2020.06.28

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「心底からの祈りと願い」(山上の垂訓・第10回講解説教)

陶山義雄/代読:中村吉基

サムエル記上8:10〜22マタイによる福音書6:5〜15

 祈りは、人が生きて行く上で欠かすことの出来ない心の営みです。生きると云うことは未来を切り開く勤めであれば、どのように生きるべきか、何をしなければならないか、あらゆる瞬間は、進むべき道を選び取り、切り開く決断に満ちています。心の内にあって未だ無い未来を選び取るにあたり、私達は祈りと願いを内に秘めながら生きています。既存のレールが敷かれており、その上を走るのであれば、人はどんなにか安心できることでしょう。

 また、一人で岐路を選ぶのではなく、その選択にあたって一緒に参加してくれるような援助者、協力者、更には導き手がいてくれたなら、どんなにか心強くあることが出来るでしょうか。私達信仰者にとって、生きるとは祈りであり、先導者への信頼を表明する言葉であり、また、自分が努力して切り開いた結果の全てを、導き手である主に委ねることが祈りであります。旧新約聖書を含めて、聖書が祈りをどれだけ強調しているのか、それは「祈り」、もしくは「祈る」と云う言葉が語られている、その数を見ても分かります。「祈り」と「祈る」と云う言葉が聖書では全部で184回登場します。旧約聖書には125回、新約聖書では59回、中でも、最も多く数えられるのは詩編で、32回もあるのです。詩編は正に祈りの歌である、と云うことが分かります。そのような中で「私の祈りを聞いて下さい」と云う叫びが、数多く歌われています(詩編4:2、他)。また、祈りが聴き届けられた時に歌われる「主は私の祈りを聞いて下さった」(詩編116:1〜1222:22b)から、感謝と賛美に転じる生き方こそ信仰者に相応しい歌となっています(同116:13〜19)。

 こうした個人の祈りはしばしば、直面する人生の危機に際して謳われています。詩編116編で云えば:「死の綱が私にからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして主の御名を私は呼ぶ。『どうか私の魂をお救い下さい』」同116:3〜4)とあるような状態で歌われています。最も有名な箇所はイエス・キリストが十字架上で引用された詩編22編です。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ:マタイ27:46)を唱えられたあと息絶えておられます。しかし、もし、力が残っておられたら22編を終わりまで、引き続き終わりまで口ずさんでおられたことと思います。とりわけ22編で歌われる2番目の祈り(22:20)を主は詩人と共に歌っておられたことと信じます:「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい。」この祈りの後「あなたは私に答えられました。」と云う言葉が加えられた聖書(レニングラード訳)がある通り、23節からは絶望から一転して主の御業を讃え、賛美と感謝、礼拝へと進めながら第22編の詩人はこの歌を閉じています:「私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。……主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく。助けを求める叫びを聞いて下さいます。……主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げて下さった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」主が詩編22編の冒頭だけでなく、最後まで歌われていたことを思えば、主の十字架は絶望や敗北ではなく、勝利と賛美に繋がる救いの完成であることが分かります。私たちの祈りもこうありたいと思います。

 本日の説教に「心底からの祈りと願い」と云う題をつけました。詩編第22編を含めて、聖書に記されている祈りは、ほとんど、どれもがこのタイトルに相応しい祈りと願いであることが分かります。「祈り」と「願い」を区別する大きな理由はありませんが、敢えて区別をつけるとすれば、祈りはそれを捧げる本人が信頼を寄せ、身を委ねることの出来る人格的な神との対話であるに対して、願いは個人的願望を、見える相手や社会集団にむかって発信している、正に「願い」と云うべきものであります。それが解決できないような窮地に追い込まれた時、諦めるわけには行かない中で、祈りへと高められる、と云ったら良いかも知れません。

 以前に礼拝の中で、「白バラの祈り」をご紹介したことがあります。1943年2月13日、スターリングラードの敗北で生き残った殆どの兵士が捕虜になる中で、僅かに逃げ延びて、ミュンヘン大学の医学部に戻って来た医学生を通して、悲惨な戦争を一日でも早く止めなければ、ナチスの滅亡に民衆を巻き込む危険を避けるために、医学生のハンス・ショルと妹のゾフィー・ショルは、市内やキャンパスでビラを配布し始めます。3月18日に第6版のビラを配布している時、この兄弟は捉えられ、僅か5日後には処刑されてしまいます。妹のゾフィーは当初、兄に付いて回り、従っていたような存在でしたが、審問官とのやり取りの中で、良心の目覚めを深めて行く有様に痛く感動を覚えます。3回にわたり、つまり自白から処刑までの3日間で、3回の祈りが残されています。審問官の追及で追い詰められ、一転してビラの正当性を告白した直後に、休憩を要求し、トイレの中で祈りの言葉が語られます。

  1. 「神様、私はあなたに向かって口ごもる事しかできません。あなたには心を差し出すことしか出来ません。あなたは私達を、あなたに仕える者として創造さました。そして、あなたの内に安らぎを見出すまで、私たちの心が休まることはありません。」 翌日は朝、牢獄の格子窓から少し見える空を見詰めながら祈ります。
  2. 「神様、心の底からお願いします。私はあなたに呼びかけます。あなたのことは何も知りませんが、「あなた」と呼ばせて頂きます。私が分かっている事は、あなたの中にしか私の救いは存在しない、と云うことです。どうか私を見捨てないで下さい。我が栄光の父よ。」
    最後は処刑直前、立ち会った牧師が記憶に留めた祈りです。
  3. 「我が神よ、栄光に輝く父よ、あなたの蒔いた種が無駄にならないように、この足元を豊かな大地へと変えて下さい。創造主に会うことを願わない人々の胸にも、少なくとも、あなたへの憧憬を育んで下さい。」

 ゾフィー・ショルの心の底から湧き上がる祈りに深い感動を覚えます。創造主から与えられた命とその中に宿る良心の目覚めから発する祈りの純粋さは、彼女が処刑された後、今でも生き続けているように思います。彼女は私達が祈りに際して呼び掛ける枕詞のような出だし、即ち「主イエス・キリストの父なる神様」と云う言葉はありません。知らなかったとは思えないので、敢えて避けているのかも知れません。

 それはシモーヌ・ヴェイユ(1909〜43)にも言えることですが、ヴェイユの祈りについては、本日の週報コラムに載せ、また、後程ここで触れさせて頂きますが、枕詞で捧げられる祈りが、どれだけ非キリスト教的であり、と云うよりは、どれだけイエスからかけ離れているか、良心からホトバシリ出る祈りとはどれだけ異なるものであり、結果的には戦争協力者であり、イエスを十字架に付ける側の形式的儀式としての祈りに堕落しているのか、そう言う批判がヴェイユと同じようにショルにも在ったのかも知れません。つまり、マタイ記者が山上の垂訓で、祈りについて今日のテキストで批判をしているようなユダヤ教の旧儀式で見られる祈り、イエスから批判をされなければならないような形式的な祈りを、私達が今、捧げているのではないか、と云うことをショルやヴェイユを介して反省することになるかも知れません。偽善者と云う言葉はギリシャ語のυποκρίτης (ヒュポクリテース)が使われていて、これは「批判のもとにある人」を意味しておりますが、(6:5,7)そのような祈りではなく、心底から湧き上がる祈りになっているのかどうか、主の祈りを唱える私達にも反省を迫られているように思います。

 詩編に多くある祈りやゾフィー・ショルの祈りのように、心の奥底から湧き上がる祈りに対して、形式化し、会衆が一緒に唱和するような祈りは、定められた時や場所に関係して行われることから生まれます。イスラム教の信者が一日に5回、定まった時間にメッカに向かって捧げる祈りは、聖書の民がイエス時代に行っていた「カデッシュの祈り」、「18の祈祷」にも見られるような行いです。今日のテキストでマタイ記者がイエスの言葉に寄せて批判している祈りの姿勢は大方、このような祈りの習慣から生じています。その一部を紹介しますと:

「ヤハウエなる私達の神よ、私たちの苦難を顧み、私たちの戦いを導き、あなたの名の故に私達を救って下さい。/ 心の痛みを癒し、傷を治して下さい。/ 追われた者を集めるために軍旗を掲げて下さい。……背信の徒の希望を断ち、暴力の王国を速やかに裁き、滅ぼして下さい。……ヤハウエなる私達の神よ、あなたの都エルサレムを、あなたの栄光の住み処シオンを、ダビデ家の王国を、あなたの義のメシアを憐れんで下さい。」

 公同の祈りとはいえ、やはり、一つの民族、限られた人たちの祈りであることが分かります。実は、マタイ記者はユダヤ教、ユダヤ教徒に対抗して、キリスト教徒、キリスト教会で捧げる公の祈りとして、ここに「主の祈り」を掲げようとしているのです。マタイに限らず、この伝承を、最初に収録したQ資料の編纂者とその教会が、恐らく、18の祈願に対抗して教会で用いていたのが「主の祈りの」原型であったと思われます。マタイ記者よりも、ルカ福音書の方が原型に近いものと思われます。ルカ11章1節から4節にわたり記されています:「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこでイエスは言われた。と前置きがあってから「主の祈り」が紹介されています。

 マタイの7つの祈りと違って、ルカの方は5つ、つまり短い祈りになっています:
「父よ、(1)御名が崇められますように。 (2)御国が来ますように。 (3)わたしたちに必要な糧を毎日与えて下さい。 (4)わたしたちの罪を赦して下さい。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しましたから。 (5)わたしたちを誘惑に遭わせないで下さい。」

 マタイ記者はルカが載せている5つの祈りを、7つに拡大しています。それは、山上の垂訓をモーセ五書に準えて5つに区分しているように(現在、わたしたちはその第3区分「ユダヤ教に勝るキリスト教律法と儀礼」にいるように)、ユダヤ教の18祈願に勝る「主の祈り」として完全数である7に拘っているところから、ルカが準拠しているQ資料に更に2つの祈りを加えているのです:すなわち (1)「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え。」と (2)「我らを罪より救い出し給え。」 この2つの祈願が加えられているのです。

 それは決して意味の無い祈りではありません。賀川豊彦は「神の国運動」の拠り所を、主の祈りの中で、マタイ記者が加えた、「御意の天になるごとく、地にもなさせ給え」に置いているほど重視しています。

 わたしたちが「主の祈り」を唱える時、最も留意しなければならないこと、それは、形式的に、成り行きに任せて口ずさむような姿勢です。これこそ、今日のテキストで批判されているところでもあります。「主の祈り」にある個々の祈りについては以前に申し上げたことがあるので、今回は、これを唱え、捧げる私達の姿勢について見つめたいと思います。主の祈りが形式的な唱和に流れたり、ただ、口ずさむような姿勢に陥らないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。これ程簡潔で要を得た「主の祈り」を、どうしたら自分が心底から捧げる祈願になるのでしょうか。それは、日常生活の中で一つ一つの祈りを吟味しながら捧げる事から始まります。

 シモーヌ・ヴェイユは日雇い労務者と一緒に働きながら、ある時はルノー自動車工場で働く女性たちの中で、また、或る時は、葡萄摘みの季節労働者と一緒に仕事をしながら、「主の祈り」を唱えています。何故なら、そのような仕事場の中で捧げる「主の祈り」は、一つ一つの祈りが、涙の出るほど、有難く、また心底から自分の祈りに受肉して行くので、その様子をヴェイユは日記に書き残しています。日用の糧、パンを求める人々と一緒に働き祈る中で口ずさみ、他者の苦しみを自分の苦しみとすることの出来ていない自分を悔い、涙を流しながら懺悔と回心を祈る言葉が「主の祈り」の唱和と合わせられて行くので彼女は、労働の現場で「主の祈り」を捧げています。

 こうした日記が『神を待ち望む』に収められて「主の祈りについて」と云うエッセイになり、その結びのところでヴェイユはこう記しています:

「主の祈りはすべての可能な願いを含んでいる。ここに既に含まれていない祈りなど考えられない。この祈りと他の祈りとの関係は、キリストと人類との関係のようだ。1つ1つの言葉に十分に注意して、一度この祈りを唱えるなら、魂の中に恐らくごく小さいけれど現実の変化が働かないことはありえない。」

 マタイ記者はユダヤ教徒の「18の祈り」に対抗して7つの祈りとして「主の祈り」を山上の説教に載せ、それをキリスト教会が受け継いで礼拝の中で唱和していますが、時には儀式に流れたり、儀礼的な祈りになることを恐れます。しかし、ヴェイユが証している通り、それにもかかわらず、「主の祈り」は私達が必要としている祈りと願いの全てを含んでいることを覚え、感謝しながらこの祈りが各人の心底から捧げる祈りとなるよう勤めたく思います。また、イエス・キリストがゲツセマネで祈られた通称「ゲツセマネの祈り」は主がお教え下さった「主の祈り」に繋がっています(マタイ26:39):
「お父さん(アッバ―と云う幼児語は心底、慕い頼る相手への呼びかけ)、あなたを崇め、賛美します。どうか、私が今、抱えている苦しみを取り除いてください。しかし、一切はあなたの御手にお委ねします。アーメン」

 主イエス・キリストがゲツセマネで捧げている祈りは、十字架の苦難でありますが、私達が捧げる「主の祈り」では、その内容が「日用の糧」であり「他者を顧みない罪の懺悔」です。それぞれが日々の生活で抱えている希求の願いを込めながら、シモーヌ・ヴェイユが捧げる祈りの姿勢に倣って(本日の週報コラム参照)、わたしたちも「主の祈り」を、己が祈りとして心底から捧げる者でありたく思います。

祈祷
神様、あなたは今までわたしたちが試練と思える壁に直面した時も、それを乗り越える途を備えて下さり、今、こうしてここに在ることを感謝します。あなたへのそのような信頼を何時までも、たとい死の陰の谷を歩む中でも持ち続けることが出来ますように。そのような信頼の中で、わたしたちが「主の祈り」にあるどの祈りをも、心底から捧げ、御国に約束された平安を地上でも証することができますよう、わたしたちを導いて下さい。主の御名によって祈ります。


 
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