2016.1.31

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「‘種を蒔く人’のたとえ」

秋葉正二

イザヤ書6,9-10; ルカによる福音書8,4-8

 テキストの小見出しは「種を蒔く人のたとえ」です。種を蒔くと言っても農業従事者ならともかく、家庭菜園でもやっていない限り私たちに実感はありません。イエスさまはこの種まきを譬えに取り上げられたのですが、当時のパレスチナの人にとってそれは大いに生活実感の持てる譬えでした。多かれ少なかれ、皆種を蒔く生活をしていたからです。大麦・小麦・そら豆・レンズ豆・ハッカ・瓜・米など冬蒔き夏蒔きの違いはあっても、たくさんの種類の種が蒔かれていました。種を蒔くのは、イスラエルの人々にとっては食糧を得るためであったのは当然ですが、旧約聖書の時代から主なる神ヤハウェが、種を蒔くその土地の所有者であることの象徴だったことに由来します。7年ごとの安息の年や50年ごとのヨベルの年に1年休耕するという習わしがあったことを思い出してください。出エジプト記レビ記を読むとそのことが分かります。

 さて、きょうのテキストですが、4-21節までは一つの主題のもとにまとめられています。その主題とは、イエスさまの宣教活動における神の国の「御言葉」が聴衆にどのように反応して受け入れられるか、或いは拒否されるか、ということの譬えによる説明です。ルカが資料として用いたのはマルコ福音書ですから、並行記事のマルコ4章1-9節を一緒に読むとよいと思います。ところできょうのテキストもローズンゲンに従っていますが、すぐ後の9-10節には「たとえを用いて話す理由」と小見出しがあり、それに続く11-15節には「種を蒔く人のたとえの説明」とあり、きょうのテキストが懇切丁寧に補われています。そこで、私たちは「たとえ……たとえ」と何度も出てくるその福音書に出てくる「たとえ」ということを少し整理して理解しておく必要があります。福音書の「たとえ」という言葉は比喩や譬え話、また寓喩を意味しています。比喩の中には直喩と隠喩がありますが、比喩は単純に言うと短い譬えで、譬え話のように一つの話という形はとりません。例えば『自分自身の内に塩を持ちなさい』(マルコ9,50)というような場合です。直喩は直の字が示すように直接ハッキリと二つの事柄を比較するものです。例えば「何々のような(に)」というような言い方で、「神に逆らう者は……茂みの陰の獅子のように隠れ」(詩編10,9)のような表現です。「からし種のようなものである」(マルコ4,31)も直喩です。

 対して隠喩は隠の字が示すように、譬えられる意味を隠して、表面には譬えの形だけが記されます。例えば「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8,15)といったものです。きょうのテキストのたとえはこうした比喩ではありません。寓喩です。寓喩は説明のために用いられた譬えの材料の一つ一つに意味を遇する、つまり「かこつける」ものです。ですから、譬え話と寓喩的物語は別物です。寓喩的物語は、一つ一つの表現に教訓的な意味を含んでいます。きょうのテキストには、譬えを用いる理由や譬えの説明が付いているのですからこれは寓喩と言えます。

 ルカはマルコ福音書を資料として用いたのですが、そもそもマルコが譬えを用いた理由は、ローマ皇帝ネロによって大弾圧を蒙った教会が福音宣教に困難を抱えていたので、信徒たちを励ますためであったろうとも考えられます。「種まきの譬え」にしても「ぶどう園と悪い農夫」(マルコ12章) などにしても、神さまの支配によるこの世の逆転劇なのでしょう。人間の目には見えない神の国の真理を示すために、イエスさまは語られたのだと思います。譬えの本質はおそらくそういったところにあったのではないでしょうか。いろいろ譬えについて述べましたがこうしたことを頭に入れて、とにかくきょうのテキストを見ていきましょう。

 種を蒔く人が種蒔きに出て行くのですが、種が落ちた場所が四つ出てきます。道端、石地、茨の中、良い土地です。寓話として一つ一つの事柄や人物に意味を持たせる教訓的比喩として解釈しようというわけですから、聖書自体が教訓的比喩として説明を付けています。さて、種を蒔く人の種は規則正しく一列に並んでは落ちていません。これはパレスチナ特有の蒔き方によります。日本のようにまず畑をよく耕して規則正しくきれいに蒔くのではありません。畑を耕す前に種を蒔きます。耕すのはそのあとです。ですからここでは種があちこちの場所に落ちました。それが四つの場所です。そして11節の説明の中に『種は神の言葉である』と書いてあります。神の言葉、つまりイエスさまの福音のことです。福音とは「良い知らせ」という意味ですから、神さまの愛を示しています。もっと具体的に言えば、イエス・キリストによって示された神ご自身の人間に対する意思と計画、キリストの十字架の死による人間の罪の贖い、死からの復活、神の国の完成のことです。

 道端に落ちた種は人に踏みつけられ、鳥に食べられてしまいますが、12節の説明によれば、後から悪魔が来てその心から御言葉を奪い去る人たちである、とあります。つまり神さまの御言葉を聞くと、すぐ悪魔が来て、聞いた人々を妨げ、その力を奪って何の意味も感じさせなくしてしまうのです。福音を語る者は、この悪魔の働きがあることをしっかり承知しておくことが大切です。次に石地に落ちた種です。石地は土が深くありませんから、すぐ芽は出すものの、強い日射で水気を失い枯れてしまいます。これはどういうことかと言えば、御言葉を聞くとすぐ喜んで受けるけれども、自分の中に根がないので、困難や迫害を受けるとすぐ躓いてしまう人を表現しています。そして茨の中に落ちた種です。これが一番現実感があるでしょうか。茨が伸びて押しかぶさってしまうので、実を結びません。14節の説明では、御言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟さない人たちです。私たちが福音を語るときには、何よりもキリストの福音がこの世で価値があることをハッキリ伝え、神さまを第一にすべきことを確実に伝えなくてはいけません。そうして最後は良い土地に落ちた種です。生え出て百倍の実を結んだ、とあります。15節の説明によれば、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちです。つまり良い土地とは御言葉を聞いて受け入れる人のことです。

 さて、このたとえ話によっていろいろなことを考えさせられます。イエスさまが第一に教えてくださったことは、勿論私たちが良い土地になって心を耕し、素直に神の御言葉、すなわちイエス・キリストの福音をしっかり受け入れて大事に守り、百倍の実を結ぶことだと思います。神の御言葉を受け入れない場合を考えて比較すると、自分の人生とその在り方・意味がよりハッキリするでしょう。皆さんは村上先生のご指導により、ボンヘファーの生涯を学ばれたと思います。第一次世界大戦のあおりを受けて混乱の中にあったドイツで、台頭してきたヒトラーの間違った野望を見抜いた見識がどこから来たのかを考えてみてください。私は、最も根本的な土台になっていたのは、彼が神の御言葉、聖書をしっかりと受け入れていたことだったと思います。

 ついでですが、ボンヘッファーと言えば、2月の第3日曜21日の礼拝後、三つの会合同で上映会をする予定です。藤井さんが企画したドキュメンタリーで、NHKがなかなか企画を通さないという曰く付きですが、村上先生の目を通して過去の悲劇を繰り返さないために、ボンヘッファーの源泉を辿りながら戦争と平和を考える、といった内容だそうです。来月みなさんと一緒に見せて頂こうと楽しみにしています。ボンヘッファーの生き方を振り返って思うのですが、神の福音の種を蒔くことは、どんな受け取り方をする人があったとしても、決して無駄にはなりません。ですから、テキストの種蒔きのたとえの結びには、必ず収穫があることが示されています。

 ある人はきっと道端に落ちた種のように悪魔の攻撃に敗れてしまうかもしれません。ある人は石地に落ちた種のように困難や迫害に遭遇して躓くかもしれません。またある人は茨の中に落ちた種のように人生の思い煩いや富や快楽に惑わされて実を結べないかもしれません。しかし、イエスさまが弟子たちや大勢の群衆に種蒔きのたとえを話されたのは、人々を幻滅や失望に終わらせるためではなかったはずです。無駄に見えようとも、蒔かれた種は百倍の実を結ぶのです。教会はユダヤ教やローマ帝国から迫害を受けました。弟子たちは失望したことでしょう。イエスさまは彼らを励まされたのです。パウロに言わせれば、『御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい』(テモテ 二 4,2)ということでしょう。

 最後にもう一つ示されていることがあるように思います。それはイエス・キリストに出会って神さまを信じる者は、信仰による大胆な決断をしなければならないということです。実際に種を蒔いていたパレスチナの農夫たちは、いつでも収穫を邪魔する諸条件を知りつつ種を蒔いていたはずです。嵐が来ればせっかく芽を吹いてもダメになりますし、日照りが続けば枯れてしまいます。雨が続けば刈り入れもできないでしょう。だからと言って完全な条件が揃うことを待っているなら、種蒔きなど出来ません。「今、種を蒔くのだ」という決断と行動がなければ実りはありません。私たちキリスト者はイエスさまから御言葉を頂いて大胆に踏み出す必要があります。賭けと言ってもよいかもしれません。

 イエスさまは私たちに「さあ、これから種蒔きだよ」と私たちを必要な時に促されるのです。その促しを感じた時、私たちは大胆に一歩踏み出すべきです。神さまは私たちが様々な実を結べるように、必要な力を必ず持たせてくださいます。現在置かれている状況でやり始めればよいのです。条件が揃うことを待ち続けることはありません。キリストと共なる一歩を私たちは踏み出すことが出来ます。自分のやる気と力に神さまは必ず導きの御手を添えてくださいます。祈ります。


 
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