先週から『テサロニケの信徒への手紙一』によって説教をしている。今日は2章に入る。先ず、2節に「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」とあるが、これはどういうことだろうか。
『使徒言行録』16章におおよその事情が書いてある。それによると、パウロはテサロニケに来る直前、フィリピという町に数日間滞在した。この町は、「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市」(11節)であった。有名なアレキサンドロス大王の父フィリッポスが建設したので「フィリピ」と名づけられた。東西交通の要衝であり、近くに金や銀の鉱山があったために非常に繁栄した都市であり、テサロニケやアテネ、コリントなどと並んで、ギリシャ文化を代表する町の一つであった。
ところで、回心前のパウロは、ファリサイ派に属する生粋のユダヤ人だったが、キリキア(小アジア)のタルソス生まれでヘレニズム文化にも通じ、ギリシャ語を自由に操った。西洋思想には、ユダヤ・キリスト教(ヘブライズム)とギリシャ哲学(ヘレニズム)という二つの源流があると言われるが、ヘブライズムを代表するパウロが今、ヘレニズム文化の真っ只中に来ている。これは世界史的に見ても重要な出来事と言わねばならない。
さて、パウロはこのフィリピの町で、「祈りの場所」と言われる場所に行き、そこに集っていた女性たちに語りかけた。その中に、「紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(14節)がおり、心を開いてパウロの話を注意深く聞き、偏見なくそれを受け入れて、家族と共に洗礼を受けた。もしかしたら、この女性がヨーロッパにおける最初のキリスト教徒と言えるかもしれない。彼女は一行を自宅に招いて宿を提供したりした。フィリピ伝道は上々の滑り出しであったと言えよう。
だが、他方、彼はひどい目にも遭っている。『使徒言行録』16章には、「占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」(16節)とあるが、この女奴隷は怪しげな「占い」をして「主人たちに多くの利益を得させていた」。この世には、昔も今も、社会的弱者を食い物にして金儲けを企む人が後を絶たないが――「リフォーム詐欺」や「法の華」などはその典型である! ――この女奴隷の雇い主たちも、「占い」めいたことを口走る彼女をさんざん利用していたのであろう。パウロはこれに気づいて彼女を癒し、主人たちの悪辣な商売を止めさせたのである。
ところが、金儲けの手段を失った主人たちは逆恨みする。彼らはパウロとシラスを捕え、二人を役人に引き渡し、まことしやかな理由をでっち上げて告訴した。「群衆も一緒になって二人を責め立て」、「衣服を剥ぎ取り」(22節)、「何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み」(23節)、「足には木の足枷をはめた」(24節)。
今日の最初に引用した「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」という言葉は、このことを指しているのである。もっとも、辛いことばかりではなかった。牢の中でパウロは不思議な、感動的な経験もしている。「真夜中ごろ、パウロとシラスが讃美の歌を歌って神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)。そこへ、突然、大地震が起こって牢の土台が揺れ動き、牢の戸が皆開いてしまった。すると看守は、囚人たちが皆逃げてしまったのではないかと早とちりして我を失い、責任を感じて自殺を図った。さっきまで「虎の威を借りた狐」のように威張っていた看守が、脆さを露呈したのである。立場は一瞬で逆転した。囚人のパウロが、権力の手先である看守を絶望から救った。彼は震えている看守を励まし、主イエスについて語って聞かせた。すると、「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」(33節)。そして、「二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」(34節)。
この事件は、パウロに大切な教訓を与えたであろう。一つは、ヘレニズム文化が見事な花を咲かせているような所にも人間の弱さや醜さ・不正・罪は存在する、それがこの世だ、ということである。そのために、正しく生きようとしている人々がしばしば理不尽な苦しみを受け、人間としての誇りを奪われるような仕方で侮辱を加えられる。パウロはこの世の現実を、身に沁みて学んだのであった。
だが、彼が学んだもう一つの真理がある。それは、理不尽な苦しみやいわれなき辱めはいつまでも続きはしない、ということである。そんなことを神様はお許しにならない。それは、いつか必ず終わる! 私たちは神の約束の下にある。
この福音に対する確信を持って、パウロはテサロニケに来たのだ。彼が、「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語った」(2節)と言うのは、その意味だ。彼は、「迷いや不純な動機に基づいて」(3節)、つまり、フィリピで経験した挫折感から助けを求めて逃げて来たのではない。「福音をゆだねられている」(4節)という積極的な確信に基づいてこのテサロニケに来たのだ、とパウロは言う。
4節に「人に喜ばれるためではなく・・・神に喜んでいただくため」とあるが、これが彼の行動の変わらぬ基準であった。だからこそ、彼はテサロニケの信徒の人々を「兄弟たち」(1節)と呼び、「使徒として権威」を振り回したりせず、ある時は「幼子のように」無防備に、ある時は「母親」のように優しく(7節)、しかしまた、ある時は「父親」のように(11節)強い態度でかれらに接した。それはすべて、「神の御心にそって歩むように励まし、慰める」(12節)ためだったのである。