2004・8・29

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「いちばん上になりたい者は」

廣石 望

エゼキエル書 18,21-32マルコ福音書10,35-45

I

いまギリシアではアテネ・オリンピックが開催されていて、日本選手が大活躍しています。みな「いちばん上になりたい」と思い、厳しいトレーニングを重ねて大会に臨んでいます。私たちはそれをテレビで眺めながら楽しんでいます。いちばんを目指すことそれ自体はたいへんよいことであると思います。私たちもまた、少なくとも自分が得意とする領域、職場や家庭で責任を持っている領域において、それなりに有能でありたいと願っています。広い意味での向上心や、努力の結果を認めてほしいという願いは、現代人にとってのみならず、古代人にとっても自然な感情でした。

もっとも、国際ビジネスに発展したスポーツの世界が巨大な利権の集まる場所であり、オリンピック招致をめぐる賄賂のやりとりをはじめ、選手のドーピング、あるいは放映権やスポンサーをめぐる商業主義の悪影響などの問題を抱えていることも、私たちは知っています。そして、とりわけ国別対抗のかたちをとるオリンピックが、容易に「国威発揚」などの政治目的に利用されることも。

私たちの自然な向上心もまた、とりわけそれが権力志向と結びつくとき、いとも簡単に歪んだかたちをとることがあります。今日の聖書箇所は、そうした問題が、原始キリスト教においても無縁のものでなかったことを示しています。

U

マルコ福音書のイエスは、すでに生前に、自らの受難の死と復活について都合3度予告します(8,319,3110,33-34)。その3度目の受難復活予告に続くエピソードが、今日の箇所です。そこでは十二弟子に属するゼベダイの息子ヤコブとヨセフが、師であるイエスの「栄光」に際して、自分たちをその左右に坐す者としてもらえるよう、イエスに懇願します(37節)。するとイエスは、彼らの殉教の死を予言しつつ、その願いをやんわりと拒絶した後で、十二弟子の全員を呼び寄せて、次のように教えます。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42-44節)。

明らかにこの発言には、通常の社会的な上下関係と、それを前提とした上昇志向を逆転させる方向性が見てとれます。そして、ここでイエスが批判的な眼差しを向ける社会構造は、じつはローマ皇帝と彼をめぐる権力構造を反映しているようなのです。その手がかりをいくつか指摘しましょう。

V

「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し」という部分で、「異邦人」と訳された語は「諸民族」と直訳できる言葉です。つまり、ここで問題になっているのは少数の権力者が、複数の民族を含む国際社会において独占的な支配権を持っているという状況です。

「異邦人を支配する支配者たち」の頂点には、しばしば自らを「主」と呼ばせたローマ皇帝が立っています。「いちばん上になりたい者」という表現も、直訳すれば「筆頭でありたい者」です。そして「筆頭者」――ラテン語で「プリンケプス」――とは、ローマ皇帝をさす表現でした。なお、ここで「支配する」と訳されている語は、ふつうの「支配する」という動詞に、「トップダウン式に」という意味の前綴り(「カタ」)がわざわざ付加されています。ですから佐藤研さんは、この箇所を、「異邦人たちの支配者と思われている者どもは、彼らを〔暴圧で〕支配し」と訳しておられます(岩波版『新約聖書I』)。

さらに「偉い人たちが権力を振るっている」というときの「偉い人たち」――直訳すると「大いなる者たち」――とは、「諸民族」の中の「お偉いさんたち」という意味です。この彼らが皇帝から委託を受けて、諸民族に対して「権力を振るっている」とイエスは言います。彼らは「異邦人の支配者たち」であるローマ皇帝の家臣たちなのです。さらに「権力」という語は、ラテン語で「インペリウム」といいます。ローマ皇帝の統治権・命令権を指しています。「皇帝/エンペラー」「帝国/エンパイア」の語源ですね。つまり諸民族の支配者であるローマ皇帝は、自らの家臣である委任統治者たちを通してそれぞれの民族を支配する、という二重構造になっているのです。

皇帝の委任統治者には、イエスの故郷であるガリラヤとペレアを支配していた領主ヘロデ・アンティパスも含まれます。そのヘロデは自らを「王」と称しつつ、それこそ「偉い人たち」を家臣として宮殿に召し抱えていました。マルコ福音書にも、

「ヘロデは自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催した」(マルコ6,21

とあります。「偉い人たち」もまた、各自の権力装置をいわゆる〈とりまき〉として持っている。つまり、ヘロデはいわば「ミニ皇帝」なのです。現代の「帝国」と呼ばれる国も、世界の各地に、家臣のような「ミニ皇帝」たちを持っていますね。

マルコ福音書が成立したのは、ローマ帝国に対する武装独立闘争である第一次ユダヤ戦争に、ユダヤ側が破れた時代であると想定されています。エルサレムのヤハウェ神殿は破壊され、ユダヤ民族の自治権を含む公的な体制は崩壊し、大量の難民が周辺地域に流れ込んだ時代です。他方で、この戦争に勝利した将軍ウェスパシアヌスは、やがてローマ皇帝になります。福音書の読者は、このことを知っているでしょう。

W

歴史のおさらいは、このくらいにしましょう。以上のような権威主義的な社会構造をバックグラウンドにするとき、イエスの二人の弟子たちは、イエスに何を求めたことになるでしょうか。彼らは、こう言ったのでした。

「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。

これは、〈私たちを、あなたの帝国におけるナンバーツーとナンバースリーにしてください〉という意味です。二人の弟子は、イエスと自分たちの関係を、ローマ皇帝とその委任統治者たちの関係をモデルに理解しつつ、師であるイエスをヘロデ・アンティパスと同じような「ミニ皇帝」として扱い、それによって自分たちの上昇志向を満たそうとしたのです。上昇志向型の権威主義は、社会の支配層だけに見られる価値観ではありません。マルコ福音書を生み出した小さな共同体の内外にも、そうした意識は浸透していたのでしょう。

これがとんでもない勘違いであるらしいことは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(38節)というイエスの返答から分かります。マルコによるイエス物語を最後まで読めば、「一人をあなたの右に、もう一人を左に」という二人の弟子の願いは、他の人々に叶えられたことが分かります。すなわちイエスの十字架刑に際して、二人の「強盗たち」が、一人はイエスの右に、もう一人は左に、一緒に磔にされたのでした(マルコ15,27)。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、この「強盗」という表現を、先にふれた第一次ユダヤ戦争でローマ帝国の支配に刃向かった「反逆者」を含めて用いています。

さらにイエスは、彼らがやがて殉教するであろうことを予言しますが(39節)、さらにこう付け加えます。

「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(40節)。

つまり殉教の死ですら、将来の身分を保証するものではありません。イエスに従いゆくことは、信仰者の将来の身分を保証するための手段とされてはならない。マルコによる福音書には、その意味で、殉教を功徳とみなす視点はないと思います。

V

では、どうすればよいのでしょうか。イエスは言います、

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(43-45節)。

「支配者たち」「偉い人たち」が、〈仕えるためでなく仕えられるために来る〉こと、彼らが実質的に〈すべての人が自分の奴隷になる〉よう望んでいるのとは正反対の生き方を、イエスは十二弟子たちに勧めます。そして、自らは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言います。

「仕える」とは、「従う」ことと並んで、マルコ福音書で「弟子たち」のイエスに対する振舞を特徴づける行為です。イエスに「仕える」者が、イエスの弟子なのです。他方で「僕(奴隷)」とは、主人のために生産的に働く者のことです。キリスト教会は、イエスを「主」と告白しますが、そのイエスは、すべての人に仕え、そのために働くよう教えるのです。自分自身も、そのように生きたのだからと言いつつ。イエスのそのような生涯の頂点に、彼の磔刑死があります。

ここでは、その死が「多くの人の身代金」であったと言われています。「身代金」とは、人質や奴隷を解放するための代金のことです。これはもちろん比喩です。イエスの磔刑死は一つの虐殺事件であり、人質解放や奴隷の身請けといった人身の取引とは、直接的には何の関係もありません。しかしイエスの生涯の歩みが、当時の社会に支配的であった権威主義的なメンタリティーを根本から覆すものであった点に注目すれば、十字架の死に至るイエスの歩みは、私たちに権力志向からの解放をもたらすものであったと言ってよいと思います。

権力志向から解放された者は、〈主イエスの解放奴隷〉として、他者に仕えること、他者のために生産的に活動することができるようになります。自分の利益や成功のプレッシャーから自由になって、人の役に立つことをすることができるようになるのです。そこには暴圧的な支配に対して「否」という声を上げることも含まれるでしょう。そのとき私たちは、相変わらず「いちばん上になりたい」とか「偉い人になりたい」とか仮に言うとしても、まったく新しい意味でそう願うようになるでしょう。



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