引き続き教会(エクレシア)について考えたい。
今日の箇所の最初に、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7)と言われている。教会にはいろいろな人がいる。一人一人顔が違うように、人生経験も性格も得意なこともみな違う。だが、正にこの多様性が神の恵みなのだ、とパウロは言う。そして16節で、彼は、このことをもう少し具体的に説明する。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行くのです」。
このように、教会を「体」に、一人一人の信徒をその「部分」に喩えるやり方はパウロが愛用したものだ。最もよく知られているのが、コリントの信徒への手紙一12章12節以下であろう。この比喩は分かり易い。教会は人体のようである。一つ一つの部分がさまざまに異なった形や機能を持ち、それらが無駄なく働いて体全体を生かす。
人は、健康で何事もないときは自分の体を意識しないが、一旦何かあると、どんなにそれが巧く出来ているかを改めて知らされる。娘がまだ幼かった頃、テーブルから転げ落ちてガラス戸に頭から突っ込み、血がどっと噴き出してきたことがある。妻は娘を抱え起こして頭の傷を調べ、大したことがないことを確認すると、「神様が造って下さった頭骸骨はなんて丈夫に出来ているのでしょう」と言った。私の方は、かなりの出血に動転して、「呑気に感心なんかしている場合じゃない! 早く医者へ」と怒鳴ったが、後で考えてみると、確かに人間の頭骸骨は大事な脳を守るために巧くできている。薄すぎず厚すぎず、衝撃も適度に吸収する。血が出ること自体にも意味がある。
パウロは頑健な肉体の持ち主ではなかった。激烈な発作を伴う病気を持っていたし、目も病んでいた。それだけに一層、病気を知らない人よりはずっと身に沁みて、人体の不思議さを感じていたのではないか。だから、彼が教会を「体」に喩えたときも、先ず、その複雑で精巧な仕組みに対する「驚嘆」の気持ちが、彼の心を揺り動かしていたように思われる。
この人体の比喩に比べると、8−10節の言葉は分かりにくい。「高い所に昇る云々」という言葉は、詩編68,19の引用である。これは、神が敵対する勢力に勝利して御自分の支配を完成されるということを歌った詩だが、それをパウロはかなり自由に解釈して引用した。全体として回りくどい印象を与えるが、言いたいことはこうである。――キリストは我々と同じ人間として地上で生活された方だから、我々に何が必要かということはすべて知っておられる。その方が今や復活して天に昇り、そこから我々を助けて下さる。それも、我々が個人個人バラバラに生きるのを助けるというのではなく、「教会」の中で各自がその賜物を発揮しながら「共に生きて行く」ことができるように助けて下さる、ということである。
教会とは、先週も述べたように、聖書を通して、また、キリストによって、全人類に関わる神の意志を知らされ、それを証しし続ける群れである。
そして、「全人類に関わる神の意志」とは、要するに、人間が二つに分かれて敵対したり、互いに憎み合ったり殺し合ったりしてはならない、ということだ。そんなことを神は決してお望みにならない。「互いに愛し合って共に生きる」ことをこそ望まれる。これが、神の永遠不動の意志なのである。
この神の永遠不動の意志を、地上の世界において完全に現したのがキリストである。だから、このキリストが教会の「頭」である。「神は、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会に与えられました」(エフェソ1,22)。
「脳」の指令によって「体」の各部が動くように、教会に指令を出して動かす「脳」はキリストである。教会の「頭」は牧師でもなければ、誰か他の偉い人でもない。キリストである。かつて「リーダーシップ」についての講義を聞いたことがある。「リーダーシップ」はある人物に固定的に付随するものではない、と教えられた。グループの中の、普段は目立たないある人が、ある時ポツンと何か言い、それがグループの皆を動かしたとき、「リーダーシップ」はその人のところにある。だから、それはどこにでもあり得るのである。我々はそのことをこの教会でしばしば体験しているのではないか。そして、この「頭」に対して、「教会はキリストの体である」(エフェソ1,23)。
最後に、「成長」について述べたい。我々の肉体が成長するように、キリストの「体」である教会も成長する。それぞれのメンバーが「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する」(4,13)。また、「頭であるキリストに向かって成長していきます」(同15)、と言われている通りである。
むろん、教会の成長を妨げるものもある。パウロは、「人々の誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることのないように」(14)気をつけなさい、と教えた。つまり、キリストの愛から逸れてはならない、ということであろう。教会の頭はキリスト、彼によって示された神の愛なのだ。それ以外のもの、たとえば復讐や戦争を正当化する教えに惑わされてはならない。
「愛に根ざして真理を語る」(15)というのは、この「キリストの愛に根ざして」ということである。これが根であり、この根がなければ、成長は覚束ない。