マルタとその姉妹については、ヨハネ福音書11章にもやや詳しい話が出ている。それによると、この姉妹はエルサレム付近のベタニア村に住んでいて、ほかにラザロという兄弟がいた。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5)とあるところを見れば、イエスはこの三人とは旧知の仲だったのであろう。その頃、ラザロは重病を患い、危篤に陥った。姉妹は動転してイエスのもとに人をやり、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3)と言わせた。だが、イエスは中々来てくれない。その間にラザロは死んでしまう。イエスがやっと姿を現したのは、死後四日も経ってからだった。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った」(20)。そして、待ち焦がれていた思いを吐き出すようにして、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言う。しかし、健気なマルタは単なる愚痴で終わらず、気を取り直して、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22)と言い、さらに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています」(27)と信仰を告白した。マルタは、このように、主体的で積極的な女性であった。
それに比べてマリアは、どちらかといえば静かで内省的な性格のように見える。マルタがパッと飛び出して行った時も、彼女はひとりで「家の中に座っていた」(20)。マルタが帰ってきて、「先生がいらして、あなたをお呼びです」(28)と耳打ちしたとき、マリアは初めて行動を起こす。彼女は主イエスのおられる所に行き、「イエスを見るなりその足もとにひれ伏した」(32)。そして、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21)と言う。この嘆きの言葉はマルタと同じだが、いきなり足もとにひれ伏したマリアの態度に主イエスは心を打たれたのではなかったか。彼は、「涙を流された」(35)。
ヨハネ福音書を続けて読んでいくと、主イエスはラザロを甦えらせた後で、もう一度ベタニアのマルタの家に行き、そこで夕食を共にされたという。その時も、「マルタは給仕をしていた」(12,2)。ところがマリアは、「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐう」(3)という、一見、浪費でしかない行動に出て、回りの人々を驚かせた。弟子の一人イスカリオテのユダなどは面と向かって彼女を非難している。しかし、イエスだけはこのマリアの行為を理解し、それは「わたしの葬りの日のため」(7)だと言って弁護された。
さて、この姉妹についての情報がいくらか増えたところで、今日のテキストであるルカに戻りたい。マルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」(40)いる。それなのに、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入って」(39)いた。マルタは苛立って、イエスにまで当たり散らす。「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」(40)。本当はもっとツンケンした言い方であったろう。自分がこんなに働いているのに、マリアったら先生のそばにべったり座ったきりで、何も手伝おうとしない。先生、何とか言ってやって下さいよ!
ここには「姉妹」としか書いてないが、この言葉の調子から判断して、マルタがお姉さんであることは先ず間違いないだろう。彼女は「妹のマリアは狡い」、と苛立っているのである。あちこちの家庭でもよく見かける情景だ。1999年の秋に私は同じ箇所について説教したが、その時、「妹というものは、私自身の経験から言えば、ひどくチャッカリしたところがある。だから、マリアの方が妹に違いない」と口走って、妹の立場にある方の顰蹙を買った。だから、今日はそうは言わない。マルタの方がお姉さんらしい、と言うだけで止めておこう。
もちろん、どっちが姉でどっちが妹かということは、どうでもいいことだ。重要なのは、この姉妹の主イエスとの関係である。
マルタは、いわばこの家の女主人であった。主人には、来客があったとき万事を取り仕切って接待する責任がある。ヨハネ福音書には「夕食」と書いてあるが、もしそれがお祭りに関係する食事だったとすれば、イエスだけでなく、他にも大勢の来客があったと考えられる。並大抵の忙しさではなかったはずだ。マルタはせわしく立ち働く中で、次第に「自分が動かなければ何事も回っていかない」という自己中心的な思いに囚われたのであろう。自我が強く意識される。マリアだけでなくすべての他者に対して、主イエスに対してさえ、注文がましくなる。こうして、平静な心が失われ、言葉はとげとげしくなる。「忙」という字は、「心を亡くす」と書くではないか。
しかし、イエスはそういうマルタを、あるいはマルタ的な生き方を、一概に否定したり断罪したりはしない。むしろ、深い愛をこめて「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである」(41−42)と語りかける。彼女が自ら軌道修正することを期待しているのである。
一方、マリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」。彼女にとってイエスは単に一人の客、接待すべき対象ではない。彼女の主である。マリアはイエスを自分の主として迎え、その言葉にひたすら耳を傾けたのだ。このことをイエスは評価したのである。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(42)、と。
ルカには、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11,28)、という思想が一貫している。その意味で、マルタ的な生き方は修正されなければならない。マリア的な生き方をする人が幸いなのである。