イエスはここで先ず、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言って、天地の主である神に感謝している。「これらのこと」とは、「本当のこと」、あるいは、少し硬い言い方だが、「真理」を指す。それは、しばしば知恵ある者や賢い者にではなく、幼子のような者に示される。
電車やエレベーターの中で、母親に抱かれた赤ちゃんがそばにいると、つい見とれてしまう。きれいな目でじっと見つめられて、自分が恥ずかしくなるような気持ちを味わったことがないだろうか。
八木重吉の詩に、「息を殺せ」というのがある。
まだ人生の経験もなく、何かを語ることもできない赤ん坊が、ただ空を見るだけなのだが、その目は何かひどく大切なものに向けられているように思われて、粛然となる。幼子には不思議なところがある。
旧約聖書続編・『知恵の書』11章21節に、「知恵が、口の利けない者の口を開き、幼児にもはっきりと語らせた」とあるのも、似たような意味ではないかと思う。「幼子が知恵を持っている」というのではない。むしろ、超越的な存在である「知恵が」、幼子を動かして何かを訴えさせているのである。
私たちの世界には、世渡りのための知恵や経験がたっぷりあり、この世の現状や将来に関して立派な見識を持つ先生方や、改革のための「マニフェスト」なるものを掲げる政治家たちも大勢いるのに、一向良くならないのは何故か? 恐らく、最も大切なことを、子供のように単純に信じる心を失っているからではないだろうか。
パウロは、「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」(コリント1:1,20)と言っているように、「知恵のある人」たちが「愚か」になった。そして、世界をだめにしている。中でも最大の愚かさは、戦争やテロだ。これを止めることができない。
イラクで起こったおぞましい「受刑者虐待事件」について、ブッシュ大統領は遺憾の意を表し、「本当は、大部分の米兵は立派な若者たちなのだ」と弁明した。私たちもそれは認めるけれども、そもそも戦争それ自体が最大規模の虐待ではないか。戦争とは、いのちを奪い、その営みを破壊することである。最も大切ないのちを冒涜するのが戦争である。だから、その中であらゆる堕落が起こっても不思議ではない。あのような恥ずべき事件の再発を防ぐためには、戦争をやめるほかはない。イラクで、パレスチナで、世界の至る所で苦しんでいる子供たちのうつろな目は、無言でそのことを訴えている。偉い指導者たちはそのことをちゃんと見ているだろうか。
さて、イエスの言葉に戻りたい。彼はそれから、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28)と語りかける。よく教会の看板などに書いてある有名な聖句である。
一体、「疲れた者、重荷を負う者」とは誰のことか?「人生に疲れた人」、いろいろな悩みを背負って、その「重荷に打ちひしがれそうになっている人」。そう言っても間違いではないが、実はこれにはもっと具体的な背景がある。
当時のユダヤ人社会を宗教的に支配していたのはファリサイ派の律法学者たちであった。彼らはモーセ律法を重んじる余り、それにどんどん枝葉をつけ、それらを些細な点にわたって「原理主義的」に解釈し、民衆にはそれを厳守するように要求した。
「安息日には仕事を休め」という第四戒を例に取ると、彼らはその日に禁じられるべき仕事の種類を数百項目にわたって細かく規定した。だが、貧しい人々は、生きて行くためには働かないわけにいかない。やむを得ず仕事をすると、第四戒に違反した「罪人」と決めつけられる。これが「重荷」である。それを負わされて、彼らは「疲れて」いた。イエスは、この人々に向かって「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言うのである。これは解放の言葉である。
だが、解放と言っても、イエスは守るべき掟を全部取り払うわけではない。「わたしの軛を負いなさい」(29)と彼は言う。軛とは何か?
彼が、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)と弟子たちに命じたこと、そして、それを「新しい掟」と言ったことを想起して欲しい。これが、イエスの軛である。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」!
私たちは、互いに愛し合わなければならない。これは、ある意味で私たちを束縛する。つまり、軛である。しかしこの軛は、律法学者たちの律法解釈のように、私たちを無駄に疲れさせる重荷とはならない。むしろ、この軛を負うことで、私たちは祝福された人生へと導かれる。その意味で「安らぎを得られる」(29)。イエスが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(30)と言うのはその意味だ。
律法学者たちは沢山の些細な掟を厳守することを要求したが、大本の「いのちを守る」ことについては鈍感だった。だから、平然とイエスを殺すこともできたのである。正義を口にしながら、平気で戦争を始める現代の政治家たちと同じだ。
だが、イエスはその正反対であった。些細な掟は平気で無視することもできたが、「人を愛する」こと、その「いのちを守る」ことについては、自らの命をかけるほどに真剣だった。このイエスのもとに、本当の休み、安らぎ、祝福はあるのである。
彼のもとに行こう!