとなく「テゼに寄らないか」と言い出し、少し回り道をして「正午の祈り」に参加したことがある。ほんの短い時間だったが、そのときに受けた印象は今に至るまで消えない。ヨーロッパ各地から集まって来た無数の若者たちが、雪解けの泥濘を物ともせずに天幕を張り、寝袋で眠り、自炊をしながら、時間になると祈りの場に集って来るのである。中央にしつらえられた簡素な祭壇の前に白い長い衣を着たブラザーたちが登場して正座する。この共同体で生み出された単純で美しい歌がいくつも歌われる。今日の礼拝で歌われる46番と26番もそうである。そして、祈りが捧げられる。その場に詰めかけた何百人という若者が黙って一緒に祈る。特別な説教があるわけではない。
たったこれだけのために、年間何万もの若者たちが世界各地からテゼに集ってくるのは何故だろうか? そんなにも彼らを惹きつけるものは一体何なのか?
テゼのブラザーたちはかなり前から日本でも活動するようになっているが、それに深く関わっている関西学院大学宗教主事・打樋啓史(うてび・けいじ)さんは、何が若者たちを惹きつけるのかは「自分にもよく分からない」としながら、恐らく本質的に重要な一点を指摘している。
テゼでは、「一人ひとりの人間をあるがままで、神に創られた善いもの、美しいものとして眺める眼差し」が支配的だというのである(『現代世界における霊性と倫理』、行路社、146頁)。打樋さんはそれに続けてこう言う。「テゼは罪の自覚ではなく、罪の状態を変容させる大きな愛とゆるしについて、そして神と共に歩む創造者としての人間について、ポジティブに語る。そこでは、若者たちの中に神の愛とゆるしの炎が灯され、それが消えることなく燃え続けていることが強調される」(同上、147頁)。現代の若者たちが、いや、若者だけでなく全世界が痛切に求めているものは、正にこれではないか。
ここで再び、パウロの言葉に戻りたい。
彼は、テサロニケ教会の人々が完全ではなく、欠点の多い人間であることを知っている。だが、パウロは彼らを「神に創られた善いもの、美しいものとして」見る。どんなに欠点の多い人間でも、一人一人はその中に神が創り給うた可能性を宿しているのだから、彼はこう言うのである。「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか」。一人一人は「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で」神によって評価され、受け入れられる存在なのである。
この終末論的な視点を、私たちも見失いたくないと思う。