2004・6・20

「神の家族」

村上 伸

イザヤ書9,1−6エフェソ書2,11−22

 パウロは、エフェソにいる信徒に向かって、「あなた方は以前には肉によれば異邦人であった」(11)と言う。「異邦人」とは、ユダヤ人以外の人々のことで、割礼を受けているユダヤ人からは「割礼のない者」(11)と呼ばれて軽蔑され、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている」(12)と見られた。要するに、神の祝福から「遠く離れた」(13)存在と考えられたのである。パウロ自身はこういう見方を既に乗り越えていたが、当時のユダヤ人一般の「異邦人観」はこういうものであった。

 そのために、ユダヤ人と異邦人の間には抜きがたい敵対意識があり、「敵意という隔ての壁」(14)が立ちはだかっていた。実際にエルサレム神殿の中庭には、そこから先は「異邦人の立ち入りを禁止する」ことを示す「壁」があったという。

 戦前、朝鮮人や中国人の立ち入りを禁止する場所があったように、そして戦後はアメリカ占領軍によって、至る所に"Off limits"という立て札が立てられたように、「敵意という隔ての壁」は、我々の世界の至る所に存在したし、今も存在する。

 朝鮮半島では、三年に及ぶ不毛で激しい戦争の末、1953年に漸く停戦協定が結ばれたが、それ以来今日まで半世紀以上にわたって南北を隔てる鉄条網が自然な交流を阻んでいる。これも「壁」だ。南アフリカやアメリカ南部における人種隔離政策も同じである。このことを最も具体的に示したのが「ベルリンの壁」であった。東西冷戦が酣だった1961年、東独政府は一夜にして総延長45キロメートルに及ぶコンクリートの壁を築いた。まるで東独と西独が別の世界であるかのように、そして、そこに住む人々が互いに「不倶戴天の仇」であるかのように。この愚行を現代に再現したのが、最近イスラエル軍によってガザに作られた非情な壁である。

 幸いなことに、これらの壁は今日までにあらかたなくなった。アメリカ合衆国における人種差別は、キング牧師らの努力によって、既に1960年代に少なくとも法律上はなくなった。「ベルリンの壁」は1989年に崩壊し、今では博物館にその跡を留めるだけだ。それに続いて東西冷戦が終わり、今や、かつて敵対していた東西両陣営の25カ国が「ヨーロッパ連合」に加盟して共通の利害で結ばれている。あれほど強固だった南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)も1993年に廃止され、27年間も獄中にあったネルソン・マンデラ氏が大統領になった。朝鮮半島には分断がまだ残っているが、最近、南北双方がこれまで毎日国境線で行ってきた挑発的なプロパガンダ放送を廃止したという。分断そのものも、やがて克服されるであろう。

 私がそう信じる根拠は、「壁」が何の利益ももたらさない愚行だからでもあるが、それだけではない。パウロがここで言っているように、「キリストはわたしたちの平和」であって、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(14)、「十字架によって敵意を滅ぼされた」(16)からである。そういうことが、既にキリストにおいて起こっているのである。

 私は若い頃、恩師・鈴木正久牧師がよく引用されたパウロの別の言葉に強い印象を受けた。「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです」(ローマ14,15)というのである。この非常に具体的な聖句は、今日に至るまで私の心に鳴り響いている。自らの宗教的立場に従ってある種の食物を食べない人がいても、「そんなことは迷信に過ぎない」と言ってその人を軽蔑してはいけない。キリストはその人のためにも死なれたのだ。キリストの血は、その人のためにも流されたのだ。この事実に先ず目を留めよ! そのとき、自分の考えを絶対化したり、戒律を「原理主義的に」掲げたりする生き方は既に破れていることを知るであろう。キリストが「規則と戒律ずくめの律法を廃棄した」(15)というのは、そういう意味である。

 この世の敵対関係は、多くの場合、互いに融和不可能なところまでエスカレートし、それがもろもろの悲劇を生み出す。だが、パウロは言う。キリストは「敵意という隔ての壁」、つまり、この呪われた敵対関係を根本的に廃絶した、と。人類の歴史はこのことによって支えられていのであり、そうである以上、「壁」を築くあらゆる愚かな試みは潰えるだろう。人類は一つの「神の家族」になるだろう。

 大江健三郎さんが、昨年、中学生ぐらいの若い人々を念頭において『「新しい人」の方へ』(朝日新聞社)という本を書いた。実は、大江さんはこの「新しい人」という言葉を、エフェソ書から取ったのである。その中に次のような文章がある。

 「私は、なにより難しい対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、<新しい人>を思い描いているのです。それも、いま私らの生きている世界に和解を作り出す<新しい人(たち)>となることをめざして生き続ける人、さらに自分の子供やその次の世代にまで、<新しい人(たち)>のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人のことを、私は思い描いています」。そして、さらにこうも書いた。「<新しい人>となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるよう励まされたということを、人間の歴史で何より大切に思っています」、と。

 キリスト者でないこの人が、聖書のメッセージをこれ程正確に受け止めている! このことを、キリスト者でありながら「壁」を作る人々は恥ずべきではないか。



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