ヨハネ福音書によると、復活した主イエスは三度弟子たちに現れる。最初は空虚な墓のそばで現れた(20,1〜18)。二度目は、弟子たちが「ユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけて」(20,19)集まっていたときで、その密室の中にスッと入って来られた。今日の所に書かれているのが三度目の顕現であって、「ティベリアス湖(ガリラヤ湖)畔で、また弟子たちに御自身を現された」(1)。
この「三度」ということの意味について考えたい。聖書は大事な場面でしばしば「三度」という数を持ち出す。
十字架の直前、主イエスはゲッセマネの園で、三度、「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14,36)と祈られた。ペトロは三度、主イエスを否認した。イエスが大祭司の屋敷に連行されて宗教裁判にかけられたときのことである。ペトロは見え隠れについて行って成り行きを見守っていたが、人に見咎められて「あなたも、あの人の弟子の一人ではないか」(18,17)と追求された。ペトロは言下に「違う」と否定し、同じ否定の言葉を三度繰り返したのである。マルコによると、最後には「呪いの言葉さえ口にしながら」(マルコ14,71)、そんな人は知らないと断言した。
「三度」には、そのように重い意味がある。二度までは、本心でないことを「つい」言ってしまうことがある。気の弱い人間にはあり勝ちのことだ。だが、「仏の顔も三度」という言い方があるように、三度となると取り返しがつかない。
他の福音書によると、イエスは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(マタイ26,75)と予告されたという。その言葉通りに、ペトロが三度イエスを裏切った直後に、鶏が鳴いた。それを聞くとペトロは我に返り、外に出て激しく泣いた。バッハの『マタイ受難曲』では、テノールがこの後悔の思いを切々と歌う。しかし、もう遅い。これは、取り返しのつかない裏切りである。
だが、復活したイエスはこのペトロに会う。裏切り、男泣きに泣き、挫折して元の漁師に戻ったペトロに現れるのである。そして、三度、「シモン、わたしを愛しているか」(21,15)と問いかける。「ペトロは、イエスが三度目にも『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17)。悲しくなったのは当然である。ペトロはあの裏切りを思い出させられて、あらためて悲しくなったのである。万感の思いをこめて、彼は答える。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。
復活したイエスが三度目に「弟子たちに御自身を現された」(21,1)とヨハネが今日のところで書いたとき、彼はそこに、今述べたすべての意味をこめたのではなかったろうか。ヨハネは一度だけではなく、二度というのでもなく、三度、つまり手を変え・品を変えて、渾身の力を込めて、「これは大事なことだ」と語ったのである。主イエスは生きておられる! 死んで過去のものになったというのでは断じてない。彼は生ける方として弟子たちに現れたのだ。
今日の記事によると、復活された主イエスがティベリアス湖畔で七人の弟子たちに現れたのは夜明けであった。弟子になる前は漁師であった彼らは、イエスの死後、ほかに行く所もなく、この湖畔に戻ってまた昔の職業を続けていたのであろう。前の晩も漁に出たが、何も取れなかった。がっかりして帰って来る。その時、岸に立っておられるイエスを見たのである。しかし、それがイエスであるとは彼らにはまだ分からない。するとその人が、「何か食べるものがあるか」と言われた。「何もありません」と答えると、「船の右側に網を打ちなさい」(6)と命じられた。その通りにすると、驚くべき大漁が起こった。
これは何を意味するのであろうか?
復活の主が「生ける方として」弟子たちに現れ、深刻な挫折を経験した彼らに、「必ず生きて行ける」という約束を与えた、ということである。大漁は、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた奇跡(ヨハネ6,1-15)と同様、そのことの徴なのである。
私は最近、よく自分の人生を振り返って考える。戦争中のこと。戦後の絶望的な状況。食糧難。職業軍人であった父の挫折と失業。病身だった母をめぐる心配。その中で神学校に進もうと決心したときの、どこか頼りなかった気持ち。貧しい学生の財布の中に10円しかなくなったときの心細さ。病気で半年寝込んだときの不安。やっと牧師になってからのさまざまな問題、等々。
これから先、果たしてやっていけるだろうか? 何度、そう考えたことだろう。だが、私も私の家族も、生きて来ることができた。皆さんの中にも、さまざまな困難を抱えて前途に不安を感じている方がおられるかもしれない。だが、私は今、単純に信じている。私たちは必ず生きて行ける。
主イエスは復活され、生ける方として弟子たちに現れた。そして、漁師にとっては辛い不漁という現実に力を落していた彼らに、驚くべき大漁を通して、「必ず生きて行ける」という信仰を与えた。主イエスの復活とは、そういうことである。ヨハネは、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5,25)と言ったことがある。このことを信じたい。
復活祭の次の日曜日は、古来、この日に読まれた「生まれたばかりの乳飲み子のように」(1ペトロ2,2)という聖句によって、「生まれたばかりのように」(カシモドゲニティ)と名づけられている。まことに相応しい名前ではないか。