2004・8・1

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「愛にしっかりと立つ」

村上 伸

ミカ書4,1−3エフェソ書3,14−21

 私は戦争を身近に体験したことが一度だけある。1945年8月1日、つまり59年前の今夜だが、西八王子にあった陸軍の学校の生徒だったとき、米軍による大空襲を受けたのである。学校は八王子の町もろとも激しく炎上した。私たち生徒は雨のように降ってくる焼夷弾を避けながら、少しでも安全な所を探して裏山の森の中を逃げまどったのだが、そこにも爆弾は容赦なく降り注いだ。

 ようやく米軍機が去ったのは明け方で、跡形もなく焼け失せた校舎のほうへ戻ってくる途中、私は何人かの友達が倒れているのを見た。一人は黒焦げになって既に絶命していた。落ちてきた焼夷弾が背中の真ん中に突き刺さって、そのまま燃えたのである。別の一人は、焼夷弾を何十発も包んでいた鉄板がベランベランと落ちて来るのに頚動脈を切断されて死んでいた。三人目は膝の上に焼夷弾の直撃を受けて、空ろな目を開いて横たわっていた。この少年も間もなく息を引き取った。

 もちろん、私の知らない場所で死んだ友達もいた。私の「寝台戦友」は、横穴防空壕に逃げ込んだ後、直ぐ前に建っていた建物が燃えて、その熱で蒸し焼きになったと聞かされた(後にこの情報は間違いであったことが分かり、今から15年位前に私たちは再会した)。空襲の激しさに比べて死者の数はそれほど多くはなく、学校全体で11人だったと記憶する。皆、14,5歳の少年だった。

 私たちは、死んだ仲間の遺体を担架に載せて一箇所に集めた。疲れのせいもあったろうが、4人で担いでもよろける程、異様に重かった。11人の遺体を燃え残った木材の山の上に並べて火をつけ、荼毘に付した。これが私にとっては唯一、身近に経験した戦争だったのである。

 その頃の私は、軍国少年の例に漏れず、口を開けば「神州不滅」とか、「倒れてのち止む」とか、威勢のいいことばかり言っていたが、いざこういう場面に出会うと、からきし意気地がなかった。少年のまま死んで行った友達の体が燃えていくのを見守りながら、私はただ泣いていた。泣きながら、私はそういう自分を恥じていた。帝国陸軍の将校の卵としては余りに弱過ぎるのではないか?

 それから二週間後に日本は降伏した。明日はアメリカの占領軍がやって来るという前の晩、「俺たちは銃を取って戦う」と息巻く仲間がいた。私はその時、もちろん人には言わなかったが、「そんなことはごめんだ!」と思った。突進して来る米軍の巨大な戦車や、火を噴く火炎放射器や、唸る機関砲などを想像し、その前に玩具のように小さな小銃を持って立ち向かう自分を想像して、全身が恐怖で震えた。それは空襲よりも遥かに恐ろしかった。そして、そのように恐れる自分を、私はまた恥じた。

 その頃の私たちは、恐怖を克服して勇敢に敵と戦い、そして華々しく死ぬことを最高の価値と教えられていた。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と『葉隠れ』にもある。「命は鳥の毛(ダウン)よりも軽いと思え」、とも戒められた。

 だが、空襲の晩、15歳の少年が感じた恐怖は、そんなに恥ずべきことだったのだろうか? それは人間としてごく自然な反応ではなかったか?

 今思えば、あの時を境に、それまで教え込まれた「価値観」が崩壊し始めたようである。それに代わるものが見つかったわけではない。聖書の言葉と出会って、私の中に新しい価値観が根を下ろし始めたのは、それから1年ほど経ってからである。

 今日の箇所に、「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16-17)と言われている。

 ここでも、「力」・「強める」・「しっかりと立つ」ということが価値のあることとして考えられている。キリスト者は、「弱い人間」であってはならない。だが、その力・強さ・堅固さは、軍国少年であった私が信じたとは根本的に違う。それは、我々の中に本来内在する力でも、無理やり装う強さでもなく、神が我々の「心の内にキリストを住まわせて」下さることによって与えられる新しい力・強さである。

 キリスト者は自分の中に「弱さ」があることを知っている。この手紙を書いたパウロは度々自分の「弱さ」について告白し、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(2コリント12,5)とさえ言っている。どうしてそんなことが言えるのか? それは、神が、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたからだ。「だから、キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」12,9)と公言したのである。

 そして、この力は「愛の力」である。神から与えられた自分の命を、他者の命と共に大切にし、生きとし生けるものの命を慈しみ、育む愛の力である。我々のうちに宿るキリストが、我々を「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださる」

 今日は「平和聖日」。

 平和は敵を殺すことによって守られるものではない。すべての人が「愛にしっかりと立つ」ことにより敵意が和解へと変えられるときに、初めてもたらされる祝福なのである。そのことを心に刻みたい。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる