初めに短く関田先生についてご紹介を致します。 関田寛雄先生は長いこと青山学院神学科で神学を、神学科がなくなった後はキリスト教について、若い人たちに教える優れた教師でした。今は引退されまして神奈川教区の巡回教師として働いていらっしゃいます。大変忙しい日々を送っておいでですが、今日は私たちの願いを聞いてくださいまして特別にこの礼拝の説教者として来てくださいました。

川崎市の戸手というところに、先生は今もお住まいですが、その地域に住んでいらっしゃる在日韓国人・朝鮮人のために長年にわたって誠実なお働きをなさっており、そのことで私たちは先生を大変尊敬しております。その方を今日説教者としてここにお迎えしたことを皆様と共に喜びたいと思います。(村上牧師)



2005・6・12

MP3音声

「最後の者から始めて−逆転の福音」

関田 寛雄

エゼキエル書18,30-32マタイ福音書20,1-16

この代々木上原教会の礼拝にお招きいただきまして大変光栄でございます。 私は青山学院神学科の学生時代に赤岩栄先生の影響を受けまして、たびたびこの教会の礼拝に参加したことを覚えております。 すっかり装いも新しくなったこの教会でこのような機会が与えられることは、この上ない喜びです。

今日は先ほど読んでいただきました聖書の箇所に基づきまして、神の国の福音の本質について、ご一緒に学んでいきたいと思います。

まず聖書の、み言葉の流れをたどってまいりましょう。「天の国は次のようにたとえられる」(20章1節)とあります。「天の国」と申しますのは「神の国」のことです。 マタイによる福音書では「天の国」という言い方で「神の国」のことを表現しています。

その神の国は私どもが死んでから行くところではありません。 生きております私たちの生活の真っ只中にあって、しかるべき思いを持って見ればみえる。聞けば、聞こえる。それが神の国です。私たちの生活の真っ只中に、それはすでに現れている。

そのような思いをもって神の国の訪れを受けとめるように。そういうことを伝えるためには、たとえ話という間接的な手法をとるしかない。 じかに目に見えるものではないし、じかに聞こえるものでないが、しかるべき心をもってそれに対するとき、それはすばらしい神の恵みのいわば「リアリティ」として、私どもを包んでくださるのであります。

たとえ話の内容は、ぶどうの収穫期になりまして、ぶどう園の主人が日雇い労働者を雇う話であります。一気に収穫をしなくてはなりませんので、日雇い労働者を求めるわけであります。 労働者が集まる市場に出てまいりまして、朝早く、おそらく6時ごろでありましょうか、そこで仕事を求めている人を、1日1デナリオンで雇ったわけです。 1デナリオンというのは、当時の労働者の1日分の給料であります。しかしとても人手がたりない。 そこでその後も、朝9時ごろにまた来て人を集める。12時ごろ、午後3時ごろにも人を集める。とうとう5時になってしまいました。

その当時ユダヤでは、午後6時になりますと日没とともに次の日が始まってしまうわけですから、5時というのは、その日の最後の1時間であります。

もうこんな時間には誰もいないだろうと思いつつ、雇い主が一応市場を覗いてみますと、そこに、まだ突っ立っている人がいた。雇い主は、なぜ何もしないで一日中ここに立っているのかと尋ねました。 すると彼らは「誰も雇ってくれないのです」(7節)と答えました。

「誰も雇ってくれないのです」。この言葉にふれますと、私は川崎の駅を中心に、多摩川の河川敷に広がっておりますブルーシートの集落のことを思わざるをえません。 私どもの開拓いたしました教会が、多摩川の河川敷にあるかつての強制連行経験者のお家を買い取りまして、そこを礼拝堂にしております関係で、しばしばホームレスの人の訪問を受けるわけですけれども、本当に、仕事がないのであります。

この方々と市の福祉センターとの交渉がありまして、その場に居合わせた事があるのですが、ある方がペットボトルに水を入れたものを高く差し上げ、「一昨日から何も食べていないが、水だけは飲まなければ死んでしまうからこうして持ち歩いている。お願いだから一週間に3日仕事をくれ、そうしたら誰にも迷惑をかけずに生活が出来る」そう訴えるのですが、しかし3日はおろか一日の仕事すら、ない。 仕方なく660円のパン券を発行するのですが、最近の市の行政ではこのような予算も削減の方向です。

民間では水曜パトロールという給食サービスをやっているボランティア団体があります。あるいは私が最初に開拓しました桜本教会では、後任の藤原牧師が毎日曜日の礼拝のあとと、木曜日のお昼に、100人からのホームレスに食事を提供しています。陪餐会員が40名そこそこの教会でありますからそれだけのまかないをするのは火の車ですが、教会員こぞって一所懸命、給食サービスをしております。

藤原牧師の言うところは、もちろん雑炊やおにぎりをあちこちに配ることも大事な仕事だが、教会ができることを私はしたい。ということで「人が生きるのはパンのみにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4章4節)というイェスさまの言葉を実践すべく、礼拝からこれらの人たちを招いているのです。 心無い人はそれを、洗礼者を増やすために食事で礼拝に人を集めている、というような批判をしておりますけれども、実態をみるととてもそういうことではない。

日曜日の朝、桜本の教会に出ると、礼拝堂の空気の臭いからして違う。 藤原牧師はバルトの影響を受けた方ですのでその説教はなかなか難しいのですが、それでも、感謝祭の時などに、「今日は教会の暦では感謝祭です。何が感謝かと思う人もいるでしょうが、ここで仲間に会える、今日という日にその仲間と食事が出来る。 その小さなことをありがたいと思う心は人間として最高のことなんですよ」そういう説教をされる。 すると満席の会堂で、何人かのホームレスの方が目をぬぐっているのが見え、藤原先生の言葉は届いているなぁ、と感じます。

そういう中で受洗者が2人3人と毎年増えてくるのです。彼らははっきり申します。「おれは飯を食いに来たんだよ。 キリスト教のことなんかどうでもよかった」と。「でもそのうちだんだん藤原先生のお話に心を開かれて、やっぱり教会に入りたいと思った」という感想を話しているのです。

この「誰も雇ってくれる人がいない」というこの短い言葉の中に、今の日本のこの社会で、リストラされて、あるいは心の病や、さまざまな事情で仕事を失っている、何十万もの人々の心の叫びを聞くような思いがいたします。

彼らは決して怠け者ではないのです。 この聖書の箇所でも、5時になって、なおここに立っていたこの人たちは、仕事を求めて一生懸命あちらこちら雇い主をさがしたのに、誰も雇ってくれず、悄然たる思いで市場にもどってきたのだと思うのです。 今晩どうやってどこで寝るのかもわからない。 しかし他に行く場所もない。 そういう思いで、ここに立ちつくしていた。

そういうときに、思いがけなく雇い主が現れ、お前たちもぶどう園へ行け、といわれた。 もう賃金のことなどどうでもよい、仕事にめぐり合えた、ということが、彼らにとってどんなに喜びであったことか。働ける! そうして彼らはぶどう園に行って働いたのであります。

やがて支払いの時になりまして、雇い主は非常に奇妙な2つのことをします。 ひとつは、一番後に雇われた者から先に賃金を支払う(8節)ということをした。 なぜこういうことをしたのだろう。 聖書には詳しく書いてありませんので想像して考えるしかないわけですが。

朝から働いた人は、それは疲れただろう。 夏の太陽の下で一日働き、くたくたになっただろう。しかし、これらの人は1デナリオンが保証された時間をすごしていた。

ところが、5時に雇われた人たちは、それまでの11時間の間、保証されない人生を、あちらこちらさすらって過ごしてきたのです。どこで自分の人生が保証されるのか、それを求めて一日の大半をさすらいつづけて過ごしていた。 それがどんなにつらいことであったか、この雇い主は察知していたわけであります。

そのつらさを思うとき、どんなにつらかったろう、どんなに不安であったろう、どんなに孤独であったろう。 さあ、まずお前たちから最初に賃金を受け取りなさい。 これが雇い主の思いではなかったか。それが、この逆転の順序を生み出したのではなかったか。

棄てられて、敗北し、機会を得ないままにさすらわなければならない。 その者をこそ雇い主は、一番に心にかけてくれる。そこに実は神の国というものの姿が垣間見られるわけであります。さすらいつづけ、孤独で、保証もなく、寒々とした心を持ちながら生きている人間。 その一人ひとりをこそ、父なる神様は一番最初に心にかけ、愛しておいでになる、それが神の国の本質なのです。

もうひとつこの雇い主は不思議なことをします。12時間働いた人も、1時間しか働かなかった人も、同じ1デナリオンの賃金を払ったということです(10節)。当然12時間働いた人からは不満が噴きだします。 こんな不公平な事があるか。そもそも賃金は労働力に比例すべきだ。そう思うのが世の中の常識であります。 しかしこの雇い主は、すべての人に1デナリオンずつ支払うのです。

1デナリオンは、一日分の最低賃金です。 今日一日生きるとすれば、1デナリオンが必要なのです。一日の12分の1しか働かなかったから、12分の1デナリオンの賃金が妥当だと、合理主義者は考えるでしょうが、最低賃金の12分の1をもらったとて、この人たちはそれからどう生きていけばいいのか。泊まる事も食べることも出来ない。それでこの人たちの救いになるのか。

この1デナリオンは、もはや賃金という性格ではなく、今日一日生きるための命の値であります。 命の値に差をつける事が出来るでしょうか。 これが、神の国のアピールであります。

そのようにして、この雇い主は、朝早くから働いていた労働者に対しても、はっきり申します。「友よ、私はあなたに不当なことはしていない。 あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。 私はこの最後の者たちにもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」(14節)

「自分の分を受け取って帰りなさい」――雇い主の言葉のこの断固とした響きに、神の国を支配したもう主なる神の、すべてをゆだねるべき「権威」を見る思いが致します。

逆転という事が、神の国の論理です。神の国の福音は、パラドックス、逆説を含んでいる真理なのです。

荒井 献(あらい・ささぐ)先生という有名な聖書学者が『「強さ」の時代に抗して』というエッセイ集を出されています(岩波書店、2005年)。そこに青山学院大学の神学科が廃科されていく経過を痛恨の思いをもって書かれていますが、私は最後まで青山に残りましたので、力によってつぶされていく、力に負ける、という痛切な経験をしました。

神学科が廃科された1977年のクリスマスのことです。私の研究室はチャペルの隣にありましたので、クリスマス礼拝のプログラムの進行が手に取るようにわかる。私はそのかたわらに立っていながら、どうしても参加できない。 青山学院という「力」によって、建学の精神のもとで100年以上も続いた神学教育の伝統がつぶされていく。そういう中で何ごともなかったかのように礼拝が進行していく。

戦後神学科を始められた恩師の先生方のことが思い出されます。気賀重躬先生、浅野順一先生、亀徳正臣先生、高柳伊三郎先生、松本卓夫先生、神学科をつくってくださった恩師の先生方を思い出しながら、私は涙を流しておりました。さみしい。つらい。

そのとき、はっと示された言葉がありました。

これがお前のクリスマスなのだ。 ここにこうしていること、それが私のクリスマスなのだ。そこにキリストが共にいらっしゃるじゃないか。その事にはっと思いが至ったとき、悲しみとつらさの涙が感謝の涙にかわっていきました。 すべてを失うというところから神さまの恵みが本当にわかってくる。持てば持つほど、神さまの恵みから遠ざかっていくのです。

日本は今どんどん軍備を増強し、武器を持ち始めている。持てば持つほど疑心暗鬼は深まるのです。 武器を持たない、そう決めた時に自由と愛が芽生えてくる。 何を信じて生きるのかがはっきりしたときにまことの力がわいてくる。 失ってこそ知る神の恵みの力。 歴史の主なる神の恵みなのです。 今の日本はその憲法を変え軍備を持とうとしているが、軍備を持たないと宣言した憲法9条こそが恵みの賜物であったことを今こそキリスト教会は知らなければならないのです。

私は、そんなふうにして持たざるものの喜びという経験を味わったのちに、牧会の現場の在日コリアンの方々の生活の一端にふれることになるわけであります。

多摩川の河川敷に、かつての強制連行経験者のお宅を買い取ってそれが今の戸手教会となり、私の教え子の孫裕久(ソン・ユウグ)という在日2世の方が私の後を受けて、本当によくやってくださっています。

そもそもその家の持ち主は、金万守(キム・マンス)さんという強制連行経験者でありまして、昭和18年に博多に来て防空壕堀りに駆り出され、生きるか死ぬかの生活をさせられ、やっと戦争が終わって人づてをたよって川崎にやって来たのです。

たまたまその息子さんが私どもの保育園に入ってこられたことがきっかけで、その一家と大変親しくなりました。 奥さんは李有彩(イ・ユチェ)さんという方でしたが、民族差別によるつらい経験をされました。息子さん、金光燮(キム・カンスビ)という名前でしたが、彼は小学校に入ると、絵が上手だったのでほめられ、その絵を教室の後ろに飾ってもらったのに、翌日その絵の上に黒いクレヨンで「変な名前」と落書きをされた。 カンスビ君は自宅に帰って「オンマ、僕のなまえは変な名前なの?」と聞いたのです。 オンマは一言も返すことばもなく、カンスビ君を抱きしめてただ泣いたといいます。

力によってつぶされ、辱められていく。 そういう中での生活はどんなものであるか。何に支えられて生きていくのか。

川崎で伝道を始めるにあたりこの方から家を買い取りましたので、彼はそのお金を足してようやく河川敷から出る事ができ、日本人社会の中で中古の一軒家を買って移っていったわけであります。

ところが日本人が自分の家を買い取って何をするのかという好奇心からか日曜日になると、もとの家で行なわれている礼拝にやって来て参加するんですね。その当時この家には学生たちが3人ほど住んでおりましたので、多摩川をヨルダン川に見立て、ヨルダン寮と名づけていました。 約束の地をのぞみながら亡くなったモーセの故事を思いながら、在日の人にやがて訪れる解放を願ってそう名づけたのです。

河川敷でしたので、台風で床上浸水したことも3回ありました。 そんなどさくさの中で、そこに住む在日コリアンの方々と仲良くなっていく。 何人(なにじん)かも、名前すらも知らない。しかしそこで「何をしているか」を知って親しくなってゆくのです。 たんすを担ぎ、足腰の弱ったおばあちゃんをおぶって一緒に土手にかけ上がってゆく。 互いに泥をかぶって生きるその姿をみて本当に仲良くなっていくのですね。だから伝道にとって「一緒に泥をかぶる」ことはとても有効な手段だったなと思います。

そのキム・マンスさんが礼拝に来るようになったのですが、休まないんですねぇ。 こんなぼろ家を買って日本人は何をしようとしているのか、見ているんですね。休まないものですから私も気になりまして、奥さんのユチェさんに「アボジは私の説教はわかって聞いてるのですかね?」と聞いてみました。

するとユチェさんが言うには、「いいえ。アボジが言うには、先生の話はちんぷんかんぷんだと言っています」 私はそれで、いろいろ工夫しながら、「キム・マンスという、強制連行されてきた在日のおじいちゃん」を心において説教の準備をするようになりました。 わかりやすい例を使わなければなりません。 それから三ヶ月ぐらいしてまたユチェさんに聞いたら、「このごろはわかるようになった。この間も、今度は関田牧師はどんなネタを使うかなぁ、楽しみにしている、なんて言っていました」とのことでした。やっぱりネタが大事なんですねぇ。

そんなある日、夫婦で私を訪ねてきて、おもむろに真剣な顔で新聞紙の包みを差し出して、受け取ってくれというのです。 開けてみるとそこには現金で500万円入っていました。 彼はこう言うのです。「私があそこを出て一戸建てを買う時に、お金が足りなかった。あの家は評価では200万もしないのですよ。しかし私はどうしても500万必要だった。それを先生は、私の言い値で買ってくれた」

「・・・けれど、その後の先生のなさってきたことを見ると、指紋押捺を拒否している青年たちと川崎市に行ったり、不当逮捕されたされた保育園の先生を引き取るために警察へ行って直談判してくれたり、子どもを学校へにやる時に、本名で行けるようにと母親と一緒に行ってくれたり。先生のそういうことを見ていると、あの家は先生に差し上げるべきだったと思うに至ったのです。ですから夫婦で相談してこれを持ってきたんです。受け取ってください」

彼はそう言って、私が彼の家を買った時に支払った代金の全額を持って来てくれたのです。これにはたまげました。

わたしは、この家はそれだけの価値のあるものだった。 夏は川べりで涼しいし、毎年8月15日の花火大会の日には、目の前で花火が上がる一等地だ。 増水すれば床下に川が流れて部屋に居ながら魚釣りも出来る。もう元は取ったからそんなお金はいいよ、と言うのですが、彼はどうしても聞き入れなかった。

折角のお志なので私はそれを受け取りまして、戸手教会の特別のファンドとしました。それは教会の関係者、在日の子どもたちで高校以上に進学する子どもたちの入学金の一時払いなどに運用する「キム・マンス奨学金」として、教会の財産になっています。

このおじいちゃんが洗礼を受けました。 彼はガンで入院していましたので折々にお見舞いに行くと、先生、俺みたいな学のない人間でも洗礼受けられるかねぇと言うのです。私は、洗礼は学なんかと関係ないよ。これまでのことを全部イェスさまにお詫びして、イェスさまの言われる「神様を愛しなさい、隣人を愛しなさい」といういましめを心から守る、という気持ちさえ出来れば、だれだって洗礼を受けられるのだよと答えました。

マンスさんが、じゃあ、私も受けたいからよろしくお願いしますと言うのでそういうことになったのですが、普通の場合であれば、受洗の決意をした求道者には日本基督教団の信仰告白を3ヶ月ほどかけて勉強してもらうのです。しかし小学校も出ておらず、母国語のハングルさえも十分使えないこのおじいちゃんに、日本基督教団信仰告白を勉強させること、そんなことをイェスさまがお望みになるだろうか?

しかし私は何とかしてこのアボジの、「自分の」信仰告白を聞きたい、そういう思いでおりました。 そんなある日ユチェさんが、今まではアボジは私に金庫を触らせなかったけれど、入院してしまったので必要なものを取りに行かせるため、私に番号を教えてくれた。 そうしたら金庫の中から、こんなものが見つかったんですよ、と言って私に見せてくれたものがあります。

それはガンの鎮痛剤の箱の裏に青いボールペンで書かれた、明らかに彼の筆跡によるメモなのです。そこには、

マイナスナ コトコソ
イキルバネ

と書いてありました。その言葉を読んだ時私は、しばらく前に第二コリント12章で使徒パウロが書いている「弱さを持ちながらも、その弱さの中にキリストの恵みがあふれてくる。 だからこそ、私はこの弱さを誇ろう」という聖書の箇所で説教をしたことを思い出しました。人生におけるマイナスこそ、神の恵みによってプラスに変えられる、力になるのだという話をした事がある。

その言葉はアボジには、自分にとっての言葉だった。 小学校も行けないような貧しい田舎に生まれ、強制連行されてきて、彼は日本の社会でずっとマイナスばっかり生きてきた。 この人が、この聖書の言葉によってマイナスなことこそ実は生きるバネ、生きる力なんだと、まさにこの逆転の福音の論理にふれたのです。

その言葉を聞いたとき彼は、ポケットから何か書くものを取り出して忘れないようにメモをとり、この言葉は自分にとっての大事な言葉だ。それを紛失しないようにと大切に金庫にしまったのですね。

これこそこのアボジのすばらしい信仰告白だと思った私は、役員会にはかり、皆さん揃って了解の上でこの言葉を彼の信仰告白としてバプテスマを受けていただこうという事になりました。

お亡くなりになる2年前のペンテコステに、こうして彼は洗礼を受けました。

そののち彼は本当に平安のうちに信仰生活を送り、祈り会にもこつこつと参加されました。祈りの時には韓国語で「クリゴ、クリゴ」(そして、そして)と繰り返しながら祈っている姿が思い出されます。

このぶどう園の雇い人のたとえ話から、私たちが本当に確認しなくてはいけないことは、力を持ち、力によって所有することはますます神の国の福音から遠ざかることである。何も持たない、というところに、むしろ恵みの力が満ちあふれるのだ、ということ。 この「逆転の福音」を本当に一人ひとりの生活の中で、ある事柄を見るたびに、ある事柄に関わるたびに、このことを思っていただきたいと思います。

隣人についても、学校についても、教会についても、また自分自身についても、この「逆転の福音」の論理、そこにこそ、神の恵みに導かれる道筋があるという事を覚えていただきたいと思います。

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