2004・12・24

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「時が満ちると」

廣石 望

ガラテヤ4,4-7

I

クリスマスは、救い主イエス・キリストの降誕を祝う、キリスト教会が最も大切にしている祭りの一つです。クリスマスになると一年は終わりを迎えます。仕事や学校から解放されて、休むための時間が与えられます。それは、単に疲れたからだを休めるためではありません。むしろ、心を休めるための時間、私たちに与えられた時の大切さについて静かに思いをいたすための時間です。

クリスマスのキリストは赤ちゃんです。町でも教会でも、クリッペ(飼葉桶)と呼ばれる飾り付けがなされます。そこでは家畜小屋の中で、羊や牛に囲まれた貧しい身なりの若い夫婦が、家畜の飼葉桶に寝かされた赤ん坊を静かに見つめています。そしてしばしば、外国からやってきた3人の博士が贈り物を携えて、赤ん坊のキリストの前にひざまずいています。赤ちゃんのキリストは、あらゆる赤ちゃんがそうであるように、無力で助けを必要とする存在です。しかし同時に希望のしるしです。生まれたばかりの小さないのちは、闇の中にともされた煌めく光のようです。赤ちゃんには、約束と未来がいっぱい詰まっています。ですからクリスマスは、子どもたちの祭りでもあります。

さきほどお読みした聖書によれば、キリストの誕生は、神さまが私たちに、神の子らとしての誇りと尊厳をお与えになるための出来事でした。それは、私たちが「神の子どもたち」として成人して大人になり、自由な者として生きてゆくための出来事です。〈神の子として大人になる〉とは、どういうことなのでしょうか。この出来事は、私たちの過去と現在そして未来と、どのような関係にあるのでしょうか。ご一緒に、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。

U

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(4節)

マリアの息子イエスが馬小屋で誕生したとき、この坊やが、人となった神であることを本当に理解できた人はいませんでした。そのことが初めて分かったのは、イエスとともに歩み、後に復活信仰をもつに至った人たち、つまり「救いをもたらす神の力は近い」と信じ、病気の人や仲間はずれにされていた人たちと共に生きて、最後には殺されてしまったイエスが、いまや神の命の中に迎え入れられたことを信じるようになった人たちです。その人たちが、キリストの誕生を振り返って、神は驚くべきことをなさった、イエスの誕生は御子を一人の人間として、この世界にお遣わしになった出来事だったのだ、と歌ったのです。

キリストの誕生がそうであるように、私たちは過去に起こってしまった出来事を変えることはできません。私たちの誕生も同じです。私たちは自分から望んで生まれてきたわけではありません。むしろ神のお定めになったときに、文字通り「生を受けて」生きる者となりました。「律法の下に生まれる」とは、広い意味にとれば、簡単に変えることのできない現実の中に生まれる、ということだと思います。私たちもまた、過去に起こったこと、いま過ぎ行こうとしている一年の間に起こったさまざまな出来事――そこには嬉しいことも悲しいことも、素晴らしいことも残念なこともあったはずです――、そうした出来事をなかったことにすることはできません。来年は、その意味で、たしかに今年の続きなのです。

しかし、過去に起こった、もはや変えることのできない出来事が、私たちのすべてを決めてしまうわけではありません。ちょうどキリストの誕生の本当の意味が、イエスの生と死、十字架と復活の出来事を通して明らかになったように、過去の出来事の本当の意味は、その後に起こることによって決まります。

古い約束も、それが成就されたときに初めて、その本当の意味が分かるのです。古代イスラエルの預言者は、周辺の民族からの軍事的な圧力をはねかえす新しい王の誕生を期待して、こう預言しました。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7,14)

しかし、この「インマヌエル/私たちと共におられる神」という預言が成就したとき、それは聖戦を戦う王としてではなく、馬屋の赤ちゃんとして実現したのです。なんと驚くべき約束の成就だったことでしょう。神は、予想もしなかった仕方で、大昔の約束を果たされたのです。

イエス・キリストの物語は、世界の歴史や私たちのこれまでの人生を、また私たちが久しく待ち望んできた事柄を、繰り返し新しく理解するよう促します。そして、過ぎ去った出来事の本当の意味を明らかにする力を、キリスト教会は「信仰」と呼んできました。ある牧師先生が、こう言っておられたのを思い出します。「未来は決断によって変えることができるかも知れない。しかし過去を変えることができるのは信仰だけだ。」

クリスマスは、無力な、しかし希望のしるしである赤ちゃんのキリストという光のもとで、過去の出来事の本当の意味を静かに思うための時間です。

V

「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。あなた方が子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送って下さった事実から分かります」(5-6節)

私たちは、毎日、そして日曜ごとの礼拝で、神に向かって「主の祈り」を捧げます。「天にまします我らの父よ」という言葉で始まる祈りです。生前のイエスは、神にむかって「お父さん」と呼びかけました。近き神への信頼が、愛の故に苦しむことを耐える、という彼の生き方を支えました。私たちも、そのように生きたイエスこそが、私たちのために人となった神の「ひとり子」であると信じつつ、主イエスの名によって、神に「父よ」と呼びかけます。この経験に基づいて、キリストの誕生は、神が「律法の支配下」にある私たちを解放し、神の子となすための出来事だったと言われています。

どうにもならない現実に直面するとき、私たちはもちろんがっかりします。そしてしばしば、この世界は救いようがないと感じて、生きることに絶望します。あるいは、頼りになるのは自分の力だけだと思い込み、すべてを奪い去って自分のものにしようと躍起になります。ばら色の未来を、何とか自力で作り出そうともがくのです。戦争は、自力による救いを求める、絶望的な努力の表われであるようにも感じられます。他方で、そのような努力が報いられないと感じた人たちの何人かは、生きることを諦めてしまうのです。

私たちが、それぞれに置かれたこの現実の中で、自家中毒を起こしてしまう危険から逃れる道は、どこにあるのでしょうか。イエスの生涯を記した福音書には、次のようなイエスの言葉が伝えられています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11,28-30)

疲れ果てた人たちが皆、イエスのもとで安らぎを見出すことができるのは、彼がどんな問題でも即座に解決してくれるオールマイティな神さまであるからではありません。そうではなく、イエスが柔和で謙遜であること、つまり無力で、いと小さき者たちの一人として、私たちの悲しみをご存知だからです。

この柔和なイエスを死せる者たちの中から起こした神に向かって、イエスとともに「おとうさん!」と必死に呼びかけることのできる人、自分の力の限界を超える柔和な神に向かって「父よ」と呼びかけることで、「神の子ら」としての尊厳を受けとることのできる人は、なんと幸いなことでしょう。

ここでも信仰とは、今の世界において、変えることのできないことと変えることのできることを見分ける力です。信仰は、この世界の現実に流されたり、そこに居直ったりすること、あるいは世界から逃げ出すことを拒絶します。むしろ課題としての「今」に取り組むことを選びます。そして、今を生きようとする信仰の秘密は、神が私たちに、苦しみの只中にあっても安らぎを与えてくれることにあります。クリスマスは、そのことを、もう一度感じとるための時間です。

W

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(7節)

「もはや奴隷でない」とは、自分の力ではとりあえずどうしようもない現実に直面しても、それで私たちの未来がすっかりふさがれてしまうわけではない、という意味だと思います。私たちは、むしろ成人した「子」として自分で判断し、自分で行動することができるのです。

この「子」としての身分を、私たちは信仰をもって、ただで神から受けとります。「父」なる神は、大人も子どもも、贈り物をもらっても、お返しをする必要のまったくない唯一の相手です。ただで受けとり、感謝をもって神のテーブルにつき、ともに喜ぶことだけが求められています。そして、ともに喜ぶ仲間たちが、神による共同の「相続人」です。神から私たちに託された遺産とは何でしょうか。イエスは、こう言いました。

「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐであろう。」(マタイ5,5)

柔和な人々、無力で苦しみの中にあり、他者の悲しみに共感する人々が「大地」を受け継ぐと、イエスは言いました。「大地」とは、いのちとあらゆる良きものに溢れた、この世界のことです。心優しき者たちが生きてゆくための空間が、神を通して私たちに共同の相続として託されています。

この世界を本当に受け継ぐのは、一握りの権力者ではありません。世界は、すべての「神の子ら」のものです。貧しい国の人々も、戦争の中を生きる子どもたちやお年寄りも、神に愛された子どもたちです。私たちは、この命のための場所を大切にし、その美しさに目を注ぐよう期待されています。

クリスマスは、神がそのひとり子をたまわったほどに愛された世界への愛を、もう一度私たち自身がかみしめて、未来を信じるための時間です。皆さんお一人お一人に、メリークリスマス!



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