2005・8・21

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「苦しみの連帯」

村上 伸

アモス書5,10-151テサロニケ2,13-16

 パウロは、テサロニケ教会の信徒たちに宛ててこの手紙を書いたとき、至る所で感謝の気持ちを言い表わした。第1章の初めには、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(2節)と書いた。第2章でも、「わたしたちは絶えず神に感謝しています」と言い、その理由として「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」13節)ということを挙げている。パウロとこの教会の関係は、とても幸せなものであったと言うべきだろう。

 しかし、このように感謝に満ちた信頼関係は、苦しみを共にすることによって生まれたのである。パウロがテサロニケに行ったのは50年頃で、第2次伝道旅行の途中であったが、4週間ほど滞在して伝道する内に「多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たち」使徒言行録17章4節)が入信した。だが、「ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱きこんで暴動を起こした」同5節)という。そのために、パウロは夜逃げ同様にこの町を去らなければならなかった。そして、ユダヤ人による迫害は、後に残った信徒たちにも向けられたらしい。今日のところに、「あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」(14節)とあることからも、それは察せられる。

 このように、パウロとテサロニケ教会の信徒たちは、短い期間ではあったが苦しみを共にした。こうした体験を共有した者同士の間に生まれる信頼と連帯は、パウロとテサロニケ教会の間に限らず、強く美しい。

 ところで聖書には、真実な預言者や誠実な信仰者の「苦しみ」が多く書き残されている。その中心が主イエス・キリストの十字架であることは言うまでもない。

 2000年に「国際ボンヘッファー研究会」がベルリンで開かれたとき、カトリックの優れた神学者ヨーハン・バプテスト・メッツが講演の中で「聖書はメモリア・パッシオーニス(苦難の記憶)である」と語ったことが忘れられない。メモリア・パッシオーニス! 聖書は「苦難の記憶」であり、教会の歴史もまた「苦難の記憶」である。キリスト者とは、この「苦難の記憶」を共有する人たちのことである。パウロも、テサロニケ教会の信徒たちも、この「苦難の記憶」を共有する強固な連帯の中にいる。

 だが、このことを確認した上で、私はいささか気になるもう一つの点に触れなければならない。それは、パウロがここで、言い過ぎではないかと思われるほど強い調子でユダヤ人を非難している、ということである。「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます」15節)。

 日本では余り身近に経験することはないが、ヨーロッパには古くから「反ユダヤ主義」があり、これは今日もなお存在する。ユダヤ人の教育水準が高く、知的能力も優れていることも不安の種になっているのであろうが、さまざまな偏見が人々の間で囁かれており、そのためにユダヤ人はしばしば「社会の敵」として嫌われ、「ゲットー」に閉じ込められ、大量殺戮の対象とされた。極めつけはナチスによる「ホロコースト」だが、それとてもヒトラーが初めてやったわけではない。同じような「ポグロム」は、ロシアでもスペインでも起こっている。

 実は、胸が痛むことだが、この「反ユダヤ主義」は、キリスト教会によって植えつけられたと言われる。たとえば15節の「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺した」というパウロの言葉は、彼の意図に反して、「反ユダヤ主義」の根拠として利用された。ユダヤ人は「神殺し」・「キリスト殺し」だ、というのである!

 だが、パウロもユダヤ人であった。彼自身、「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」フィリピ3章5-6節)と言っているように、いわば生粋のユダヤ人であることに誇りを持っていた。

 ところが、その自分も含めてユダヤ人は神に背き、キリストを抹殺するという大きな罪を犯した。そのことを考える度に、パウロの胸には「深い悲しみがあり・・・絶え間ない痛みが」ローマ9章2節)あった。そして彼は、同胞が救われるためならば、自分が「神から見捨てられた者となってもよいとさえ思って」同3節)いたという。これは誇張ではない。彼は本心から自らの民族を愛していた。

 従って、パウロがユダヤ人をこのように非難するのは、外部の人間がいわば気楽に悪口を言うのとは違う。これは「自己批判」なのだ。彼は痛恨の思いを込めて自分を打ち叩いている。このことを正しく理解しなければならない。

 先ほど私は「苦難の記憶を共有する」ということについて語った。だが、それは必ずしも「被害者としての苦難の記憶」とは限らない。自分は加害者でもあり得る。加害者として他者に苦しみを与えるということもあるのである。私たちはこのことに敏感でなければならない。そうでないと、「苦難の記憶」は自己本位の、独りよがりのものになってしまうであろう。


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