2005・8・28

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「平和があるように」

廣石 望

エレミヤ書6,13-19ヨハネ福音書20,19-29

I

毎年8月になると「戦争と平和」について考えさせられます。今年は敗戦後60年の節目にあたり、とりわけ憲法9条の改正が政治日程に載せられていることもあって、新聞やテレビなどでもたくさんの特別報道がなされました。

 NHKのある討論番組で、靖国神社への参拝をめぐって、次のようなやりとりがありました。旧日本軍の兵士であった男性が、自分は「平和を祈るために参拝している」と発言し、おそらく韓国からの留学生である女性が、「そのような意図で参拝する人がいたとは驚いた」と反応したのです。二人は、戦争はよくないという点では、おそらく一致しています。しかし、具体的に「平和とは何であるか」について、かなり異なった意見を持っているように感じました。

 「戦争と平和」という表現は、平和とは戦争がない状態であるという理解を予想させます。この理解は決して間違っていません。しかし、では戦争がなければ、ただそれだけで平和がそこにあるのかと問われると、それは違うと感じます。例えば電車に乗ると、しばしば「テロ警戒にご協力下さい」というアナウンスを耳にします。ロンドンの爆弾テロ事件に際しては、最初は犯人の一人が射殺されたと報道されましたが、後になってこのブラジル人青年はテロ事件とはまったく無関係であったこと、警察は、背後から問答無用に頭部を狙い撃ちしたことが判明しました。ロンドンで起こったことは、東京でも起こるかも知れません。あるいはこのところ、アスベスト健康被害について連日報道がなされています。情報開示がなされていることは素晴らしいと思いますが、出来事そのものは、私たちがある会社で働いているだけ、ある地域に住んでいるだけで、家族の健康ばかりか生命までも危険に晒されることがあるということを示しています。あるいは、日本で外国人女性の人身売買がこんなにもはびこってしまったのは、社会がその被害者を「不法滞在者」として犯罪視するのみで、人権の視点が欠落していたことが大きい、と指摘されています。こんな社会は、いくら戦争がなくても、またうなるほどお金があっても、決して平和と呼ばれるには値しない、ましてや成熟した社会であるなど恥ずかしくて言えないと思います。

平和を戦争の否定と捉えるだけでは、つまり平和を戦争から理解するだけでは、平和の積極的な中身は見えてきません。戦争被害が非常に悲惨なものであること、戦争が悪であることを思い知るだけでは、今日この日を平和に生きてゆくことは、まだできません。子どもたちに平和に生きるすべを教えることはできません。戦争が再び起こらないための仕組みを作るための知恵を得ることはできません。平和は、戦争に固定された視点からだけではなく、まずは平和それ自体から理解されるべきです。

私たちは来月、教会カンファレンスを計画しています。主題は「私たちと憲法(9条、20条、24条)――キリスト者として私たちに何ができるか――」です。すでにこのタイトルが、「平和」の積極的な中身が何であるかについて大切な示唆を含んでいます。すなわち紛争の解決には武力でなく対話を用いること、特定宗教を政治に利用しないこと、そして人権を、とりわけ男女同権を重んじることです。

 他方で、平和はキリスト教にとって非常に重要な主題の一つです。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ロマ1,7他)という平和の挨拶は、今でも教会の礼拝でよく用いられます。そしてこの挨拶の根っこには、復活者キリストによる平和の挨拶があります、「あなたがたに平和があるように」。先ほどお読みした聖書の箇所で、復活者イエスは、この平和の挨拶を三度繰り返しています(19節21節26節)。まるでイエスは、この挨拶をするために復活し、弟子たちに顕現したかのようです。

II

しかしキリスト教に特徴的な平和について考える前に、戦争から平和を見たとき、平和がどのように理解されるかについて、大切な点を見ておきたいと思います。

ラテン語の格言に、「平和を望むなら、戦争の準備をせよSi vis pacem, para bellum」というものがあります。4世紀から5世紀にかけて活躍した軍事著述家ウェゲティウスに遡る表現だそうです。ローマ皇帝アウグストゥスが帝国にもたらした繁栄と平和を記念して、都市ローマには祭壇が建立されましたが、この祭壇は、たいへん象徴的なことに、軍神マルスの野に建てられました。このマルス神は、ローマ貨幣に「平和をもたらすマルスMars pacifer」と刻印されています。弁論家サルスティウスは、「賢者たちは、平和のゆえに、戦争を遂行するsapientes pacis causa bellum gerund」と言います。さらに古代ギリシアには、平和とは通常の戦争状態が、神々の恩恵により一時的に中断されることである、という理解がありました。

こうした発言には、ある特徴的な平和理解が垣間見えます。戦争は、ほとんど人間社会の自然状態と見なされています。そして平和は、驚くべきことに戦争の目標なのです。平和を達成するために戦争をするのです。しかもその際に、平和とは戦争の勝者だけが享受できる特権です。敗者に許されているのは、勝者が押し付ける講和条件を呑むことだけです。なるほどラテン語で平和を意味する「パクス」には、講和条約という語義があります。平和とは、勝者が敗者に強要するものであり、敗者は平和について語る資格がありません。

もっとも戦争を通して達成される平和に、ある種の「和解」が含まれることが望ましいことは、古代人も知っていました。例えば、ホメロスの英雄叙事詩では、イタカの島に平和を樹立することを約束するゼウスが、次のように言います。「わが子わが兄弟を討たれた者どもには、その恨みを忘れるように、われらが計らってやろう。両者が以前の如く睦み合い、富と平和とを十分に享受させてやらねばなるまい」(松平千秋訳『オデュッセイア』第24歌、484行以下)。

以上に見たように、平和とは戦争の反対概念であると同時に、しかしより強くは、戦争の究極的な目標と、したがって戦争を正当化する根拠と見なされてきました。平和を願って靖国神社に参拝すると述べた旧日本軍兵士の方は、斃れた戦友たちの霊を慰めようとしておられるのでしょう。しかし同時に、負けはしたものの平和は戦争を通してこそ達成されたのだ、と理解しておられるのかも知れません。「現在の平和は戦没者の尊い犠牲の上に成り立っている」という趣旨の発言は、政治家も繰り返し行います。こうした発言は、戦争は平和を目指しているという古典的な理解と、どこかで結びついているように感じます。

III

以上のような平和理解と比較して、「あなたがたに平和があるように」という復活者イエスの挨拶は、なんと平和な響きに満ちていることでしょう。この挨拶における平和は、戦争の最終目的でもなければ、戦争の理由でもありません。イエスの平和は戦争から定義されていません。なるほど、十字架による虐殺の傷跡は、イエスの身体に生々しく残っています。しかしこの挨拶は、むしろ新しい現実が始まることのシグナルです。イエスは、弟子たちに平和の挨拶を差し向けることで新しい現実を拓き、そこに弟子たちを招き入れます。その意味で平和とは、私たちの業績でもなければ、私たちの課題でもありません。平和は、私たちの努力によって初めて作り出されるものではありません。それはむしろ、神が復活者を通して、私たちの努力に先立って、私たちに与えるものです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェ2,14)

さらに、イエスの平和の挨拶は、とりたてて特別なものではありません。むしろ日常的な、当たり前の挨拶です。「シャローム・アレーヘム!/皆さん、こんにちは!」。平和は、当たり前のことであると同時に、それが当たり前であることは、何度も新しく発見されなければならないのでしょう。以下では私たちも、そのことを少しだけ試みてみましょう。

IV

復活の日の夕刻、弟子たちは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とあります(19節)。イエスの平和の挨拶は、この状態を打ち破るものでした。人は外の世界を恐れ、自分の要塞に立てこもっても、決して平和に生きることはできません。私たちが平和を実感できるのは、見知らぬ人から攻撃される恐れなく、安心して世界に出てゆけるとき、他者からの好意と善意を期待できるときです。

イエスが手とわき腹を見せたとき、弟子たちは「喜んだ」とあります(20節)。平和は、暴力によって傷つけられはしても、決して滅ぼされてしまうことがありません。また「喜び」という存在のあり方は、平和の本質的な構成要素なのです。

先週、私は教会からお休みをいただいて、子どもたちを連れて実家に帰省しました。そして母から、60年前の戦争体験について、とりわけ1945年6月の岡山空襲とその後について聞きました。母は当時12歳でした。その年の4月に、彼女の父親(私の祖父)は、すでに40歳を越えていたのに、3度目の召集令状が来たせいで出征していたそうです。母は、身重であった母親(私の祖母)と数人の妹弟たちと共に、辛くも空襲の難を逃れた後は、母親の実家に身を寄せていました。やがて戦地から、兵士たちが引き揚げてきます。武装解除され、泥だらけでボロボロの軍服を着た軍人が、町の通りをフラフラ歩くのを見て、子どもたちはとても恐がったそうです。10月のある日、ずだ袋を抱えた一人のヨレヨレの軍人が、玄関の引き戸を明けて「ごめんください」と挨拶して玄関間に入ってきました。たまたまそれに出くわした母の妹は、胆をつぶして一目散に家の奥に逃げ込み、母親に「うちにも恐いおじさんが来た」と耳打ちします。すでにお腹の大きかった母親は、しばらく物陰からそっと覗いていましたが、突然に駆け出して、無言のままその男性にしがみついたそうです。そして、「おとうちゃんだよ」と子どもたちに紹介しました。ずだ袋の中には、アメリカ進駐軍から分け与えられたキャンディがたくさん入っていました。

戦争から生きて帰ってきた父親が、身重の妻を抱きしめ、子どもたちにキャンディを分け与えるという光景は、平和の始まりを告げています。もっとも、すべての家族が幸せな再会を果たしたわけではありませんでした。一緒に夫の帰りをまっていた母の叔母に、再会のチャンスは訪れませんでした。

「あなたがたに平和があるように」と言って、イエスは「手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)。平和は、それがどんなに傷つけられようとも、戦争とではなく、「喜び」と結びついています。平和のあるところには、不安と恐れではなく、安心と喜びがあります。

V

イエスは、重ねて「あなたがたに平和があるように」と述べて、続いてこう言います、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。そして弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」(22節)と言って、罪を赦す力を彼らに与えます(22-23節)

 この2度目の平和の挨拶は、喜びに支えられた新しい生活の使命に結びついています。それはイエスによって派遣された生です。イエスは、私たちが平和に相応しく生きることができるよう、私たちに息を吹きかけます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)という発言が正確に何を意味するのか、はっきりしたことは分かりません。しかし、イエスが弟子たちに吹きかける「息」「霊」が復活の「いのち」の活力を意味すると理解してよいなら、次のように考えることができるでしょう。すなわち私たちの生の使命は、いのちに相応しく生きることにあり、そのことはとりもなおさず、赦しによって罪を克服することであると。こう考えてよいなら、平和はいのちの同義語であり、「罪」とは、いのちの働きを妨げる力のことです。

 では、聖霊を受けた者たちに与えられる「罪を赦す」「罪を赦さない」という巨大な権限は、何を意味するのでしょうか。私はそれを、真の和解と偽りの和解を区別する能力を養いなさい、という意味に理解したいと思います。あったことをなかったと強弁したり、問題をすりかえたりしてはいけない、歴史認識の違いを踏まえつつも和解と相互理解のための努力をしなさい、という意味に。教会が戦争責任を負っているという教団のいわゆる戦責告白は、そのための重要な第一歩であったし、今もそうであり続けていると思います。

VI

最後にイエスは、有名な、疑うトマスのエピソードの中でも、「あなたがたに平和があるように」(26節)と挨拶します。都合3度目の平和の挨拶です。そしてトマスに、自らの身体の傷跡を触らせながら、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と言います。「信じる」とは「信頼する・信用する」という意味です。他人を信用することができないとき、あるいは相手の信頼を勝ち取ることができないとき、私たちは個人の間でも民族の間でも、平和を持つことができません。平和は、相互の信頼関係に大きく依拠しています。

 その際に、「罪の赦し」に関する発言が、「信じること」に関する発言に先行していることに注意してください。通常私たちは、誰かを信用してよいと確信できて初めて、その人の前で自らの罪を告白したり、その人の罪を赦したりするものです。赦しに信頼が先行するのです。その意味で、私たちの赦しは条件つきです。和解の成否は信頼関係のあるなしに依存しています。しかし問題なのは、私たちが赦しを乞う場合にも、また赦しを与える場合にも、しばしば相手を信用してよいのかどうかが不確かであるため、赦しと和解が常に脅かされてしまうことです。トマスが「〜でなければ、私は決して信じない」と主張していることは、この点で、まことに象徴的です。

 しかし復活者イエスの与える平和の挨拶においては、赦しが信頼の基礎にあります。赦しが約束されているからこそ、私たちはこの約束をトマスのように疑うこともできるし、あるいは信じることもできるのです。「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節は、神の赦しの約束なしには意味をなしません。

 日本キリスト教協議会が今月発表した「敗戦後60年を覚えて」という声明の中に、次のような文章があります。

罪を告白し、神に赦された者として、日本が過去の罪を公に謝罪し、日本軍「慰安婦」などをはじめ、戦争の被害者に償うよう働きます。また、靖国神社による戦争の美化、歴史を歪める教科書などの問題に取り組み、ふたたび同じ道を歩むことのないよう働きます。

冒頭に「罪を告白し、神に赦された者として」とある点に注目してください。この点にこそ、キリスト教が、戦争からではなく平和から、しかも喜びと赦しと信頼関係に基づいて、世界平和に貢献できることの重要なポイントが隠されていると思います。


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