2005・1・9

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「大きな光を見る」

村上 伸

イザヤ書42,1−4マタイ福音書 4,12−17

 今日のテキストの最初に、「イエスはヨハネが捕えられたと聞き」(12)とある。そこから始めたい。洗礼者ヨハネ、この骨太の預言者を捕えたのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスである。彼が自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを我がものとしたとき、ヨハネは面と向かって、そういうことは「律法で許されていない」(14,4)と諌めた。そのことを根にもったヘロデは、紀元29年ごろのことだが、彼を捕えて死海の東にあるマケルス要塞の牢に幽閉したのである。

イエスはこの噂を聞いて、「ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(12‐13)という。「ゼブルンとナフタリの地方」とは、昔、イスラエルの12部族のうちゼブルン族とナフタリ族が住みついていた地域で、エルサレムから見れば辺境の地であった。そこへ「退かれた」というのは、ヨハネ逮捕の噂に怯えて「避難した」という意味ではない。ガリラヤは、悪代官ヘロデの支配下にあったわけだから、今まで滞在していた南の荒れ野よりも危険は大きい。イエスはむしろ、その「懐に飛び込んだ」と言うべきだろう。ヨハネの運命に現れたような苦難が待ち受ける場所に、イエスは進んで入って行かれたのだ。

イエスは逃げない。これが、この方の本質である。生まれたばかりの頃、ヘロデ大王がベツレヘム近辺の二歳以下の男の子をことごとく殺したとき、両親は彼を連れて秘かにエジプトへ逃げたが、それは後年、すべての人の罪の重荷を背負って十字架上に死ぬためであった。彼はその苦しみから逃げようとはしない。ゲッセマネの園で「この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈ったが、それでもこの方は逃げなかった。弟子たちは逃げた。弟子の筆頭ペトロでさえ逃げた。だが、イエスは逃げない。

正にこの点にマタイは注目する。イエスは苦しむ人々を見捨てて逃げたりはしないということ。その人々の苦しみを共に負うために、苦しみの現場に入って行くということ。そのことをマタイは、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(16)と表現したのである。

これはイザヤ書9章1節の引用だが、本来のイザヤの文章は、「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」(イザヤ8,23)となっていて、意味内容は少し違う。歴史的背景も別だ。

イザヤがこの言葉を語った頃(紀元前第8世紀)、北王国イスラエルはアッシリヤの攻撃にさらされていた。そして、ガリラヤ以北と地中海岸沿いの地方、およびヨルダン川の東側は、この大帝国に占領されたのである。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」というのはそういう意味だ。だが、イザヤは続けて「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と預言した。この地域の占領状態もやがて必ず終わる、というのである。

厳密に言えば、マタイは、本来イザヤが言おうとしたこととは少し違った意味でこの預言を引用したと言うべきだろう。「こじつけ」だと感じる人も、あるいはいるかもしれない。だが、それは違う。

紀元前8世紀のイスラエルは、大帝国アッシリヤの支配下で苦しんでいた。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」というのはそのことだし、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」も同様である。

その同じ地域が、イエスの時代にはローマ帝国領に編入されており、しかも、ユダ人の領主ヘロデの支配に委ねられていた。あの正しい預言者ヨハネを、宴会の座興のようにして首を刎ねてしまうような悪しき領主である。民はあたかも「暗闇に住んで」いるような、「死の陰の地に住んで」いるような状態であったに違いない。

現代のパレスチナにおいても、事情は変わらない。「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」の呻き声は止むことがないし、同じような苦しみにもだえている人々は他にも無数にいる。イラク、スーダン、中南米のいくつかの国、そしてアジア。

インド洋の大津波では15万人以上の人が死に、数万人の孤児が残されたと伝えられる。ところが、国連の報告によると、その孤児たちを養子縁組という名目で買い集める人身売買の悪徳商人たちが暗躍しているという。何という暗闇であろう。それは世界の至る所に「死の陰」を投げかけている。

しかし、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とマタイは言う。主イエスがこの暗闇の中に進んで入って行き、死の陰の地で呻く人々の苦しみを共に背負われたからだ。主イエスを通して、暗闇に住む人々は大きな光を見た!死の陰の地に住む人々に光が射し込んだ!そしてこれは、「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するため」(14)である。つまり、神の計画なのだ。

「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と宣べ伝え始められた」(17)。「天の国」とは、神の真実の支配のことである。この世では、悪しき独裁者・悪代官・悪徳商人らによる支配が横行している。だが、それはやがて必ず終わる。そして、神の真実の支配・愛の国が来る。その時は近い。

だから、諦めて投げやりになっている人々は悔い改めて方向を転換しなければならない。絶望から希望へ。投げやりな生き方から、「たとえ明日世の終わりが来ようとも、今日、わたしは林檎の木を植える」(ルター)という、将来を信じる生き方へ。



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