2012.06.17

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「仕えられるためではなく、仕えるために」

陶山 義雄

イザヤ書35,3-10; マルコによる福音書10,32-45

 「羊飼いは羊のために命を捨てる」「私は良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)この言葉はヨハネ福音書10章の冒頭で、イエス・キリストが「羊の譬」を語られたあと、その結びで話された言葉です。それは、ご自身の身に起きる、受難の出来事を予測して語られた言葉でしたが、弟子達は、その意味が分からなかったために、とんでもない期待をイエスに寄せていたことが、本日、取り上げる第三回目の受難予告物語の中に描かれています。テキストに注目する前に、先ほどご一緒に歌いました313番を振り返りますと、受難の意味が良く歌われていることにお気づきになられたと思います。

4)「羊飼いは 羊のために その命 あえて捨てる。
  正しい主が 僕のために 罪を担なう」
5)「なんと深い 主のみ心よ なんと広い イエスの愛は
  責め苦の道 歩まれたのは 私のため」

 大バッハは「マタイ受難曲」でこの讃美歌から、3回に分けてこれをコラールとして歌っています.。第1節を受難曲の第3曲で、また、第3節を第25曲で、そして、「羊飼いは 羊のために その命 あえて捨てる」、この第4節は群集がこぞって「イエスを十字架につけよ」と叫ぶその場面で、歌われます。この讃美歌と私が初めて出会ったのは、バッハのマタイ受難曲を通して知りました。日本の讃美歌集には載っていなかったのですが、讃美歌21になってから、初めて収録され、歌うことが出来るようになりました。バッハ・ファンにとっては実に有難いことですが、感動的な讃美歌であるだけに、日本の教会で歌われることは大変嬉しい限りです。「責め苦の道 歩まれたのは 私のため」この言葉から、本日のテキスト、第3回受難予告を見るときに、詩人の懺悔と嘆きに始まり、祈りの心が読み取れるように思います。マタイ受難曲では、この後、第56曲でピラトが「イエスはどんな悪事を働いたのか」と、十字架に付けるよう迫ってくる群集に問いかけるのですが、群集に答えさせる前に、バッハが先のコラール第4節を受けてソプラノ独唱で答えさせています:「彼は私たち全ての人のために良い働きをなさいました。視力のない人には、その目を開き、足の不自由な人には歩けるようになさり、私たちに父なる神の言葉を伝え、悪霊を追い払い、悲しみに沈んでいる人を立ち上がらせ、罪人までも受け入れて友となさいました。私のイエスは他に何も悪い事などしておりません。」

 先ほどお読みしたイザヤ書35章3節以下と同じ言葉が述べられています。イエスは真に良い羊飼いであったことを歌っています。

 本日のテキストはマルコ福音書に記された3回にわたる、イエスご自身による十字架の受難予告の、第三回目の予告場面であります。第1回目は8章31-38節で、このテキストをもとにして、私は4月22日の礼拝説教で解き明かしをさせて頂きました。第二回目のイエスご自身による受難予告は9章30-32節で、一番短かく「受難、十字架、復活」が予告されておりました。5月6日の礼拝説教テキストに致しました。そして、本日は、その第3回目の受難予告で、マルコ10章32節以下に記されておりますが、3つの中では、一番詳しく、その予告内容が語られています:今までになかったこととしては、状況がエルサレムに上って行く途上の出来事であったと言うことです。しかも、イエスは自ら先立って、一行の先頭に立って行かれたので、あとに従う弟子達は驚き怖れた、と書かれています(日本語の聖書には、驚いたのは弟子達で、「恐れた」のは「従う者たち」であった、と言うように分けていますが、実際は「弟子達も、また従って来た者たちも、驚いて、恐れた」と読めますし、弟子達は恐れなかった、と言っている訳ではありません。前2回の受難予告はいずれも、ガリラヤか、その近辺で起きた出来事でしたが、今回はいよいよ、エルサレムへ向かう途上の出来事として語られています。それは、死の旅路を意味する訳ですが、その旅を先導するイエスの只ならないお姿に、12弟子を含めて従い行く人々は、何か胸騒ぎを感じていたのかもしれません。そのことが、「驚き、恐れた」という説明の中に込められているようです。ところが、またしても、イエスの受難と十字架の出来事について、弟子達は誤解を曝け出してしまったのです。それが、受難予告に続く10章35節から45節にわたるエピソードに記されています。

 先ずは、第三回目の受難予告に注目して見たいと思います。ここでは、前2回の予告と比べて、一番詳しく、受難の出来事が語られています。しかも、マルコ福音書で言えば、14章15章で展開される、ユダヤ人指導者たちによるイエスを逮捕しようとする謀略から、逮捕、裁判、判決、処刑にいたる一連の出来事を、簡明に項目を挙げて纏めています。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人、つまり、ローマの側に引き渡される。その異邦人は人の子を侮辱し、その侮辱の様子について、「唾をかけ、鞭打ち、最後は命を奪う、」とまで触れています。。そして、しかし、「人の子は三日の後に復活する」と言う言葉が加えられています。この文章中、動詞で語られている部分は全て未来形が使われています。これから、起こることを予測して、人の子であるイエスが未来形で語っているのですが、聖書に書き記したマルコ記者は既に、起きたことを知っている訳ですから、私たちは、これを事後預言と呼んでいます。それだけに14章以下に記された受難物語と一致する通りに、第三回受難予告は記されています。第一、第二の受難予告には無かった新しい出来事として、「イエスに死罪の判決を下したのはユダヤ人指導者である、」と言うこと、「異邦人に引き渡され」「侮辱し、唾をかけ、鞭打ち」という危害を加える異邦人の様子が記されていること」、挙句の果てに「殺害」する、と言う十字架にまつわる具体的記述がなされていることです。バッハのマタイ受難曲ではアルトの独唱で、このような危害を救世主に浴びせる人々と傍観者たちにむかって、切々と訴えています(第60曲):

 「神よ、憐れんで下さい。ここに救い主は繋がれて立っているのです。ああ、鞭打ち、殴打、痛ましき傷。刑吏よ(刑の執行者よ)、しばしやめなさい!あなたたちの心は痛まないのか、あなたたちの思いはこのような悲惨なお姿にたじろがないのか?ああ、そうだろう、あなたたちにも心はあっても、それは拷問の柱のように、いや、それにも増して、冷酷無常なのだ。憐れみなさい。しばし、止めなさい。」

 「わが頬の涙、役に立たないのであれば、おお、あなたたちは私の心を取り去っておくれ。それでも、主の御傷が、慈しみの血潮を流す時、私の心をもって、これを受ける捧げ者の器とならせてください。」

 そして、このあと、有名な讃美歌(コラール)「血潮したたる、主の御頭」が歌われるのです。実に感動的て、受難予告の記述と共に、バッハの解説が音楽と共に響き渡り、「悩みと恥にやつれし主を、われはかしこみ、君と仰ぐ」と告白せざるを得ない境地に私たちを誘い込んで行くのです。

 そうした感動は束の間に過ぎ去り、その後に載せられた、ヤコブとヨハネの無理解に向かって聖書は転じて行くのです(10:35-45)。ゼベダイの子、ヤコブとヨハネは、ペトロと並んで、あるいは、ペトロに次いで、イエスの側近中の側近にあたる弟子であったことは、山上の変貌(マルコ9:1-13)や、ゲッセマネの祈り(同14:32-42)の場面で、この3名の弟子だけを連れ、他の弟子達を山の麓に置いて行かれたと言う記述を読んでも良く分かります。そのヤコブとヨハネが、主の受難について全く無理解を曝け出しているのです。あまりの不始末を隠すためか、マタイ福音書記者(20:20-28)はヤコブとヨハネではなく、その母親たちがイエスの質問者であるように改められています。「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」と、頼み込んだのは母親であった、と書き改めているのです。しかし、先の第一、第二受難予告でも、その直ぐあとで弟子の無理解が語られていたように(8:31-38:ペトロの無理解;9:33-37:弟子の中で誰が一番偉いのか)今回も、間違いなく、ヤコブとヨハネであったに違いありません。「イエスが栄光の座につく時」とは、終末の時に与る栄光を指しています。マタイ福音書では「あなたの御国で」あるいは、「あなたが王座にお着きになる時」(20:21)となっており、復活後の神の国、教会のことが母親によって考えられているように記されています。王座の右と左は王座に着く人の次に位の高い右の人、3番目に高い左の人と言う想定です。でも、イエスが受難予告で言われたことは、「栄光とは苦難の中でのみ現われること」、「万人への奉仕と贖いの勤めこそが、受難と十字架であり、復活とはこの奉仕と贖いの勤めを受けつく中で生きて働くものであること」をヤコブもヨハネも、そして、他の弟子達も全く理解していなかったのです。しかし、失望するには及びません。イエスを三度拒んだペトロも、また、無理解を露呈したヤコブもヨハネも、イエスが居られなくなったあと、立派な教会指導者として立ち上がった出来事を忘れてはなりません。それは、これからの出来事として福音書は残しているからです。復活とは躓きと誤解、失望が贖われて、イエスの働きを受け継ぐ者へと甦ることなのです。そのことが、この後、歴史の中で証しされて行くのです(ヤコブは紀元44年頃、ヘロデ・アグリッパ1世の剣によって殉教死したと使徒言行録12章2節に記されています。また、ヨハネは主の兄弟ヤコブと、ペトロに仕えてエルサレム教会の柱と目される働きをしたと報せられています:ガラテヤ書2章9節):

 「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方(主)は、異邦人に対する使徒としての任務のために、わたし(パウロ)にも働きかけられたのです。また、彼らは、わたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファ(ペトロ)とヨハネ、つまり、柱として目されるおもだった人たちには、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。」

 私たちも、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに劣らず、何度、誤解や失望、時には背信的な罪を犯してきたことでしょうか。にもかかわらず、受難の主イエスは温かい目をもって、見守っていて下さると信じます。それは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネについてそうであったからです。

 第3回受難予告のあとに露呈された弟子達の無理解をとおして、イエスは十字架そのものが何のために必要であるのかを私たちに伝えようとしておられます。イエスが受ける栄光は、十字架の苦難と切り離して見ることは出来ません。終わりに与る栄光は、受難を通し、また、受難の中でこそ現われる、と言うことです。これが、弟子達には分っていなかったのです。やがて分るようになるのですが、今、この時点では、分らなかった、と言うことです。そこで、イエスは10章42節以下で、12人を呼び寄せて、十字架を通して現されるべき栄光について語り始めておられます。それも、この世で上に立つ支配者と対比させながら教え諭しておられます。それは、また、イエスに従うもの、十字架の受難を経て復活されたイエスに従うとはどう言うことであるのかに付いて、弟子達ばかりでなく、その後に従う私たちについても語っておられる大切な事柄です。

 洗礼を受け、聖餐の杯に与るキリスト者は十字架を背負ってイエスに従うことが求められています。そのことは、既に第一回の受難予告で語られていたことですが、第三回の予告のあと、42節以下では、世の支配者と思われている人たちとの比較の中で、十字架を背負いつつ、この世に生きる勤めがイエスによって語られています。しかも、支配者に対する皮肉とユーモアを交えながら、そして、その皮肉とユーモアは現代、私たちの身の回りを見ても当てはまるような批判をもって語られています。

 「あなたがたも知っているように、外国人の間では(ここではローマとその傀儡政権であるイドマヤ王朝ヘロデの支配者など)、異邦人の支配者と思われている(δοκóυντεç)人々は、(本物の支配者でなないことを暗に批判しています)、こうした人々が民衆を支配している(κατακΰρευειν「押さえつけて支配している」の意)。また、偉い人たち(大きく見せている人たち)が権力をふるっているκαταεξοΰσιαζουσιν搾取などの権力乱用をしている)。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない。 あなたがた教会の中では、大きくありたいと願っている人は、万人に奉仕する人になりなさい。また、一番上に立ちたいと願っている人は、万人の僕(奴隷)になりなさい。なぜならば(この言葉は新共同訳聖書では訳されていないが、重要な言葉=γαρ)なぜならば、人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人を贖い、買い戻すために(この世に)来たからである。」

 ここでは、イエスが地上で生きて働かれた生涯の全てが振り返られ、十字架の頂点では贖罪としてのイエスの死が人々への奉仕としてのイエスの生と一緒に結びついて語られています。イエスの生を無視して、イエスの死について語ることは出来ないと言うことです。イエスの十字架は奉仕としてのイエスの命と結びついています。そうでなければ、十字架は単に飾り物になるか、お題目になって、この世とは全く関わりのないものになってしまいます。イエスが復活されたと言うことも、教会の中だけに通用する単なる過去の記念として称えられるばかりで終わってしまいます。十字架はイエスの生、イエスの命を受けついて、万人に奉仕してこそ、この世と関わり、新しい歴史の創造にむかって、私たちは十字架を荷担って生きるものとなるのです。これが復活という事です。

 以前には、第1回、第2回の受難予告に続いて、イエス共同体にあっては、幼な子のようになり、また、実際に幼な子を交わりに受け入れる集団であるべきこと、そして、後から入った人たちを交わりの中心に迎え入れるべきことがイエスによって教えられていましたが、第3回受難予告の後では、イエス共同体が全体として、支配者のように振舞うのではなく、そうした力関係を捨てて、交わりの成員に「仕える人」「僕」の立場に徹して互いに仕え合うべきことが教えられています。マルコ福音書記者とその教会は、イエス共同体である教会の中で、互いに仕え合うべき勤めの模範を、イエスの受難、十字架と結び合わせています(10章45節):これは、この後、繰り広げられる十字架の出来事、14章以下に展開されるイエスの受難物語の主旨を、マルコ記者がこの45節で纏めて後世に残した優れた見解であると、看做すことが許されます。また、そう言う意味で、私は感激を持って何時もこの言葉を胸に刻み続けています:

 「人の子(イエス・キリスト)は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金(Iλυτρον:解放のために支払われる代価)として、自分の命(魂:ψúχη)を捧げるために来たのである。」通常、命を表す言葉ζωηを使わないで、魂を表す プシューケー を用いているのは「今なお生きて働いているイエスの命」として「魂」にしていることが良く分ります。私たちはイエスの命と魂を受け継いで行くのです。

 三つの受難予告とそれに続くイエスの教えに痛く感動し、生涯の進むべき進路を、イエスから託された十字架として背負って生き抜いた人として、私はアルバート・シュワイツァー(1875〜1965)を思い浮かべています。彼は一旦は牧師になり、シュトラスブールの聖ニコライ教会で勤めておりましたが、福音書の中でも「イエスのメシア性」が告白されるところで、イエスが弟子達に向かって、そのことを公言しないように命じておられることに注目し、「メシア性の秘密と受難の奥義」を27歳で世に著しました。その極め付けが今日のテキストです。イエスがメシアである、と言うことは、イエスが十字架に至る働きと命(魂)を継承してこそ、告白するに相応しいものとなる。第1回の受難予告はフィリポ・カイザリアと言うヘルモン山の麓で、ガリラヤ、ユダヤ、エルサレムへ向かう手前の場所に来て、「あなたがたは私を誰であると言うのか」と弟子達に問いを投げておられました。ペトロが「あなたはメシアです」と師匠に答えた事に対して、「あなた方はその事を誰にも話してはならない」と緘口令を敷かれました。メシアの秘密とは、もし、人々を救う救世主が、未だに現われていない現況で、待ち望んでいてもメシアが到来しておられないのであれば、自分がメシアになり、その働きを世に現して行こうとの覚悟が、イエスによって、ここで表明されたとシュヴァイツァーは捉えています。イエスは神の子でお生まれになった時からメシアである、との見方とはシュワイツァーの場合には、かなり違っておりますが、それは、メシアの働きを齎すイエスに倣って弟子達も、シュワイツァーも、また、私たちもそのように生きるべきことが教え諭されている、その頂点をなす教えが、10章45節であることをマルコ記者から受け継いで、そのように理解しているからであります。

 こうしてシュヴァイツァーは、大学と牧師の職を辞任して、既に30歳を過ぎていたのですが、医師となるために医学部に入りなおし、1913年、38歳で医療の乏しいアフリカに赴任します。それは、医療の手が届かない地であるから、と言うばかりでなく、ヨーロッパの国々が植民地獲得でアフリカの民衆を収奪してきたことを懺悔し、その贖罪として、アフリカに赴き、病院を開き、50年にわたり無償の奉仕を続けたのです。

 3つの受難予告とそれに纏わるイエスの教えは、主に従い、十字架を担うとはどう言うことであるかを伝えており、この事を先の聖書から学び取り、その御言葉に従うことこそ、シュヴァイツァーが私たちに証ししている所であります。イエスをメシアとして崇め、賛美するばかりでなく、その受難を現代に受け継ぎ、メシアの働きを今に現してこそ、相応しいキリスト者となるのです。

 「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命と魂を捧げるために来たのである。」

 私たちもイエスの命と魂に触れ、その十字架によって買い取られた者として、個人としても、また教会としても、イエスの命と魂を受け継ぎ、万人の奉仕者となることが出来るよう、共に祈りたいと思います。

「神の民よ 奮い立ちて、復活の主イエスは 先立ち行く」
「神の民よ 世の痛みに 癒しの主イエスの 愛を注げ」

 この讃美歌は去る2月12日にKYさんを病床にお訪ねした時に、枕元に置かれていた讃美歌の一つでした。他にも「山辺に向かいて われ」、と「主にありてぞ われは生きる」、があったので、病床礼拝をKYさんと一緒に歌わせて頂きました。KYさんの口元が動いているのを拝見し、私は大変感動致しました。

 今では御国にあってKYさんも私たちと共に、この讃美歌を歌っておられると信じます。

「神の民よ 聖霊を受け、キリストの道を よろこび行け」
主イエス・キリストの父なる神様
あなたがお遣わし下さった御子キリストは復活されて、私たちに命を賜い、生前のお働きを、教会と私たちが受け継ぐことを託して下さいました。どうか、私たちを力付け、主の十字架を高く掲げ、死の限界を乗り越えて証してくださった、奉仕の道を共に歩んで行くことが出来ますように、主の御名によって祈ります。
 
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