2005・8・14

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「剣をさやに納める」

村上 伸

イザヤ書8,9-13マタイ福音書26,47-56

明日、私たちの国は60年目の敗戦記念日を迎える。この時に当たり、「日本キリスト教協議会」(NCC)は鈴木伶子議長の名において、『敗戦後60年を覚えて』と題する声明を発表した。その冒頭に、先ずこう言われている。「アジア・太平洋戦争での日本の敗戦から60年経ちました。その後、日本のキリスト教各教団・団体は、自らが戦争に加担しキリスト者の責任を放棄した罪を告白し、神と隣人に赦しを請いました」。これは各教派が「罪責告白」を公表したことを指している。その先駆となったのが、『第二次大戦下における日本基督教団の責任に関する告白』(1967年)である。

しかし、今回の『NCC声明』は、それに続けて「戦後責任」を告白する。むしろ、重点はそこにあると言ってもいい。過去の過ちを反省するだけでは十分ではない。戦後、その反省に基づいて何をしたか? 何をしなかったか? 今はそのことが問われているのだ。「敗戦後60年の今日、私たちは日本がいまだに真の悔い改めをなさず、進む方向を変えていないことに気付いた」、と言うのはそのことである

だが、「日本がいまだに真の悔い改めをしていない」とはどういうことだろうか? 声明は次の点を挙げる。(1)旧植民地から連行してきた人々を、サンフランシスコ条約によっていきなり外国人登録法の管理下に置いたこと。(2)日米安全保障条約によって沖縄に基地を集中させ、米国と一緒に戦争のできる国を目指してきたこと。(3)アジアの一員であることを忘れアジアの人々に対して閉鎖的な社会を作ってきたこと。(4)過去の軍国主義や植民地主義の過ちを正当化する論調が復活していること。

その上で、さらに具体的に、日の丸・君が代の強制、戦争被害者(慰安婦)に対する謝罪と補償の不徹底、靖国神社による戦争の美化、歴史を歪める教科書、障害者や移住労働者の人権軽視、世界経済の中で日本が果たしている不公正な役割、等々といった諸問題を挙げ、このような社会になるのを漫然と許したことについては、私たちキリスト者にも「怠慢の罪」があると告白しているのである。

「敗戦記念日」に当たり、私たちはこの声明に対し「アーメン」と言いたい。

さて、今日のテキストにはイエスが逮捕される場面が描かれている。イエスを裏切ろうとするユダは接吻を合図にイエスを捕らえさせる。大祭司の手下がイエスに手をかけようとしたとき、「イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』」(51-52節)

この場面は四つの福音書すべてに描かれている。元になったのはマルコ14章であろう。だが、そこには「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉がない。ルカ22章では、イエスの穏やかな平和主義が強調されている。彼は「やめなさい、もうそれでよい」(51節)と乱暴をたしなめ、傷ついた耳に触れていやされた。他方、ヨハネ18章によると、大祭司の手下に剣で切りかかったのはシモン・ペトロである。そのペトロに向かって、イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)と言っておられる。これは、神が備えられた運命に対しては逆らうべきでないという、イエスの基本的な姿勢を示す言葉である。

どの福音書の叙述も、それぞれ意味があって捨てがたいが、敗戦記念日に当たって、私は矢張りマタイの書き方、特に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉に注目したい。これは、大方の推測に反して、旧約聖書の引用ではなく、当時の「格言」のようなものであったという。ということは、人間であれば誰でもこの認識に達することができる、ということである。特別に「宗教的な」悟りというわけではなく、いわば人類の健全な常識である。

ここで、60年前のあの日のことを思い出してみたい。私たちの年代の者は、今でもありありと覚えている。暑い日であった。私のいた陸軍の学校では、正午に「玉音放送」があるというわけで一同は焼け跡に整列させられた。やがて「玉音」なるものが聞こえてきたが、ラジオの受信状態が悪くてよく聞き取れない。それでも「負けた」ということは分かる。私は言いようのない虚無感を味わった。その時はまだ、この「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という聖句を知らなかったが、私がそのとき感じた虚無感の中身は、ほとんどこれと同じだったと思う。

それから混乱が始まった。教師たちは信用できなくなった。「日本の国体無比」などということを教えていた倫理の教師が、夜半、学校の焼け残った物資を盗んで逃げ出すところを生徒に見つかるという事件があり、私たちは大いに荒れた。「俺たちは騙されていた」という実感が胸に迫り、それが虚無感を一層深めた。戦争中はご大層なスローガンをいろいろ聞かされたが、戦争とは結局こんな馬鹿げたことだったのだ、と思った。これは、ごく普通の人間的理性さえあれば、誰にでも分かることなのだ。

「剣をさやに納めなさい」(52節)とイエスは言われる。その意味は、何かというと直ぐ「剣や棒を持ち出す」やり方、つまり武力で物事を解決しようという考え方は馬鹿げている、ということであろう。それも、一時的にさやに納めるのではなく、今後一切、剣や棒を持ち出すやり方は止めなければならない。

イザヤも「武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する」(8章9節)と言ったではないか。

これこそ、敗戦によって私たちが得た最大の教訓ではないか。


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