復活後第2主日礼拝 (2004・4・25)

「良い羊飼い」

村上 伸

イザヤ書25,4-10ヨハネ福音書10,11-18

聖書の神とは、どのような神だろうか? 先ず考えられるのは「唯一の神」ということである。「十戒」の第一戒にも、「わたしをおいてほかに神があってはならない」とある。これは厳格な「唯一神教」である。

そして、この点をわが国の仏教系思想家たち(鈴木大拙、梅原猛)は問題にする。この人たちは、「唯一神教」は世界の不幸を生み出す根源ではないかと言う。なぜなら、「唯一神教」は他の宗教や思想に対して寛容でない、偏狭で自己を絶対化する傾向がある、他宗教に対して攻撃的だ。この点においては、ユダヤ教の神も、キリスト教の神も、イスラームの神も同じであって、しばしば神の名の下に「正義の戦争」(聖戦)を行ってきた。パレスチナやイラクにおける妥協なき戦いも、当事者双方が「唯一絶対の神」を信じている限り決して終わらない、というわけである。

確かに、歴史上、そのような実例がいくらでもあるから、この人たちが言うことにも一理ある。だが、そのように決めつけるのは、いささか一面的ではないか?

先刻朗読した旧約聖書・イザヤ書25章に注目しよう。ここでは、神は「弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰」(25,4)と言われている。「暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨、乾ききって地の暑さのよう」であるのに対して、神は「雲の陰が暑さを和らげるように」(5)、苦しんでいる者たちを助けて下さる。また、「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼす」(7)。これは、隠されていた秘密が明らかになるという意味である。つまり、「どうして私だけこんな目に遭うのか?」という深刻な疑問に悩むすべての人々に、神はいつか必ず答えて下さる。そして、「死を永久に滅ぼし・・・すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上から拭い去って下さる」(8)というのである。

このように、聖書の神は単に厳しい「正義の神」であるだけではなく、優しい「愛の神」でもある。それを証明する聖句は無数にある。

さて、預言者イザヤは、「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救って下さる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主」(9)と,くどい位に強調しているが、私たちはこの言葉をイエスと結びつけて理解することが許されるであろう。旧約時代の人々が信じていた「正義の神」は、イエスによって初めてその全貌を現したのだに。苦しむ人の重荷を共に担って下さったイエス。絶望と死を潜り抜けて新しい「いのち」へと復活したイエス。このイエスにおいて、「すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布」は取り除かれ、死は永久に滅ぼされ、すべての顔から涙がぬぐわれた。イザヤが「見よ、この方こそわたしたちの神」、「この方こそわたしたちが待ち望んでいた主」と言うのは、正にイエスのことではないか。

今日のテキスト(ヨハネ福音書10章)は、イエスが「良い羊飼い」であると言っているが、これもその意味で理解できよう。

「良い羊飼い」とは、のどかで牧歌的な物語などではない。ここでは何よりも、イエスは「悪い盗人」とは正反対の存在だと言われているのである。彼は、「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする」盗人の仕業をはっきり否定した上で、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10)と言う。そのために彼は命を捨てる。この意味で彼は「良い羊飼い」と言われる。この思想はエゼキエル書34章の延長線上にあると言っていいであろう。

エゼキエルは、先ず、当時の政治的・宗教的指導者たちを痛烈に批判して、「自分自身を養うイスラエルの牧者たち」とこき下ろした。「牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(2-4節)

この言葉は現代にもそのまま当てはまる。この世の指導者たちはしばしば自分のことしか考えていない、とエゼキエルは言うが、今もその通りではないか。戦争を始めて多くの人々のいのちを奪い、その生活を平気で破壊している現代の政治家たちは、ここを読んで戦慄しなければならない!もちろん、一般市民を巻き添えにしてはばからない過激派の指導者たちも同様である。ヨハネは、権力者たちは「悪い盗人」のように民衆のつつましい暮らしの基盤である羊を勝手に「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」している、と言うが、これこそこの世の現実に他ならない。

 しかし、エゼキエルは、心に染み入るような優しさで、主なる神が自ら群れを養って下さると言う。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(15-16)。これが聖書の神なのだ。この神は、やがて「一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」(23) と約束する。そして、この約束はイエスにおいて実現したのである。

私たちのために命を捨てた「良い羊飼い」イエス。捨てた命を「再び受けた」イエス。十字架の絶望が復活の喜びに変わるということを私たちに先立って経験されたイエス。囲いの外の羊も含めて、すべての羊を一つの群れとして慈しむ「良い羊飼い」イエス。彼こそ、「一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」と言った旧約の預言の成就に他ならない。この困難な世で生き抜くための支えはここにある。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる