2014.5.18

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「わたしのもとに来なさい」

秋葉 正二

イザヤ書29,13-14; マタイによる福音書11,25-30

 「その時」という言葉できょうのテキストは始まっています。さらっと訳されていますが、「その時」とはどんな時を指すのかと言うと、解釈の問題が絡んできます。考えられる一つは、イエス様を取り囲む状況です。イエス様は初期のガリラヤでの活動によって人々に大きな反響を引き起こしましたが、そうした熱狂的な時期を過ぎると今度は反対派が台頭してきます。イエス様を拒絶する人々も出て来ます。すぐ前に「悔い改めない町を叱る」という小見出しの記事がありますが、これは伝道活動にもかかわらず悔い改めなかったガリラヤの町々のことを述べたものです。そのようなガリラヤの変化した状況を「その時」という表現は反映しています。そうしたことを最初に念頭に置きながら、きょうのテキストを見て行くことにします。内容的には三つに区切ることができます。まず25節から26節、ここは啓示を与えてくださる父なる神様への感謝の言葉です。祈りと理解してもいいかも知れません。二番目の区切りは27節です。父なる神様と子なるイエス様との関係が説明されています。最後の区切りは、28節から30節です。『わたしの軛を負いなさい』という言葉でイエス様からの招きの言葉が語られます。

 まず最初の区切りから見ていきましょう。イエス様は人々の行いを見て悲しみと怒りに捉えられていたようです。あなたがたはいったい何をしているのだ、というイエス様の嘆きが前提にあるのでしょう。イエス様が父なる神様をほめたたえながら指摘されたことは、神様が行い給うことを知恵ある者や賢い者にではなく、幼子のような者にあらわされたということでした。「知恵ある者や賢い者」とは端的に言えば律法学者や祭司たち、即ちユダヤ教の指導者層です。彼らには教育がありますし、ユダヤ教文書に通じており、理解力も優れていました。こうした人たちがイエス様を避けるようになっていたという状況変化がありました。彼らは頭が切れますから、民衆が集まるからと言って、いつまでもこんな男の許に留まっていたらろくなことにならない、と考えたのです。しかしイエス様は、そのような指導者層の動きには一切巻き込まれません。それどころか、ご自分の所に集まってくる幼子の中に、本当に豊かな世界を見出されています。神様が知恵ある者たちではなく、幼い者たちをご自分に導かれたことをほめたたえておられるのです。そこには、神様の恵みというものが、そのようにして啓示されるという確信がありました。

 幼子の記事は何を意味しているかと申しますと、神様の恵みとは、人間が何であるとか、何を持っているとか、そういうことには左右されずに与えられるということです。人間社会では、知恵ある者・賢い者が常にリーダー役を担い、社会全体を動かして行きます。これはどの時代にも大体共通している事実です。社会的に活躍し、それに見合った地位を得られれば、その人の生活は裕福になる、というのが人間社会の実際です。だから私たちは一生懸命に勉強し、いろいろな努力を積み重ねてリーダーを目指します。経営者が利益を消費者に還元するように、リーダーとして活動した仕事の有益性を社会に還元できれば、それなりの意味があるというものですが、実はそれはそんなに単純なことではありません。知恵ある者、賢い者は必ず傲慢に陥ることを人間の弱さとしてイエス様は指摘されるのです。律法学者や祭司たちがやがてイエス様から離れていったように、知恵ある者・賢い者は神様と争った挙句、堕落していく運命にあることを、イエス様は容赦なく明らかにされます。それは、父なる神様が裁きの執行者であり、人間的な賢さには裁きが行われることの宣言です。人間的な賢さが神様によって愚かさに変えられなければ、その人は神様を捉えることはできない、という厳しい真理が示されています。

 私たちは年を重ねるごとに人間としての知恵を増し加えて行きますが、そうした自分が知っていて理解しているすべてのことにもかかわらず、それによっては神の国を見ることができないのだということを、イエス様は少しも躊躇されずに、素直にイエス様の許に駆け寄ってくる幼子たちの姿を通して明らかにされています。賢くなればなるほど慢心していく人間の現実がここには容赦なく描かれています。

 カール・バルトの見た夢という話をご存じでしょうか? これは晩年のバルトが書いていることですが、自分がこの世の生を終えて天国に行くときの夢の話です。バルトは荷車一杯に自分の著書を積み込んで天国の門にやって来るのですが、神様から天国に入るにはそんなものは一切いらないから捨ててから来なさい、と言われたというのです。神学生の時、その話を読んで、バルトみたいな賢い知恵ある人でもそうなのか、と驚きました。そういう夢を見たということは、この世で賢い人の代表として位置づけられているバルトは、きょうのテキストのような箇所を真剣に読んでいたということでしょう。イエス様の世界では私たちがこの世で価値あると思っているものが度々ひっくり返されます。この箇所を読んでおりまして、神様の御手というものは、それこそ全世界にかけられているんだなということを感じました。この世界全体が神様のものであることがひしひしと伝わってきます。この世的には何も所有されなかったイエス様が、それにもかかわらず、ご自身の神様から頂いた力の領域に何らの制限ももうけずに、堂々とこの世を治めておられることに、あらためて驚いた次第です。

 さて、二番目の区切りに話を移します。27節です。これはもう父なる神様と子なるイエス様が一体であるということに尽きます。イエス様が神の子であるということは、人間にとっては完全に分からない信仰上の秘儀です。もちろん父なる神様のことも私たちにとっては秘儀です。ところが御子であるイエス様にとって神様は100%分かる存在だというのがこの27節です。三位一体という表現で私たちはあたかも父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が分かっているかのように話をしたりしますが、本当はその内実はまったく分かっていないのです。そうした表現、教理によって分かったつもりになっているに過ぎないのが実態だということを、ここでイエス様が明かされているのでしょう。ですからファリサイ人や律法学者のような賢い利口な人たちが自分を理解しないことは、言うなれば織り込み済みなのです。イエス様は利口な人々からどんな扱いを受けようが、それに影響されることはありません。父なる神様が自分のことを理解していてくださっているという確信があるからです。その上で、イエス様は、神様が人間に隠されたままでいるか、それとも神様によるこの世の支配と栄光とを見えるようにするかを決断されたのです。その決断の意思を最終的に十字架と復活という形で人間に示されました。その決断があるからこそ、28節から30節にかけての区切りで、尊大に陥っている人間を含めて、「わたしの軛を負いなさい、わたしのもとに来なさい」と招かれているのだと思います。「疲れた者、重荷を負う者」と言えば、私たちはすぐ日々の生業における生活に疲れた姿を思い浮かべがちですが、そういうことではなく、当時の律法によってがんじがらめになっていた、つまり信仰生活に疲れ、重荷になっていた人々の実態を表しているのではないでしょうか。私たちが考える以上にユダヤ人にとって律法は絶対的な存在です。もともと人間と神様とを自由につなぐ絆であったはずの律法が人々を縛っていることを、イエス様はよくご覧になっていました。ユダヤ人は信仰熱心だったと思います。しかし、信仰は取り違えたりすれば重荷になり、かえって私たち人間を圧迫するという現実を、イエス様は私たちに見せてくださっていると思います。私たちは余程留意して信仰生活を送らなければ、ユダヤ人が律法の罠に陥ったようになりかねません。イエス様はそういうことのないように、「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様の軛は私たちの人生を平安と喜びに導いてくれる軛です。この軛につながっていれば、頑なになったり尊大になったりすることから逃れられる軛です。イエス様の許に駆け寄る幼子は何の疑いもなく、素直に軛に身を委ねます。イエス様の持たれる謙遜さと気高さを仰ぎながら、祝福と平安に満ちた生涯を送りたいなと、つくづく思います。

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