I
この物語は幾つかの点で、際立った特徴があります。三つほど指摘します。
まずイエスは、カナン人女性の願いに、始めはまともに耳を貸そうとしません。この物語のイエスは、私たちに親しい彼のイメージとは異なり、とても不親切です。そればかりか、彼の発言は民族差別的ですらあります。イエスが神から受けた使命とは何だったのでしょうか。
二つ目は、カナン人女性の姿です。彼女は外国人であるイエスに娘の治癒を願い、無視されても侮辱されても諦めません。最後にイエスは、彼女に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言います。しかし私たちは、「信仰」とは慎み深く従順であること、願っても与えられないときは、それを主の御心と信じて受け入れることだ、と考えていないでしょうか。それと比較すると、この女性のふるまいは、ずうずうしいとまでは言わないまでも、相当にしつこくて、ある意味でしたたかな印象があります。信仰とは何なのでしょう。
そして三つ目は、民族や宗教の違いを超えて、助けを求める者の叫びに神が耳を傾けるということを、この外国人女性が、実質的にイエスに教えていることです。通常の福音書の物語では、イエスは教える人、群集や弟子たちは教えられる人であり、論争相手はイエスに言い負かされてしまいます。それだけに、イエスが女性から教えられて、自らの基本方針を例外的にであれ撤回した、という私たちの物語の展開は目立ちます。
以下、順番に見てゆきましょう。
II
代々木上原教会は、「私たちの教会の姿勢」という文章を公にしています。その3にはこうあります。
私たちが目指すのは、女性も男性も、高齢者も若い人も、子供も大人も、障碍者も健常者も、病める人も丈夫な人も、外国人も日本人も、すべての人が「主イエスにおいて一つである」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)ような教会です。それは、一人ひとりの個性が生かされて生きる喜びを分かち合うことができる教会でもあります。私たちはこの目標に向かって歩みたいと心から願っています。
とくに「外国人も日本人も」とあるところに注意して下さい。ところが私たちの物語は、どうでしょう。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」という女性の言葉を、イエスは、あろうことか聞き流して一言も返答しません(23節)。次にイエスは、「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と言って、異教徒である女性の願いにまるで取り合おうとしません。さらに「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」(26節)という発言に至っては、前後の文脈を見ると、「イスラエル民族に与えられた神の祝福を、異教徒に分け与えてはならない」という意味であると思われますので、これは明らかに民族差別的な発言です。
日本の教会にも、礼拝出席者数を記録する際に、まだ洗礼を受けていない人々を「異邦人」と表記する習慣があったと聞いたことがあります。本来キリスト教会は、ユダヤ人と異邦人からなる、つまり宗教や民族の境を越えた「一つの神の民」です。しかし、やがてユダヤ人キリスト教は歴史から消え去り、すべてが異邦人キリスト教になりました。その後、キリスト教会は、ユダヤ教徒を「キリストの殺害者」として陰に陽に差別してきました。例えばヒエロニュモスは、私たちの物語に結び付けて「かつてはユダヤ人が子どもたちで、異邦人が犬であったが、今は逆である」、つまりユダヤ人は「犬」であると述べているそうです。差別構造は、そのまま残されたのです。第二次世界大戦中の日本基督教団が、植民地下朝鮮のキリスト教徒に対して、自国の国策に沿うかたちで神社参拝を強制したことも忘れてはなりません。
しかし、そのようにマタイ福音書を読むことは間違っていると思います。なるほどマタイのイエスは、弟子たちを派遣するときにこう言いました、「サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10,5-6)。イエスの使命はイスラエル伝道にあったのです。ところが復活したイエスは、弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じます(28,19)。これは異邦人伝道を教会の基本プログラムにしなさいという意味です。神が死せるイエスに新しい命を与え、活けるイエスの霊が弟子たちの心を揺さぶったとき、この人たちは、この世の限界を打ち破る神の息吹に後押しされて、民族の壁を乗り越えて異邦人世界に福音をもたらしました。イエスの復活とペンテコステの出来事が、イスラエル伝道から異邦人伝道へという大きな転換をもたらしたのです。マタイ福音書は、この神がもたらした歴史的な転換を描く物語です。キリスト教とは普遍主義化されたユダヤ教である、と福音書記者マタイは考えています。その意味で私たちの物語は、やがて起こるであろう転換を予告するシグナルなのです。
III
次にカナン人女性の姿を見てみましょう。彼女の娘は、悪霊につかれてひどい状態でした。病気治しの奇跡をするユダヤ人の噂をどこかで聞きつけたのでしょうか、母親は出かけてゆき、イエスに向かってこう叫びます、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」(22節)。この女性はユダヤ教徒ではありません。それなのにイエスに向かって、彼が「ダビデの子」つまりイスラエルのメシアであることを根拠に、娘を癒してくれるよう嘆願しています。「私を憐れんで下さい」とは詩編の祈りの言葉です。当然のようにイエスが無視すると、彼女は「叫びながら」、イエス一行の後をついてゆきました(23節)。頭にきた弟子たちに促されて、イエスは、自分はイスラエルの失われた羊のもとにだけ遣わされていると言って、彼女の願いをはっきり拒絶します。しかし彼女はむしろイエスのもとに近づいて、彼を伏し拝み、「主よ、どうかお助けください」と懇願します。これも詩編の祈りです。そして「子どもたちのパンを取って子犬に与えてはいけない」とイエスから再びはねつけられると、今度は、この比喩を逆手にとって食い下がります。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。
これは本当に必死の懇願です。私たちは、ここまで無視され、拒絶され、「犬」と比べられるという屈辱的な扱いを受けても、なお助けを求めて叫び続けることができるでしょうか。なかなか難しいだろうと思います。私たちは普段、ほんの些細なことで小さなプライドを傷つけられてはひどく憤慨し――今の言葉でいうと「むかついて」――毒づきながらいろいろと理屈を並べて、相手との関係を簡単に断ち切ってしまいます。
なぜこのカナン人女性は、これほどの侮辱にもめげることなく、跪いてイエスを拝みながら、願い続けることができたのでしょうか。答えは簡単です。娘を救いたかったからです。しかも自分に娘を救う力がないことを、彼女は知っていました。外部に助けを求めるほかなかったのです。
現代社会は、「自分で自分を救え」と私たちに命じます。私たちは、宗教に助けを求める人を見ると、「それは御利益宗教ではないか」と呟きます。病気治しのような奇跡について聞くと、「霊感商法ではないか」と疑ってかかります。疑った方がいい場合ももちろんあります。しかし自分が本当に助けを必要とする段になると、私たちは萎縮してしまって、きちんと声をあげることができません。「助けて!」と叫んでもヘタに目立つだけで、すぐに無視されるかも知れません。「自分で何とかしろ」と言われるのがオチかも知れません。いいえ、自分の弱さを曝け出すと、逆に攻撃の的にされる危険もあります。このことは学校や職場や地域社会において、また親族の中においてすら、しばしばそうなのです。
しかしこのカナン人女性は、娘を助けたい一心だったのでしょう、小さなプライドは言わずもがな、民族や宗教の違いも軽々と超えてゆきました。彼女は無視されても諦めず、傷つけられても失望せず、侮辱されても逆上しないで、粘り強く、誇り高く、そして賢く、彼女の必要としているものを手に入れるまで、イエスのもとを去ろうとしませんでした。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。
ここまで言われたイエスは、もはやこの女性の嘆願をかわすことができません。ついに根負けして、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)と言って、彼女を去らせます。「信仰」と訳されるギリシア語「ピスティス」は、本来「信頼」という意味です。「おお、女よ、あなたの信頼は〔実に〕偉大だ」(佐藤研訳)。この物語にいう信頼とは、自分の無力さを認めて、外部の助けを真正面から求めて止まず、かつそのことを恥としない姿勢のことです。イエスは、この女性から向けられた偉大な信頼に、応えるほかありませんでした。
この一外国人女性のエピソードは、他者に助けを求めることが神の意志に適うものであること、そもそも真に助けを求める叫びに、民族や宗教の違いなど関係ないことを、私たちに示しています。私たちには、そうした叫びが、とりわけ世界から見捨てられた人々の声なき叫びが、ちゃんと聞こえているでしょうか。
IV
カナン人女性の振舞いは、宗教的・社会的に見れば、およそ身のほどをわきまえないものでした。イスラエルのメシアに、異教徒の彼女が何かを期待するなど筋違いのことでした。もちろんユダヤ教には、世の終わりにイスラエルの義人たちのために神が用意した祝福の喜びに、一部の異邦人も参加することが許されるという期待がありました(例えばイザヤ書2,1-5)。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」という発言は、この点を衝いたのかも知れません。何れにせよ、一人の外国人女性が、娘の癒しを求めてイスラエルのメシアに向かって叫びながらついて行った結果、イエスは、自らの宣教の基本方針を例外的に撤回しました。彼女の娘は癒されました(28節)。そしてこのイエスを死者たちの中から起こすことで、イエスが「父」と呼んだ神は、自らイスラエルに与えた律法の定めを超えて、すべての者たちの神であること、すべての命の創造者であることを示したのです。
V
この母と娘は、後にクリスチャンになったでしょうか。何も資料が残されていないので分かりません。はっきりしているのは、この異教徒の母娘にまつわるエピソードが、キリスト教徒によって記憶され、やがて福音書に記録されたことです。その意味で、私たちもまた、彼女らによって問われていると思います。
先週の月曜日6月20日は「世界難民の日」でした。私たちの国には「入管法」(正式には「出入国管理及び難民認定法」)という法律があり、外国人の日本国在留に関する許可要件や手続きになどについて規定しています。この法律にもとづいて法務省の入国管理局が、不法滞在の疑いのある外国人を摘発し、入国管理センターに収容します。問題なのは、難民である可能性が高く、逃亡の恐れもないオーバーステイの外国人を、入管の職員が駅のホームで待ち伏せしたり、突然自宅にやってきて泣き叫ぶ子どもたちの目の前で拘束するなどして、しかもその後、かなり劣悪な条件のもとで長期間に亘って収容するケースがあることです。
私自身、長く暮らした留学先で、毎年一回、外国人警察に出向いて「滞在許可」を延長してもらう必要がありました。留学生には、家族を滞在させる権利が原則的には認められていませんでした。幼い子どもたちを含む家族の生活が来年は許されないかもしれない、という重圧感は今も身体の片隅に残っています。
現在、日本の入管収容施設の改善を求めて、「1435虹の架け橋」という団体と「アムネスティ・インターナショナル日本」が共催して「たなばたキャンペーン」というものを行っています。入管施設に収容されることで引き裂かれた外国人家族に連帯しよう、という趣旨のプログラムです。そのホームページには、スリランカ人難民収容者の子どもが、たどたどしい平仮名で綴った短冊が載せられています。「わたしわぱぱにあいたい」。
アムネスティ・インターナショナル日本: http://www.amnesty.or.jp/
ここにも、民族や宗教の違いを超えて、助けを求める叫びがあります。イエスはカナン人の女性から学びました。私たちは何を学ぶでしょうか。