2005・2・27

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「貧しいやもめ」

村上 伸

エレミヤ書20,7−12マルコによる福音書12,41−44

 注解書によると「賽銭箱」とは、神殿の庭の壁を背にして置かれた13個のラッパ型の容器だという。施しのためのもので、今日風に言えば「災害救援募金箱」のようなものだったのだろう。そして、たまたまその「向かい側に座って」(41)いたイエスには、群集がそれに金を入れる様子が見えた。「大勢の金持ちがたくさん入れて」いるところは、特別によく見えたであろう。

この場合の「金持ち」とは、一般的な意味で「豊かな人々」というよりは、38節の「律法学者」を指していると思われる。彼らは、主イエスが厳しく批判されたように、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38〜40)ような人たちで、自己顕示欲が強い。それに当時のユダヤでは、多額の献金をした人がいると「ラッパを吹き鳴らす」(マタイ6,2)こともあったというから、律法学者たちが「これ見よがし」に金を入れたとしても不思議ではない。

「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた」(42)。この女性は、貧苦のために、ごく僅かのお金しか入れることができなかったのだろう。「レプトン」とはローマ通貨の最小単位で、「デナリオン」の128分の1に当たる。「1デナリオン」が労働者の1日分の賃金に相当したというから、「レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランス」は現代の価値に換算すると、多くて何十円という程度の小額である。恐らく、彼女は人目を憚るようにしてそのお金を入れたのではなかったか。それがどうしてイエスの目にとまったのか?

この疑問はしばらく措き、ここで私自身の体験を紹介したい。

1977年の11月に、当時ドイツ教会の世界宣教部で仕事をしていた私は、南アフリカ共和国に赴いた。人種差別(アパルトヘイト)が厳しかった頃だが、差別されている側の「モラビア兄弟団教会」の招きで2週間滞在し、各地を訪ねたのである。

ある日曜日、ティナナという小さな村の教会で、感謝祭礼拝の説教をすることになった。牧師が私を紹介して、「この人は私たちのところに来てくれた最初の日本人です」と言い、それから、He is black! と付け加えた。私は嬉しくて緊張もほぐれ、心をこめて説教をしたのだが、その直後、歌と踊りが始まった。

会堂の真ん中に木のテーブルを据え、その上に粗末なアルマイトの洗面器を置いて、会衆は周りをぐるぐる踊りながら献金を入れて行くのである。それも一度に全部入れるのではない。何度でも小出しにする。嬉しそうな身振りや手振り、それに歌声と手拍子。私も黙っていられなくなって踊りの輪に加わり、10ランド(日本円で2000円ぐらい)を入れた。その途端に会計係の人が駆け寄ってその紙幣をつまみ上げ、「日本から10ランドだよッ」と叫んだものだ。その恥ずかしいことといったら!

この踊りは、昼食も食べずに延々と午後2時過ぎまで続き、献金が全部で92ランド(約2万円)に達したところで終わったが、最後の手拍子が終わると牧師が何か言った。またもや歌と踊りが始まった。「一寸しつこいな」と思って見ていた。だが、実はこの最終ラウンドは「日本の教会のため」のものだったのである。小銭ばかり入ったずしりと重い紙袋を渡されたとき、私は感動して涙が出た。

この人たちは大多数が白人の農場で働き、当時、月に僅か2ランド(約430円)とミルクを貰っていた。道路工事の労働者の日給は20セント(約43円)。こんなに少ない現金収入の中から、彼らは一年間、少しづつ献金を積み立てて、この「感謝祭」の礼拝に持って来るのである。

この人たちの姿が、私には「レプトン銅貨二枚」を入れた貧しいやもめに重なって見える。すると、10ランドを入れた私は、あの金持ちだろうか?

だが、ここでさっきの問題に戻らなければならない。あのやもめは、誰にも見えないように、こっそりと零細な金額を入れたはずである。それが、どうしてイエスには見えたのだろうか?

実は、ここに今日の話の中心がある、と私は考える。実際のところ、彼女がいくら入れたか、主イエスには見えなかったであろう。だが、彼は、彼女の切ない心情をしっかり汲み上げて、それを温かい目で見守っておられたのだ!「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである」(43〜44)と言われたのは、そのことの証しに他ならない。そういう方が私たちのそばにいるということ。このことを、福音書は伝えようとしているのである。

主イエスは、社会であまり意味がないと見られている小さな存在や、無視されている弱者に対して、常に温かい目を注いだ方であった。野の百合、空の鳥。大人たちにうるさがられる子供たち。病気で寝ている人々。徴税人。貧苦のために律法に定められたこともできず、そのために「罪人」というレッテルを貼られた人々。そして、貧しいやもめ。

主イエスは、自分の業績を吹聴する人々の声高な弁舌には耳を貸さない。心の中で「言葉にもならない呻きでしかないような祈り」(ルター)を呟く人々の、声なき声に耳を傾けて下さる。彼は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4,15)方なのだから。詩編25,15によって「目は」と名づけられたこの受難節第3主日、私たちはいつもこの主に目を注ぐ者でありたい。



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