2004・12・12

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「来たるべき方」

村上 伸

イザヤ書 35,1−10マタイ福音書 11,2−6

 ヨハネは聖書に何人もいるが、ここに登場するのは「洗礼者ヨハネ」である。ルカによると、彼はイエスよりも6ヶ月前に生まれたという。だが、彼は単に時間的に先に生まれたというだけでなく、イエスの道備えになるような生き方をした。いわば「先駆的な」預言者である。歯に衣着せずに真実を語って人々の魂を揺り動かし、悔い改めの洗礼へと導いた。このことはマタイ3章7節以下に詳しい。

だが、イエスが伝道を始められた時、ヨハネは既に囚われの身であった(3,12)。なぜ捕えられたのか? 恐らく、マタイ14章に記されている事件と関係があったのであろう。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕えて縛り、牢に入れていた」(14,3)とあるように、この逮捕はヘロデの意志であった。

ヘロデという人は、有名なヘロデ大王の妾腹の息子で、当時ガリラヤの領主であった。ヘロデ・アンテパスと呼ばれる。狡猾で不道徳な男で、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを自分のものにした。その時、ヨハネに「あの女と結婚することは律法で許されていない」(マタイ14,4)と強くたしなめられた。これを根に持って、ヘロデは彼を投獄したのである。

そして彼を殺すのだが、その時の経緯はマタイ14章6節以下にこう書いてある。「ところが、ヘロデの誕生日にヘロデイアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、『願うものは何でもやろう』と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場で下さい』と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に私、少女はそれを母親に持って行った」。名高い「サロメ」の物語である。

だが、この悲劇は、今日の所ではまだ起こっていない。ヨハネは牢の中でなお生きていた。しかし、彼は自らの運命を予感していたかのように、弟子たちをイエスのもとに送って、こう尋ねさせたという。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3)

この問いは、ただの単純な質問ではない。これまでヨハネは、イエスこそ「来るべき方」であって、イザヤ書9章1節の「暗闇に住む民は大きな光を見し、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という預言を実現するに違いないと確信していた。だから、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしはその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3,11)と言ったのである。彼は、その時は近いと信じた。だから、彼は「斧は既に木の根元に置かれている」(3,10)と語り、すべての人に「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8)と呼びかけたのである。この確信が今や揺らぎ始めたのではないか。

自分は今、人間の道に外れたことを平気でするような支配者の逆恨みを買った結果、こうして空しく獄につながれている。ヨセフスによれば、この牢は、死海の東6キロの山中にヘロデ大王が造った頑丈な「マルケス要塞」の中にあって、万に一つも脱獄の可能性はない。この獄中で、ヨハネは「自分の人生は何だったのか? 」と問い、「来るべき方は、あなたでしょうか」と問うた。「それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。この問いは、この預言者の深い動揺を表している。もしかしたら、あなたに望みを託してきたのは全くの見当違いだったのではないか。

『あらしのよるに』(作・きむら・ゆういち、絵・あべ弘士、講談社)という絵本がある。夜の暗い森の中で、ヤギと狼が互いに相手が誰かを知らないまま出会って友達になる、という話である。一月ほど前、大江健三郎さんが新聞に書いた文章によって私はこの絵本のことを知り、非常に興味をそそられて早速読んでみた。

「食うもの」と「食われるもの」とがやがて平和に共存するようになるというのは、イザヤ書11章が描いた美しい夢である。だが、そんなことは所詮「夢」であって、現実には不可能だという醒めた声が聞こえる。この『あらしのよるに』という物語でも、この声は通奏低音のように絶えず聞こえてくる。ヤギには、親切だが多少お節介な仲間がいて、彼らは「狼が出そうなところには絶対近づくな」と言って友情の邪魔をする。他方、狼もヤギに深い友情を感じてはいるのだが、時々、目の前にいる「美味しそうなヤギ」の匂いを感じて、思わず食欲をそそられたりすることもあるし、彼の背後には狼社会の圧力もある。ヤギは餌に過ぎないというのが、彼の社会の「常識」なのである。その中で、追い詰められた狼は結局、友情のために死ぬほかはない。

友情は私たちにとって大切だ。しかし、その友情は傷つき易い。およそ、友情であれ、平和であれ、希望であれ、美しいものはこの世では果敢なく、壊れ易いのである。この絵本は、一面ではこのことを子供たちに教えている。

ヨハネも獄中で、美しい希望が破れるという危険に直面していた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。これに対して、主イエスは答えられた。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(4-6)。主イエスは現実にこの世でこのように生きられた。これは「夢」ではない。現実なのである。これに賭けよ!



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