2005・1・2

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「信仰が無くならないように」

村上 伸

イザヤ書61,1−4ルカ22, 31−34

 大晦日の『毎日新聞』には、恒例の「いろはカルタ」2004年版が載っていた。昨年一年間の世相を振り返ったもので、苦笑いしながら読んだ。

 社会一般について。[オ]老いては子に振り込む(振り込め詐欺)、[キ]企業の社会的無責任(自動車会社のリコール隠し)[ユ]湯加減はさじ加減(入浴剤を入れた温泉)、[ヱ]縁側に熊(熊が頻繁に人里に出没した)、[モ]猛牛も牛丼も消え(近鉄球団と吉野家)、など。微笑ましい話題は、[ミ]みそかのご婚約(紀宮)、ぐらいのものだ。

 国内政治に関して。[ハ]歯で派が痛むヤミ献金(日歯連と自民党橋本派)、[カ]関西国債空港(関空の借金がかさむ)、[ム]無理やり郵政民営化[コ]国会の中心で未納と叫ぶ(政治家の年金未納が続々発覚)、[サ]三位失態改革など。苦笑を誘われるが、本当はニヤニヤしている場合ではないと思う。

 拉致問題はいよいよ深刻である。[ヰ]異骨に怒り(返された遺骨は誰のものやら分からない)、[ヒ]ひとみの佐渡情話(曽我ひとみさん)。

 イラク戦争に関して。[イ]井の中の非戦闘地域(自衛隊はサマワの宿営地に閉じ込められた)、[タ]大義破壊平気(大量破壊兵器が見つからなくても平気)、[ネ]ネオコン右派右派(共和党最右翼と宗教右派がゴリ押し政策を支えている)、[ケ]ケリーたいブッシュの背中(アメリカ大統領選。綿矢りさの小説『蹴りたい背中』をもじる)、[メ]迷言詭弁いろいろ宰相(人生いろいろ)、など。

 国際政治について。[ウ]ウクライナの毒饅頭(大統領候補の毒殺未遂)は凄まじい。

 災害について編集者は、2004年は何といっても「災」の一字に象徴されるような一年だったと書いた。同感である。[ヤ]山古志の、あなたの鯉遠く(中越地震。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」をもじる)。多くの天災があり、それを上回る人災があった。その総決算のようにして、年末にはスマトラ沖でM9.0の大地震が起こり、それによって惹き起こされた未曾有の巨大津波が沿岸各国を襲った。12万人にも及ぶ人々の命が失われ、生活基盤は根こそぎ破壊された。その損害は計り知れない。そこで、[ワ]災の波が広がるインド洋、である。その中で私たちは新年を迎えた。「お目出とう」と言うには程遠い気分である。

さて、『日々の聖句』(ローズンゲン)によると、今年の年間標語は、「イエス・キリストは言われる。『わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った』」ルカ22,32)である。今年、一年の歩みを照らす光としてこの言葉が与えられたということには、深い意味があるのではないかと思われる。

 これは、十字架の少し前、弟子集団の中心人物であったペトロに対して主イエスが語られた言葉である。マルコ福音書14章によれば、イエスが「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27)と言って弟子たちの離反を予告したところ、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29)と反発した。それに対して主イエスはさらに、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30)と明言した。すると、ペトロは力をこめて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31)言い張った。他の弟子たちも皆ペトロに倣った、という。

 だが、間もなく「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50)。ペトロだけは逃げず、イエスが宗教裁判にかけられるために大祭司の屋敷の中庭に引き立てられて行ったときも見え隠れについて行って、一部始終を見守っていたのである。その時まで離反するつもりはなかったのだろう。

 しかし、思いがけなくその中庭で大祭司の女中に見つかり、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」(67)と指摘されたとき、咄嗟にそれを打ち消してしまう。それからは、正に主イエスが予告された通りである。ペトロは心ならずも三度、「そんな人は知らない」(71)と否定した。

 ルカ福音書では、主イエスはペトロに向かって、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31)と語りかけている。弟子たちがサタンの試みに対して弱い存在であることを指摘しながらも、主は優しい眼差しで見つめているようだ。脱穀した小麦を風の中でふるいにかけると、籾殻は簡単に風に飛ばされる。それ程に弟子たちは弱い。ここでもペトロは大言壮語しているが、口ほどにもなく簡単に誓いの言葉を反故にするであろうことを、主イエスは知っていた。だから、ペトロに対してこう言ったのである。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)。

 信仰とは、よく誤解されているように「自分の信念」のことではない。「自分の信念」は、どんなに強いものであっても時にグラつく。そんなときに、変わらずに真実であり給う神を見上げるひたむきな「眼差し」。これが信仰である。自分の確かさではない。神の確かさである。これがあれば生きていける。過ちを繰り返しても、立ち直ることができる。そして、兄弟姉妹を力づけることもできるのである。

 その信仰が無くならないようにあなたのために祈る、と主イエスは言う。弟子たちと同じく小さな・弱い存在である私たちにとって、この主イエスの祈りこそ力の源に他ならない。



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