2019.03.17

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「問い続ける風―このような小さき者たちとは―」

齊藤 和夫

イザヤ書 38,19マタイによる福音書19,14

はじめに

 証(あかし)ということですが、奨励(説教の代わりに信徒が担当するお話しですね)の機会を与えていただき、教会員、役員、そして何よりも神様に感謝します。

 会堂に集う方々でわたしが聖書に基づいた落語を演じることをご存知の方も多いでしょう。また、何人かの友人は私の特技、モノマネ、を知っていると思います。今日の証で私が真似たいのは、私が心から尊敬し、敬愛してやまない、村上伸牧師です。声色を真似てお話ししようというわけではありません。マナブはマネブに通じるという趣旨です、ご理解ください。

 村上牧師が私たちにお伝えくださったたくさんのことから、一つのメッセージを取り上げ、それをみなさんと共有したいのです。そして、このメッセージが本日の証のもっとも言いたいこと、結論です。

 わたしが引用したいのは、村上牧師が聖餐式の終わりにおっしゃった言葉です。一言一句そのままではありませんがおそらく次のようであったと思います。

 つまり、

あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネ福音書16,33

この箇所を引用しまして、
『このように語るイエス様が私たちと共におられます。安心していきなさい』
と語られました。
 この言葉を、本日語られる生きたミコトバとして分かち合いたい、それが今日のお話しの結論です。
本論に入るに前に、一言お祈りします。

(祈り)

 この場に立つにはあまりにもふさわしくない、なんの勲もないものですが、あなたご自身がいまここに私たちと共にいてくださることを信じます。私たち一同ミコトバを待っています。どうぞ私たちのかたくなな心を柔らかくしてください。人の想いではなく、あなたご自身が語るミコトバを聴くことができますように。
この祈りを私たちの主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン



子どもを祝福するマタイ 19,14

 本日の聖書の箇所は子どもの礼拝でもよく取り上げられる箇所です。また、子ども讃美歌48番、『子どもをまねく』が思い浮かびます。その歌詞は

子どもをまねく友はどなた?
子どもの好きなイエス様よ
子どもをまねく王はどなた?
子どもを守るイエス様よ
子どもをまねく神はどなた?
子どもを救うイエス様よ

とあり、それぞれの節の終わりはホサナと歌え!とあります。
まねく友、王、神、に向かって、ホサナ(つまり、私たちをお救いください)!と歌うことは、子どもたちのみならず、大人である私たちにも相通じることがあると思います。その意味で私たち一人ひとりは、神様の子どもであるということでしょう。本日のミコトバは子どもを引き合いにはしているけれど、子どもたちはもちろん、私たち大人も含めた一人一人全員に向けられているということをまず心に止めたいと思います。



ルカの記事ルカ9,46-47

 さて、本日の聖書箇所に入る前に、福音書の似た箇所を見てみましょう。ルカによる福音書 9,46-47です。ここでも、イエス様は子どもたちを引き合いにして語っておられます。つまり、
『誰が一番偉いか』
と論争している弟子たちの心を見抜き、
子どもたちのように、
『もっとも小さいものがもっとも偉い』
というのです。

 みなさまよくご存知の通り、ここにキリスト教の伝える福音の特徴があります。それは、『キリストの福音は逆説的』であるということです。すぐに思い起こされる、山上の垂訓、教えはとても有名ですが、もっとも象徴的なことは、十字架で殺されたイエスキリストが復活した、ということではないでしょうか? このことを信じることで、私たちの肉体の死は滅びではなく、復活と永遠の命に繋げられる、というのです。この根源的な逆説の一つとして、イエス様は、もっとも小さいものがもっとも偉い、と言っているように思います。

 一方で、わたしは弟子たちの気持ちがすごくよくわかります。おそらく当時の社会では、抑圧された、いわば下支えをする、漁師であった彼らがイエス様について行って、
『あ、この人はすごい!この人こそ、私たちの真の指導者であり、救いだ!』
と思ったのでしょう。

 しかし、日が経つにつれ、イエス様が、本当に当時の社会に革命的なことを起こし、王になったら、その時は、誰が一番偉いのだろう? そう思うのは、人の世の常ではないでしょうか?

 わたし達は、教会に連なり、キリスト者として生きていると言いながら、一歩社会に出ると、比較と競争の只中にさらされます。さらされるだけならまだしも、自ら先頭に立って、『誰が偉いか論争』に加わります。そして、それが割と好きなようです。偉さの基準として、『社会的地位』もそうでしょう、どこそこの学校を出た、いわゆる『学歴』もそうでしょう、あるいは、どんな業績をあげたか、何を成し遂げたか、もそうでしょう、さらには、どれだけ経済的に富んでいるか、もそうでしょう。

 人より優れている、あるいは富んでいる、という比較に基づいた価値観に縛られているのが私たちの日常です。しかし、イエス様は、これら一切のことをあまり大切には考えておられないようです。

 否定はしていないと思います。ただ、私たちが日頃気にしている価値観は、そんなに大したことではないよ、と言っているように感じられるのです。

 イエス様は世の中において、無視されて、ないがしろにされている人に目を向けておられると思います。そして、私たちがそれにならう時、それは、キリスト、すなわち、イエス様ご自身を受け入れることと同じことだよ、と伝えていると思うのです。



小さきものたちとは?

 ここで、もう一度今日の聖書箇所に戻りましょう。
今回、証を担当するにあたり、聖書箇所はローズンゲンに従いました。これも、村上伸牧師の真似ですね。時折、準備をせねばと思い、繰り返し読むうちに、一つの疑問が浮かび上がりました。
それは、
『子どもたちとは誰だろう?』
そして、
『(子どもたちを連れてきた)人々とはだれだろう?』
という疑問です。

 明らかに、わたしは、今まで、それぞれの子どもの親御さんが、イエス様の祝福を受けに連れてきたのだ、と考えていました。まさに、今朝の子どもの礼拝の様子や子どもの祝福の様子と同じです。実際にそうであったかもしれませんが、ここで少し想像を膨らましてみましょう。

 イエス様の時代のパレスチナはローマの支配下にありました。ローマ帝国は統治にあたり、地域の事情を考慮し、元々の政治的な仕組みはそのままに、治めたのです。その上で、税金はローマの基準に従い、厳しく取り立てたのです。今で言う富裕層は財産を守り増やすために血脈をあげたことでしょう。そのしわ寄せは全て、農民や、漁師などの、社会を下支えした人々にいったことでしょう。

 イエス様が都市は経巡らず、農村や漁村を歩いた意味はそこにあるのではないでしょうか?

 そうすると、この子どもたちとは一体どういう子どもたちだったのでしょうか? もちろん、皆さんや、私がこれまで思い描くような、親に連れられてきた幸せな子どもたち、ということもあったかもしれません。一方で、想像を膨らませると、路上にいた助け手のない、あるいは、行き場のない子どもたちがたくさんいて、それを見てあわれに思った心ある人々が、イエス様のところに連れていけば何とかしてくれるかもしれない、と思って連れてきた、という可能性はないでしょうか? 私はローマに支配され抑圧された当時のパレスチナでは、大いにあり得ると思うのです。そして、この子どもたちを、弟子たちは叱りました。しかし、イエス様は、『妨げてはならない』、とおっしゃると同時に、『天の国は、このようなものたちのものである』、とおっしゃるのです。

 このようなものたちとは、単に小さい子どもという意味の他に、虐げられて、イエス様に近づこうとしても叱られる存在なのです。

 このようなものたちを招いてくださる、イエス様の招きは時を超えて私たちにも届いています。今日の福音のメッセージ、私たちへのメグミはここにあります。私は、このことから大きな慰めと励ましを受けます。

 と同時に、問いかけがあります。

 イエス様を慕ってくる弱いものを、イエス様のもっとも近くにいた弟子たちは、『叱った』のです。弟子たちも本来なら、小さきものであるのに、イエス様とより長く過ごしたことで自分たちは、『偉い』と信じ、イエス様に近づこうとする子どもたちに、『来るな』と叱ったのです。
問いかけはこうです。
『教会は弱い人たちが来ることを妨げていないか?』
または、関連して、
『私は弱い人たちが来ることを妨げていないか?』

 私たちの教会に、このようなものたち、とイエス様がおっしゃった人たちの居場所はあるでしょうか?
 キリストの豊かな福音、『このような小さく弱いものを招く』を伝える、キリストの体である教会は『このようなものたち』を招いているでしょうか?

 他人事ではなく、私自身にもその問いがあります。わたしの心の中に、そのようなスペースがあるでしょうか?

 わたし自身について申し上げますと、残念ながら、答えは『いいえ、ありません』なのです。わたしは礼拝に参加して、慰めと、励ましそして問いかけを受けて、この1週間歩んで行きたいと願っています。しかし、ちっともダメなのです。なぜなら、私の心の中に、『偉い』と思われたい気持ちがあるからだと思います。ここ数ヶ月今日の準備に取り組んでたどり着いたのは、この大きな内面の葛藤です。

 イエス様のメグミに感謝しつつ、そこに近づいた、あるいは捕まえた、わかった、と思った途端に、自分がまだ、偉いとか、優れている、という価値観に縛られている、そういうなんだかよくわからない自分を見出します。

 ここで、村上伸牧師が紹介してくださった、ボンヘッファー牧師の言葉が思い起こされます。
それは、

『神の前に、神と共に、私たちは神なしで生きる』

 という言葉です。

 最初伺ったときは、意味がよくわかりませんでした。
しかし、本日お話しの準備をして、また実際この場でお話しして、少し意味がわかったような気がします。つまり、神様の前に神様と共に大いなるメグミにあずかっていながら、実際の社会も、自身の内面も、
『神なしで生きる』
という現実のただ中で生きて行かねばならない、ということでしょうか?

 解釈に誤りがあるかもしれません、しかし、誤りを恐れず本日与えられたミコトバのメッセージとして受け止めたいと思います。
なぜなら、最初に申し上げました、結論の通りです。

あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。

こう語られるイエス様が私たちと共におられます。安心して、そして勇気を出して歩んでまいりましょう!


 
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