2016.7.3

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「新しい命に生きるため」

秋葉 正二

詩編16,7-11 ローマの信徒への手紙6,3-8

 ロマ書6章から学びますが、使徒パウロが何を言わんとしているか、懸命に聞きとる努力をしましょう。パウロがロマ書を書いたのは最後のコリント滞在の時だと見ると、紀元56年ということになります。彼はガラテヤ書簡やコリント書簡で論じていることをテーマごとにまとめるようにロマ書で詳しく取り上げている、といった印象を受けます。ガラテヤ書の激しい論調を思い起こすと納得できますが、パウロの活動の背後には、ギリシャ語を話すキリスト者であるいわゆるヘレニストたちの異邦人伝道が、ヘレニズム的な密儀宗教と結びついて、イエス・キリストに対する理解をピント外れにし始めていたことにもう黙っていられないという気持ちが強くあったのではないでしょうか。パウロにしてみれば、そのようなヘレニストの持つ傾向に教会が影響されながら発展していくことを黙認できなかったのです。だから必要があれば彼は反駁を加えたのです。

 きょうのテキストで論じられているテーマは一種のサクラメント論ですが、その中でもヘレニストたちの洗礼論に関してパウロは黙っておれなかったようです。当時の異邦人教会でまとまりつつあった伝承内容をどうしても訂正しなければならない、とパウロは考えたのでしょう。ヘレニストたちが主に異邦人伝道を担ったわけですが、その伝道方法の一つは、各地に散らばっていたユダヤ人たちをキリスト教に改宗させることでした。多くのユダヤ人たちが既に離散していましたが、彼らはそれぞれの地域にユダヤ人会堂シナゴーグをつくっていましたから、ユダヤ教を母体とするキリスト教を広く伝播させていくにはそれを利用することが最も効率的でした。もちろんパウロもそれをやっています。さて、テキストでパウロが論じているのは、最初に指摘しましたようにヘレニストたちの洗礼論についてです。ヘレニズム的密儀宗教は、密儀という表現から想像できるように密儀的な儀式を伴うようになっていきます。密儀の密は秘密の密ですから、そうした言い方の中に、「深遠で誰にも簡単には分からない秘密の教えがあるぞ」というイメージが含まれています。イエス・キリストの教えがそうした傾向から影響を受けていくのをパウロは傍観できませんでした。密儀という言い方をもって、キリストの福音の中に何か得体の知れないものが入り込んでいくのを許せなかったのです。

 本来洗礼とは私たち人間が罪に死んで、新しくキリストに生きることの象徴ですが、一部のヘレニストたちはすぐ前の5章20節にある逆説的な表現、すなわち『律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました』を曲解しました。曲解は誤解ではなく、意識的に論理的装いを施した反発ですから、パウロは2節で『決してそうではない』と説得を始めるのです。『罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう』という言葉は彼の思いをよく表しています。具体的に説得を開始していく中で、最初に取り上げられたことが「洗礼」に関わることだったのです。密儀的な理解の中では、洗礼を受けることによって自分が天使に等しい状態に移されるとか、洗礼によって復活は余計なものになってしまったとか、いろいろな解釈をヘレニズム的密儀宗教は生み出しました。洗礼は元々「水に浸けられること」いわゆる「禊ぎ」を意味しますが、洗礼といえば私たちはすぐに洗礼者ヨハネのバプテスマを思い起こします。

 キリスト教以前に、ユダヤ教的祭祀的伝統を背景にした贖罪論はありました。これに対してイエスさまは霊による洗礼をお示しになったわけです。それが教会の発達に伴って、教会への入会儀礼になっていきました。当時の人々は死者の国は水、つまり海の下にあると考えていたようなので、水を潜ることは一旦死ぬという象徴的な行為と捉えられました。そこで教会は洗礼を「キリストの死と復活を共にする儀礼」と考えるようになります。これをパウロは4節以下にあるように、「古い自分に死ぬ」というキリスト者の在り方として言い表したわけです。さらに8節では、『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる』と言って、続く9節では4節5節に続いて再度「復活」という表現を明確に用いています。その時パウロの中にはハッキリと旧約のアダムの死から新しいキリストの死への転換が意識されていたと思います。ですから密儀的な要素を盛り込むのではなく、簡潔に「洗礼によって罪に死ぬというのは、救い主イエス・キリストと共に死に、イエス・キリストと共に復活することなのだ」と言い切るのです。それはまた6節にあるように、洗礼は十字架の出来事ともつながっているということでもあります。

 それゆえ、私たちは洗礼式において、まず何よりも想起すべきことはイエス・キリストの十字架と復活でしょう。パウロの時代の教会では、その成立の事情からして、洗礼を受けていない人はほとんどいなかったと思いますが、ローマ帝国による迫害がありましたので、一人ひとりの信仰は風に吹かれる木の葉のように揺さぶられたはずです。そうした際に、どこに信仰の根拠を求めたらよいかと言えば、それはやはり「自分は洗礼を受けているのだ」という思いだったでしょう。そうした洗礼に関わることをパウロは丁寧に説明しているのです。そういうことですから、5節の『もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう』という言葉などは、言うなればパウロの洗礼についての定義みたいなものです。5節では「あやかる」という言葉が使われていますが、この訳はなかなか微妙です。下手くそですが、あえて私なりに訳すとすれば、こうなります。『もし私たちがキリストの死の姿と一体になるならば、復活の姿とも一体となるでしょう』。おそらく「あやかる」という表現は、「キリストに触れて感化され変えられて、キリストと同じようになる」という意味で使われているのでしょう。もう少しこの表現にこだわると、ここには私たちの方からキリストに結びついていくというのではなく、キリストの方から先立って私たちに結びついてくださる、ということが言外に意味されていると思います。

 私たちが真剣にイエス・キリストに触れるならば、私たちはキリストに導かれて進んで洗礼を受けるようになるのです。パウロはイエス・キリストの私たち人間に対する新しい命への招きが、洗礼という出来事に込められていることを力説したかったのです。それでも言葉による説明には限界があります。いくら言葉を重ねてもこの5節に記されている恵みと救いの深さを十分把握することにはなりません。それは、私たち一人ひとりがイエス・キリストと真正面から向き合いながら生きて行く中で身につけていくしかないでしょう。信仰は私たち一人ひとりの生きる現実の中で与えられるしかないからです。パウロはただ単に洗礼を通して罪の中に眠っていた私たちが復活の世界へ転換させられると言っているのではなく、洗礼をまずキリストの死に与かることとして、いわば将来の栄光のための担保として捉えなさい、と言っているように思えます。それはまた、キリストと共に十字架につけられるというモチーフを3節の後半で示しているように、死に与かる出来事として、神さまへの服従における苦難こそが地上のキリスト者の立場の指標となりますよ、という意味でもあります。このパウロの理解は、一部のヘレニストたちが主張したように、「洗礼とはその人を祭儀神キリストの運命の中に編入していく密儀的出来事なのだ」と言う解釈を乗り越えていきました。あらためて申しますが、私たちは洗礼においてキリストと共に死ぬので、罪の力から解き放たれているという点がとても重要なのです。パウロは洗礼をある特定の時、何年何月何日に受けるというように固定化して捉えるだけでなく、どの洗礼も全世界に関わるイエス・キリストの死について供述するものなのだ、と理解していたと思います。

 パウロはコリント後書の1章8節以下で次のように言っています。325頁下の段です。『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした……』。彼が具体的にどの事件を思い出してそう言っているのか明確ではないのですが、コリント前書には(15,32)野獣と闘ったことが記されていますし、使徒言行録には(19,21以下)エフェソでの騒動のことなども記されていますから、彼は死に直面した際には、何もかも投げ捨てて、ただただキリストを死からよみがえらせた神を信じて委ねたのです。そういう脈絡の中に立って、彼は洗礼の意味を証していると言えるでしょう。私たちは例外なくいつか死にますが、その時、どんな風に自らの死を迎えるのでしょうか? 有名なチャールズ・ウェスレーについての逸話があります。ウェスレーは死を迎えることがわかっても、いつもと同じように過ごす、と言っています。実際に彼はその日、花に水をやったり事務的な仕事を片付けたりしながら、いつも通りの一日を過ごして召されたそうです。ルターにも共通するような逸話が残されています。彼は「明日世界の終わりが来るとしても、きょう私はリンゴの木を植える」と言い、実際自分の死が迫った時に語った言葉が残されています。曰く、「私の愛する私の終わりの時よ、私を照らす永遠の光によって私には明日がある……」。これらは、はるか昔に洗礼を受けた人たちの証しです。洗礼を受けるということは、彼らのように生きることができる人生を手に入れるということでしょう。いずれにせよ、私たちは自分の死は自分で迎えるしかありません。

 最後にもう一つ、パウロが同じロマ書の13章12節に残した言葉を味わいましょう。『夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう……』。洗礼は私たちに救いが近づいていることを告げ知らせる時でもあります。ルターの語った「永遠の光」は聖書のあちこちに散りばめられています。私たちが聖書を読み続けることは、その永遠の光を見失わずに歩み続けることです。私たちの周りには、私たちに先立って神さまの許へ行かれたたくさんの兄弟姉妹がおられますが、その方たちもきっとこの世にある時は、何度も人生の辛い夜を迎えられたことでしょう。しかし皆さん、夜が訪れても、いよいよ永遠の光であるイエス・キリストを信じて、希望を抱いて生き抜かれたと思うのです。これは私たちの年齢に関係なく示されている神さまの摂理です。イエスさまに出会えた幸福を噛みしめながら自分に与えられた生を生き抜けたらいいな、と心から思います。私たちは洗礼を受けたキリスト者です。祈りましょう。


 
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