エゼキエル書34章は、「牧者たち」に対する厳しい批判の言葉で始まる。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか」(2)。古代中近東には政治的指導者を「牧者」と呼ぶ伝統があったので、ここで預言者が言うのも、具体的にはユダ王国末期の王たちのことだと考えられている。
エゼキエルは、紀元前6世紀の預言者であった。「バビロン捕囚」という民族的悲運に際会して、彼は強制連行された捕囚の人々と一緒にバビロンに行き、そこに住んだ。そして、このように故国から遠く離れた異郷バビロンにあっても神は共にいて下さると信じ、ややもすれば希望を失いがちな民に慰めと励ましの言葉を語ったのである。
しかし、彼はまた、他の偉大な預言者たちと同じように、悪しき政治指導者の責任を指摘して反省を迫ることも忘れなかった。ユダ王国の王たちは神から授かった任務、すなわち、「群れ(国民)を養う」という務めを放棄し、逆に国民を食い物にしたとして悪政を批判する。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」(3)。つまり、王たちは、民衆が汗を流して生み出すもの(ヨーグルト・羊毛)を搾取し、民衆を殺してその肉を食べるようなことをする。少しも慈しまない。「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(4)。そしてその結果、「わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」(6)。要するに、悪しき王たちのゆえにユダの民は「バビロン捕囚」という民族的悲劇を味わったのだし、各地に離散して誰からも顧みられないという憂き目にも遭ったのだ、というのである。そして、このような悪しき支配は預言者エゼキエルの時代に限らない。
一昨日葬儀が行われたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、1920年にポーランドに生まれた。1939年の9月1日、ドイツ軍が電撃的にポーランドを攻撃して(電撃戦!)、アッと言う間に全土を支配したとき、彼は19歳だった。感受性の豊かな彼は、独裁者というものはどんなに非道なことでも平気でするものだという事実を目の当たりにする。しかも、暴虐な支配はヒトラーに限らなかった。背後にはスターリンが支配するソ連があり、彼もまたポーランドを食い物にした。ヨハネ・パウロ2世は、多くのポーランド国民と同じように、この二つの独裁体制のはざまで生き、虐げられる側の苦しみ・悲しみをつぶさに味わったのであった。
だからこそ、彼は世界平和のために発言し続けたし、イラク戦争にも反対した。その点で、ヒトラーとの間に「政教協定」(コンコルダート)を結んだために「ホロコースト」に明確に反対できなかったピウス12世とは違う。また、彼はカトリックが犯した歴史上の過ち(魔女狩り・十字軍・反ユダヤ主義など)を率直に謝罪し、それによって和解への道を開き、道徳的な信頼性を取り戻した。このような人物が4半世紀にわたってカトリック教会を指導したことは、世界にとっても幸せであった。
もちろん、批判される点もいくつかある。「解放の神学」に対しては一貫して否定的だったし、女性司祭も遂に認めなかった。英国国教会との和解、プロテスタント諸教会との関係修復はある程度進んだが、東方正教会との対話は成功したとは言えない。宗教間の対話も不徹底だった。だが、たゆみなく平和を訴えて世界の政治的指導者たちに語りかけた点で、彼は預言者の精神を引き継いでいたと言えよう。
だが、エゼキエルの言葉はもっと厳しいものであった。彼は、悪い政治指導者たちに向かって、「お前たちの支配が長続きすることはない」と直言する。「牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる」(9-10)。さらに続けてこう言う。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11)。
地上の王たち・支配者たちが群れを見捨て、食い物にし、本当にケアする責任を放棄する。その時には、主なる神がご自身で群れを探し出し、彼らの世話をして下さる、悪しき支配者にはもう用がない、とエゼキエルは言うのである。
彼によれば、神はこう約束される。「わたしは良い牧草地で彼らを養う」(14)。さらに、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16)と。これこそ神の意志なのだ、とエゼキエルは言う。ここに、私たちは人間社会の本来の在り方を見るのである。
そして、このエゼキエルの思想は、主イエスが宣べ伝えた「神の国」の福音に引き継がれ、最も美しい形で実行に移された。この神の意志・約束は、イエスの十字架上の死によって一旦は滅びたように見えたが、そうではなかった。それは今も、そしていつまでも生きている。イエスの復活とは、そういうことである。
私たちの神は、「自分自身を養う」牧者のようではない。神は、弱い者たちを、良い牧草地で養われる。神は、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くして下さる。この約束は、決して死なない。
復活後第2主日は、古来、この日の入祭文「地は主の慈しみに満ちている」(詩33,5)に因んで「主の憐れみ」と名づけられている。この日の説教のテキストとしてエゼキエル書34章が選ばれているのは、大変意義深いことではないか。