2004・10・3

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「福音のために共に苦しむ」

村上 伸

イザヤ書 2,7-10テモテ第二 1,7-10

 出発前の説教でも触れておいたが、ヴァイマールは、ドイツ文化が最も美しい花を咲かせた場所の一つとして、バッハやゲーテ、シラーの名と共に、あるいは「ヴァイマール共和国」や「ヴァイマール憲法」の名と共に永く記憶されるべき所である。だが、この古き善き伝統は、残念ながら1930年代に国家社会主義(ナチズム)によって破壊された。このことを語るとき、我々日本人の心の中にもある悲哀の感情が湧く。何故なら、日本も似たような過去を共有するからである。「ベルリン−東京枢軸」の時代、天皇を神とする超国家主義によって日本でも、そしてとくに日本が支配したアジアの近隣諸国において、多くの古き善き伝統が無残に破壊された。

 ナチズムがヴァイマールに代表されるドイツの古き善き伝統を破壊したことの象徴は、当時ゲシュタポによってこの美しい町の郊外に設置された「ブーヘンヴァルト強制収容所」であろう。だが、私はそれに付け加えてもう一つのことを言わねばならない。この強制収容所は一方では確かに恐ろしい非人間性の象徴であったが、他方、「気高さ」の記憶とも結びついているということである。殉教したパウル・シュナイダー牧師。権力者に膝を屈せず、人間性の尊厳のために自らの命を犠牲にした気高い人々。中でも、我々が特別な敬意をもって想起するのは、ここで最後の日々を過ごした7名の反ナチ抵抗運動の闘士たちである。

 彼らは1945年4月3日の深夜、ここからトラックで最後の旅に連れ出され、バイエルン各地を転々とした末、4月9日にフロッセンビュルク強制収容所で絞首刑に処せられた。D・ボンヘッファー、W・カナーリス、L・ゲーレ、H・オスター、F・フォン・ラーベナウ、K・ザック、そして、T・シュトリュンクである。

 1970年、その強制収容所跡にこの7名のために記念碑が建てられた。哀惜と敬意を込めて名が刻まれた。彼らは「独裁と恐怖政治に抵抗して、自由と正義と人間の尊厳のために命を捧げた」とある。碑の上のほうには小さな十字架の印があり、その中央に「第二テモテ1,7」と書いてある。今日の説教テキストの最初の一節である。

 その日、除幕式に続いて守られた礼拝では、ボンヘッファーの最も親しい友人であったE・ベートゲがこの箇所に基づいて説教した。その中で彼は、使徒パウロが「主の囚人」(8)でありながら驚くべき自由を失わなかったことを語り、神はこの七人にも「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を」(7)与え給うた、と述べた。彼によれば、7節の「思慮分別」というのは単なる「考え深さ」や「冷静さ」以上のものである。それは、「権力によって決して沈黙させられない霊」であり、「世界が今どこへ駆り立てられているかということを冷静に認識する霊」であり、「正しい情報を見分け、良心を鋭くし、行動へと準備させる霊」である。

 現代において我々が切に求めているものは、このような意味における「力と愛と慎みの霊」ではないであろうか。というのは、これと正反対の霊、「囚人の霊」がこの世を、特に先進諸国を支配しているからである。

 E・フロムは、名著『生きるということ』(“To Have or To Be?")の中で、現代世界は「無限の生産・絶対的自由・無制限の幸福」という三位一体の神を信じているかのようだ、と指摘した。現代人は、際限もなく物を作り・それを自分の物として所有することによって初めて自由にも幸福にもなれると信じている、というのである。だが、これは大企業の宣伝によって植えつけられた固定観念に他ならず、いわば地球規模で行われているマインド・コントロールの結果に過ぎない。「自由な」社会と自称する国々においても、人々を支配しているのはこの「囚人の霊」である。

 この「囚人の霊」は、「富の分配の不公平」というグローバルな問題を招いたばかりか、「環境の破壊」も招いた。それだけではない。「囚人の霊」は「臆病の霊」を生み出す。何かを失うことへの恐れから、人は既得権益に執着する。他者はもはや「共に生きるべき道連れ」ではなく、「競争相手」としか見られない。それは疑心暗鬼と不安を生み出し、政治的には軍備拡張競争ひいては戦争につながる。イラクにおける米国の「先制攻撃」はその典型であろう。

 預言者イザヤが、「この国は銀と金とに満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない」と言い、それにもかかわらず「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる」 (イザヤ 2,7-9) と言ったのは、このことである。預言者は、あの時代を縛っていた固定観念から自由だったのだ。

 だが、主イエスはさらに自由に、人は僅かなものでも互いに分かち合うことによって「共に生きる」ことができるということを明らかにした。五つのパンと二匹の魚で五千人が食べ飽き、しかも、「残りが12の籠にいっぱいになった」 (マルコ6,30-44) という奇跡はそのことを象徴的に約束している。

 この主イエスの約束に従って生きるなら、現代世界は「囚人の霊」から解放される。

 そのためには、先ず福音の証人である教会が解放されねばならない。だが、真の解放のためには苦しみが必要だ。だからこそ、パウロは愛する弟子テモテに向かって敢えて「福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」(8)と言ったのである。

 世界のすべての教会は、テモテと同様、「福音のために苦しみを共にする」ことを求められている。「囚人の霊」に振り回されるのは教会の正しい姿ではない。教会が共に苦しむことによってそれから解放され、真の自由な喜びに達する時、この世界も初めて「囚人の霊」から解放される。我々はそのことを固く信じる。



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