2012.7.22

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「抵抗の詩(うた)」

山口 雅弘

詩編23編 1-6 ; ルカ福音書17,20-21

神の愛と平和の実現を求めて

 私が仕えていた前の教会では、毎年7月の末頃に、子どもたちの「ひまわりキャンプ」という1泊2日のキャンプを行なっていました。子どもたち一人一人が、神の光と愛に照らされヒマワリのように育ちますようにという祈りを持って命名しました。そのキャンプの時ですが、いつものように子どもたちが私のひざに乗り、肩車のように肩に乗って遊んでいました。その内に、数名の子どもが私の髪の毛をいじって遊び始めました。すると担当者の1人が、「そんなことをしたらだめよ。先生の髪の毛が抜けて無くなっちゃうじゃない」と言うのです。そこで私は、「いいよ、その内に髪の毛がなくなるので、遊べるのも今の内だよ」と言いました。すると担当者が「そうですねー」と言うのです。「そうですねー」と同意されると言葉もないのですが、子どもたちや担当者たちの屈託のない笑顔を見ていて、この笑顔を奪う社会であってはならないとつくづく思いました。

 子どもたちの笑顔が豊かな社会、また子どもたちがその個性と違いを持って伸び伸びと生きていける社会は、大人にとっても平和な世界になると思います。特に、子どもや多くの人が傷つけられ、哀しい事件が絶えない社会の中で、どんなに小さくても、自分のできることを通して平和を作っていく、このことはとても大切です。イエスが「平和を作り出す者は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる」と言いましたように、「平和」というのは、平穏な「一定の状況」を言うのではなく、絶えず作り、生み出していくものでしょう。どんなに失敗を重ねても、身近な小さな行いを続け、社会や世界を見据えながらも自分が出来ることを祈り求めていく。その行いを通して神の愛と平和を実現し、人の生命の尊厳が大切にされる世界を実現しようとする。そのことが、イエスの「招き」に応えることだと言えるでしょう。

 

「平和聖日」を覚えて

 8月第一週の日曜日は、日本キリスト教団では「平和聖日」と記念される日です。教団の諸教会が過去に犯した戦争協力の罪を深く心に留め、再び過ちを繰り返してはならないという祈りを持って、「平和聖日」と定められました。勿論、その日だけに終らず、その日は新たなスタートの日です。子どもたちの笑顔をさらに豊かにしていくために、神の愛と平和、そして正義の実現を求める歩み出しの日であると言えるでしょう。

 聖書に登場するユダヤ人は、何百年・何千年という時の流れの中で、「救い主」が来て下さる、「神の国」は必ず来ると待ち望んでいました。人々は現実の困難に翻弄され、多くの哀しみ・苦しみを抱えながら、神の約束を信じて生き続けました。福音書によりますと、その歴史の中にイエスが生まれ、「神の国」の福音をもたらしたという大きな喜びが示されています。しかもイエスは、人々が憩いの夜を過ごす家ではなく、「家畜小屋」の中に生まれたと語ります。そのことは、イエスが、暗く哀しく、悩みと苦しみの中に生きる人々の只中に来て下さったことを示します。「神我らと共にいます」ことを現して生きたことを象徴的に示しています。イエスは、喜びも哀しみもある人々の只中で、生涯を通して神の愛と平和、そして神の国を現わして生き続けました。

 そこでイエスは、「神の国は、実にあなた方の中にある」と語ります。それが先程のルカ福音書に語られています。この言葉を、「神の国はあなた方の間に実現される」と訳す人がいます。つまりあなたがたは、「あなた方の間に神の国を実現することができる、そのことを信じて生きよ」ということです。その際に、ユダヤ人の一人であるイエス自身が歴史において受け継ぎ、想い描く「神の国」とはどのようなものだったでしょうか? イエスが示す「神の国」を様々にイメージできますが、その一端は、ユダヤ人が語り継いできた詩編23編に示されています。そこで今日は、イエスが示す「神の国」の実現を心にとめ、「神の国」の一端を想い描く詩編23編のメッセージを分かち合いたいと思います。

 

へブルの人々によって語り伝えられた詩編

 詩編23編は、これまで多くの人に親しまれてきた個所の一つです。「神は羊飼い… 神は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」という語りかけには、平和で牧歌的なものにあふれ、心に深く響くものがあります。私たちの聖書では、「主は羊飼い」と訳していますが、もとの言葉は「主」ではなく、「ヤハウェ」という言葉です。この言葉は、決して主従の関係を表す「主」ではありません。神と私たちの関係をも、決して「主従の関係」で表すのではないということです。ですから私は、すべてものに生命を与えた創造の神を示す「ヤハウェ」を「神」と言い表しておきます。その神を「ヤハウェ」と呼び求めてそれぞれの時代に生きていた人々は、この詩編に慰められ、励まされ、また苦しい現実の中で勇気を与えられて、この詩編を語り継いでいきました。

 詩編を含む「旧約聖書」は、へブル語で書かれています。「へブル」という言葉は、後にイスラエル人とかユダヤ人と呼ばれる人々のルーツになった呼び名です。この「へブル」とは、実は「落ちこぼれ」「ならず者」「無法者」という意味を示しています。これはあくまでも、権力社会の側から見た呼び方です。古代のピラミッド型社会の中で弱くされ、落ちこぼされていく人、社会の秩序に順応できない人、権力者・主人の支配によって社会の淵に追いやられる人、抵抗運動をする人、そのような人々が「へブル人」と呼ばれていたのです。しかしその人々は、神をこそ信じ、神の愛と平和、そして正義の実現を求めて生きていきました。また、最初期の「教会」に連なる人々も、落ちこぼされ、弱くされた人々、またイエスを「見捨てて」しまうような人々でした。

 それぞれの詩編は、へブル人が何百年もの歴史の中で、時には独り神に祈る中から、また共同体の悩み苦しみの中から生み出されました。ある人は、詩編を、イスラエルの歴史の中から凝縮された「滴り」のように生まれてきたと言い表しています。しかも、傷つき重荷を抱える人々が、この世の力を持つ人にではなく、神にこそ信頼して生きようとする、その思いが詩編の一つ一つに秘められていることを見逃せません。詩編23編はその一つです。そうであればこそ、弱く小さくされ、落ちこぼされていく人々の間で語り継がれてきた生命のメッセージとして、受けとめたいと思うのです。

 

詩編23編を生み出したヘブルの人々

 詩篇23編はこれまで、平穏で牧歌的な情景を想い描く詩編として読まれてきました。果たしてそうでしょうか?
 この詩篇は、へブルの人々が40年に渡って荒野で生活していた時の経験から生まれた神への告白を示しています。しかし、それに留まりません。世々の人々は、人の生命を踏みにじる暴力、権力者の横暴、また砂漠のような人生の中で、この詩篇を「祈り」として語り継いでいきました。詩篇23編は、生命を踏みにじるような不毛の砂漠に、自分たちの人生と社会を重ね合わせ、どんなに苦しみ悩みが深くても、神が共にいて下さる。そして「青草の原に休ませ… 憩いの水際に伴い、魂を生き返らせて下さる」。神は必ず平和な国を与えて下さる。その神への信頼と希望を失わず、また権力や暴力への「抵抗」の思いを「祈り」に託して生きていったのです。

 1節から3節を見ますと、「神こそが真実の羊飼い・牧者である」と告白されます。また、人々を羊の群れに譬え、牧者に対する信頼が言い表されます。しかし、もし私たちの感覚や自然に対する理解で「砂漠」をイメージし、このテキストに牧歌的な響きを感じ取るとすれば、見当はずれになりかねません。例えばよく知られた歌の一つ、「月の砂漠をはるばると旅のらくだが行きました」というようなイメージに重ね合わせ、静かな月の光に照らされる旅人や砂漠を思い描くとしたら、およそ現実とかけ離れているでしょう。

 長い間イスラエルで旧約聖書を研究してきた池田裕という人は、このように言い表しています。「灼熱の太陽が照りつけるだけで、白茶けた砂と岩だけの荒地がどこまでも続く荒野は、人影はおろか、野生の獣の姿すらめったに見られない恐ろしい空間であった」。
 また、和辻哲郎という「風土」の研究家は、こう記しています。「歴史的に有名なシナイ山やアラビア砂漠のあたりに至れば、旅行者は、死そのものを印象するごときこの風土を生きることによって、旧約聖書を新しく読み直そうとする衝動を感ずるであろう。選ばれた民が渡って歩いたのは、かくも厳しい砂の海、岩片の海であった。…」云々と。

 このように、凄まじいほどに「死の砂漠」の中を、へブルの人々は水と草を求めてさすらいました。あらゆる生命をカラカラに干乾びさせ、来る日も来る日も太陽が照りつける中で、「神こそ羊飼い、牧者であって、… 必ず緑の牧場に憩いを与えられ、水辺に導いて下さる」と神への信頼を言い表しました。そうして世々の人々は、現実の困難と闘い、権力者の横暴に抵抗し、その現実の中で、神への信頼と希望を語り継いでいったのです。

 

我々の現実の中で

 私たちは、そのような神への信頼をもって生きようとしているでしょうか? 先日、ある平和集会で渋谷に行きました。ハチ公前、またその交差点に人があふれていました。これほどの人がどこから来たのかと思える群衆です。そこには昨日も今日も変わらず、おそらく明日も変わらずに多くの人々がいると思います。社会の荒波の中で懸命に働き疲れ切っている人がいるでしょう。また様々な思い煩いや悩みを抱えている人、病気や痛みを抱える人、明日の希望をもてない若者、差別や偏見に苦しむ人もいるでしょう。

 誰もが、痛みや苦しみを抱えています。その中に生きる自分自身を見る時、苦しみ悩みがあっても、「神は憩いの水際に伴って下さる」と本当に信頼して生きているだろうかと思うのです。とどのつまりは人間に寄りかかり、人間関係に終始しているのではないか? また、人の思惑の中で翻弄されているのではないか? その現実の中で、「神こそ牧者」であると言い表すことはどういうことか? そのように思うのは私だけでしょうか?
 かと言って私たちは、いつも深刻になっている訳ではありません。思い煩いや不安を抱えながらも、何かで気を紛らわし、仕事に追われ、日常に流されて、昨日も今日も生き、明日も生きていくのでしょう。その現実の中で、本当は心の奥底で飢え渇き、自分を支え、受けとめて下さる方を求めている、それが私たちではないでしょうか?

 詩篇を語り継ぐヘブルの人々にも、実は同じように揺れ動く思いがありました。「神はわが牧者」と告白しながら、心の内には満ち足りぬ思いがあり、この世の力に押しつぶされ、結局は人の力や思惑に負けてしまいます。しかし、その現実の中で神に思いを向ける「礼拝の時」を与えられ、そこで再び「神に立ち帰る」という具体性の中で、人々は、人ではなく神にこそ信頼し生きていこうという思いを確かにされていったのです。そこで再び、「神こそわが牧者」であると信じ、人々は新たに生きていこうとしたのです。

 

たとえ死の陰の谷を行く時も

 4節に、「死の影の谷を行く時も、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる」とあります。ここには、自分の内外に迫り来る苦難と死の悩みが語られます。しかし、その苦難と死の危険の中にあって、「神我と共に在り」と信じ、牧者が必ず敵を「鞭」で追い払い、「杖」を持って我々を支え導く、そして「私は力づけられる」と告白するのです。
 この最後の言葉、「それが私を力づける」とありますが、これは「勇気を与える」と訳してよい言葉です。どのように厳しい現実が自分を打ちのめしても、神が私たちに生きる「勇気を与え」、再び立ち上らせて下さると言うのです。

 この個所を通して、どれほど多くの人が苦難の中で勇気を与えられ、立ち上ることができたでしょうか? よく知られた話ですが、宗教改革者の一人マルチン・ルターもその一人でした。ルターは、当時の巨大で絶対的な力を持っていたカトリックの組織の中で、教義や伝統や信条に依るのではない。また組織や秩序や規則ではない。「聖書のみに依って立つ」という宗教改革のために立ち上りました。しかし彼は、カトリックから破門されます。破門されることは、当時の世界では生きていけない状況に追い込まれることです。彼は友人の家にかくまわれ、高い塔の隠し部屋で一人静かに聖書に向き合います。そして詩篇を読み始めます。そこで、4節について、その時の思いをこのように記しています。

 「私は今、弱く、惑いやすく、底知れぬ不安に囲まれている。… 私には、死と地獄の入り口が見える。しかし、それにもかかわらず、私は全ての悲しみと恐れとに、そして悪にも悲しみにも破れないであろう。なぜなら、そこに神がいたもうからだ」。

 

歴史に生きた証人に連なる

 ルターだけではありません。精神的にも肉体的にも孤独の淵に追いやられても、神が共にいて下さり、仲間が共にいる、その熱い思いを与えられ生きた人々がいます。そのように歴史に生きてきた人々がいる、その連なりの中に私たちは生かされているのです。

 私の母教会に、すでに神のもとに召されましたが、式場ヒデさんという女性がおられました。歴史の証言として語り継ぎたいのですが、彼女を見舞うたびに次のことを伺いました。戦時中、式場さんご一家はクリスチャンということで、軍部や隣組から大変な圧力と迫害を受けたそうです。それでもご家族は信仰を曲げずに生きたことにより「非国民」となじられ、ヒデさんの夫は捕えられました。そして彼は、遂に牢獄の中でなぶり殺しにされました。それでも神に愛されている、その熱い思いを持ってこのような辞世の句、最後の歌を残しておられます。「豚箱も 神いまされば パラダイス」。

 夫を奪われたヒデさんですが、子どもたちと共に厳しく辛い状況の中で神の愛に支えられ、勇気を与えられ、凛とした姿勢を持ち生き続けました。その生活の中で、他の人々に暖かい愛の眼差しを向けておられた女性でした。信仰の先達者たちが、詩編23編に勇気を与えられ、神に信頼して抵抗の歩みをされたという事実を心に覚え続けたいのです。

 最後の6節では、「私の生きている限りは、必ず恵みと慈しみがいつも私を追いかけてくる。私はとこしえに神の家に留まるであろう」と告白されます。いついかなる時も、神の恵みと愛は、私を追いかけ、捕らえて離さないと証しするのです。詩編23編は、神の愛への深い感謝と信頼の詩です。同時に、神の愛に支えられる人々が苦難にも立ち向かう「抵抗の詩」であると言えるでしょう。

 そのことを、生涯を通して示したのがイエスです。その誕生の際に、イエスは「インマヌエル」と呼ばれると語られます。それは、イザヤ書と共に、詩編23編にあるように「神我らと共にいます」と同じです。このイエスが、「神の国はあなた方の間にある」と語りかけています。あなたがたは神の愛に照らされ、勇気を持って神の国と平和の実現のために生きよと語りかけるのです。

 私たちは、「神こそ牧者」「神我らと共にいます」と言い表しながら、子どもたちの笑顔がさらに豊かになるように、またどのような人も共同体や社会から追いやられないようにという祈りを持って歩み出したい、また、社会の中に生きる教会として、どの人もまったくの無条件で礼拝のすべてを共にして歩み出せるように、「今」イエスを心に迎え入れたいと思います。そして、私たちの間に神の愛と平和を実現するために、「今」という時を生きていこうではありませんか。

 しばらく聖書のメッセージを心に留めて、黙想の時を持ちましょう。黙想・祈り。

 

 
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