5日(金)の夜、TBSの戦後60年特別企画 "ヒロシマ"が3時間にわたって放映され、私もそれを見た。その中に、原爆の開発に関わったアメリカ人科学者アグニュー博士が登場する。この人は、史上最初の原爆を広島に投下したB29「エノラ・ゲイ」の機上から爆発の瞬間を見届けたクルーの一人である。作戦の「成功」を確認し、「きのこ雲」も撮影した人だ。今回、この企画のために彼は初めて広島を訪れ、資料館などを見学した。「ひどい話だ」と心を痛めながらも、二人の被爆者との対談の中では「私は謝らない」と繰り返す。「戦争を始めたのは日本だ。米国では皆がリメンバー・パールハーバーと言っている」と主張し、原爆はむしろ「あの戦争を早く終わらせるのに役立った」と、多くのアメリカ人の意見を代弁する。あれほどの惨劇を資料で確認しながら、どうしてなおも自己正当化できるのか、私には分からない。
だが他方、「戦争を始めたのは日本だ、謝るべきは日本だ」という彼の言葉には当たっている面もある。確かに、辛い目に遭ったのは日本人だけではない。いや、遥かに大きな苦しみを、アジアの無数の民衆が日本によって嘗めさせられた。だから韓国では8月15日を「光復節」と呼んで、日本の植民地支配からの解放を祝う。中国や他のアジア諸国でも事情は同じであろう。それらの国々では原爆投下さえ歓迎されたという事実を忘れてはならない。以上、「原爆記念日」に関連して特に一言した。
さて、今日の説教は、マタイ福音書5章38〜42節に基づいてなされる。
ここでイエスは先ず、「目には目、歯には歯」という戒めを引用する。「同害復讐法」といわれるもので、紀元前18世紀の『ハムラビ法典』にもあり、オリエントでは普遍的に通用していた法である。出エジプト記21章23〜25節に詳しい。その主旨は「報復するなら厳密に同じ程度に留めよ」ということで、これによって際限のない悪循環を防ごうとしたのである。その意味では、特別に「残虐な」掟とは言えない。
だが、イエスはこの「同害復讐法」をも乗り越えて、報復そのものを止めさせる。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)。これは、どういう意味だろうか?
ある聖書学者は、この言葉の背景にあるのは、「村の生活でよく見られる日常的な殴打事件」だと言う。長屋の熊さんや八ツァンが、何かというと直ぐに拳固を振り上げるようなものだ。差し当たりその程度のことを思い描くと良いかもしれない。
戦後直ぐ、私は埼玉県の熊谷中学に1学期だけ在籍したことがある。そこでは毎日昼休みになると、上級生が竹刀を持って私のクラスに殴りに来た。転校生が多いというのがその理由である。帰りの電車が寄居の駅に着くと、途中下車させられ、荒川の河川敷に連れて行かれ、石の上に正座させられて、また殴られた。男の子ばかりの集団では、少年たちはしばしばひどく野卑に、粗暴になるものらしい。その時、私はどうしたか? 何しろ相手は獰猛な上級生で、しかも大勢である。腕力のない私が手向かっても敵うはずがないから、私はじっと我慢していた。幸い怪我もしなかったし、今となっては笑い話で済む。
むしろこの経験は、「痛み」を知ったという点で私にとって意味があったと思う。そこら中に痣や瘤ができて何日も痛んだ。もちろん、肉体の痛みだけではない。無理無体に殴られた悔しさ。憤り。それによって生じた心の傷。そのような心身の痛みを、私は身に沁みて知ったのである。しかし、「痛みを知る」ということは、人生で決して無意味ではない。
イザヤ書に、「主の僕」と呼ばれる不思議な人物が出て来る。人類に真の救いをもたらす「メシア」と考えられている。だが、この人物は期待に反して実にみすぼらしい。栄光と力など彼には無縁であり、「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせる」(50章6節)。彼は「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(53章3節)。つまり、メシアは、この世で一番苦しんでいる人々の「痛みを知って」いるというのである。なんと深い思想であろう!
主イエスも痛みを知っておられた。遠藤周作の『沈黙』に、転向した司祭ロドリーゴが銅版に刻まれたキリストの顔を踏む場面がある。司祭は足に鈍い痛みを感じる。「その時、踏むがいいと、銅版のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」。
苦しむ人々の傷や痛みを「自分のこと」として知った人でなければ、本当の意味で人を助けることはできないし、平和を造り出すこともできない。主イエスは、正にそのようなメシアだった。そして、彼が弟子たちに向かって「悪人に手向かうな」と言い、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ」と命じられたのは、彼が敗北主義者だったからではない。人の「痛みを知る」イエスが、弟子たちに、従って私たちにも、同じように「痛みを知る」ことを求めておられるのだと信じる。
この世界では、「やられたらやり返す」のが当然だ、と信じられている。「やられっ放し」は正義に悖る。殊に、「現実的」と自称する人々がそう考えている。
だが、イエスはこの考え方を捨てる。仕返しをやめよ。仕返しは、歴史が証明するように終わりなき悪循環の始まりだ。むしろ、殴られてこの世の痛みをもっと深く知るがいい。それが平和への道となる。アッシジのフランチェスコ、ガンジー、キングといった人々の生き方は、このイエスの真理の美しい証しなのである。