2012.05.06

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「外に開かれたイエス共同体」

陶山 義雄

イザヤ書49,14-22 ; マルコによる福音書9,30-41

 先ほどご一緒に歌いました讃美歌51番は「説教の前に」と言う但し書きが施され、その言葉に相応しい礼拝の心構えと讃美の備えを歌った讃美歌です。「キリスト者の祈りの心と讃美の声」を合わせる歌を求めてヴァイデンの牧師をしていたトービアス・クラウスニツァー(1619〜84)が造った讃美歌です。讃美の心はキリストの復活に与る希望と喜びから来ることを、先ほど「招きの言葉」で引用しました、コロサイの信徒への手紙3章1節から触発されて歌にしたと作者は述べています。この讃美歌を更に親しみを持って、世界中の教会で歌われるようになったのは、作曲者ヨハン・ルードルフ・アーレ(1625〜73)の功績によると言われるほど、大変美しい旋律が歌詞に付けれれているからです。大バッハも事の外、この音楽を愛好し、オルガン小曲集で2曲(BWV633、706)、27のコラール変奏曲で3曲(BWV730、731、754)、また、単独のオルガン曲(BWV873)を残しています。1つの讃美歌(コラール)からこれほど、多くのオルガン曲を造ったのは珍しい程で、それだけ、バッハは旋律についても、また歌詞についても感銘を受けていたからであるに違いありません。そして、この讃美歌の第1節で歌われている、「世の思いみな、うしろに退け」は、作詞者が30年戦争(1718〜48)にプロテスタント側に従軍し、荒廃したヨーロッパの再興を図って歌った言葉で、第2節で「我らの心は闇に閉ざされているが」、「きよきみ旨のみ、 果たしたまえ、主よ」は、十字架の贖いを託されて、そのみ旨を地上で果たされた主イエス・キリストへの感謝と讃美に向かって私たちの心を向けさせ、礼拝への備えを促している、やはり、素晴らしい讃美歌であると思います。

 

 前回、マルコ福音書第8章31節以下の「第1回受難予告」から「ガン闘病と復活信仰」という題で、福音の解き明かしをさせて頂きました。その際、第2回、第3回受難予告があることに触れまして、順次、この講壇から、その解き明かしを、予告として申し上げましたが、今日は、その内の第2回受難予告に注目したいと思います。

 一読してお分かりの通り、前回と比べてイエスの受難予告は、大変簡潔に述べられています。弟子達に「人の子は、人々に引き渡され、殺される。三日の後に復活する」(9:31)と、事実だけが語られています。8章では、受難、死、復活は、「そうすることになっている」(デーイ:δεί)と言う言葉で、旧約時代以来、待望されていたメシアの姿を受け継いで、イエスが十字架を身に受けて行く覚悟が語られていたのですが、9章の受難予告では、メシアの受難、死、復活の3つが淡々と述べられているに留まっています。しかし、「人々の手に『引き渡される』」と言う言葉は、イエスの十字架について教会が用いてきた特別な用語(παραδίδοταιーパラデイドタイ)が使われています。これはパウロも十字架の出来事を語る時には用いていた言葉であります。コリントの信徒への手紙一 11:23:主の晩餐の制定「わたしがあなた方に伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」

 「引き渡される夜」とは、十字架をさしていることはお分かりの事と思います。第2回受難予告は、前回と違って、今度は、イエスの身に起こったことから遡って語られているのです。これを「事後預言」と呼んでいます。前回は過去の預言者が言っていた期待から受難が予告されていたのに対して、今度は、実際に起こった出来事から語られているのです。そして、この第2回受難予告は3つの予告の中では、簡潔で、最も古い証言であると考えられています。受難予告に次いで、載せられているエピソード、「誰が弟子達の中で一番偉いのか」は、またしても、イエスの十字架、受難の出来事について、弟子達が無理解であったことを印象付ける話になっています。弟子達にとっては大変不名誉な話ですが、マルコ記者は敢えて、このエピソードを残しています。しかし、マタイ記者は17章22〜23節で、第2回受難予告がなされた後、この物語を受難予告から切り離し、イエスのご受難に相応しい、「神殿税の問答」(17:24〜27)を挿入しています。これは、ローマに税を納めるべきかどうか、と言う「納税問答」(22:15〜22//マルコ12:13〜17//ルカ20:20〜26)とは異なり、ユダヤの最高法院から咎めを受ける性質の問題をマタイは加えることによって、イエスの受難、十字架が避けられない問題になって行く有様を伝えています。そして、「誰が一番偉いのか」と言う、第2回受難予告でマルコ福音書に記された本日の、この記事は受難予告の中身から取り除かれています。

 ルカ福音書では第2回受難予告(9:43〜45)の後、マルコと同じように「弟子達の中で一番偉い者」をイエスに尋ねるエピソード(9:46〜48)と、「逆らわない者は味方」(9:49〜50)の物語はそのままの順序で載せられているのですが、イエスの受難予告に対する無理解は弟子達のせいではなく、そのように神が意図しておられたので、十字架の真意が分からなかった、と丁寧にルカは説明して、こう言う文章をルカ福音書記者は付け加えています:「弟子達はその言葉(受難予告)が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(9:45

 

 マルコ記者にとって、弟子達に序列をつけることは、福音宣教には相応しくない、そう言う見解を明確にもっていた教会指導者でした。「先なる者は後になり、後なる者は先になる」と言うイエスの教えに倣って、教会は新来会者を常に配慮し、彼らを重んじることが宣教の基本精神であったので、12弟子が少しでも序列をもって重んじられたり、また、特権を主張しようとする芽を極力取り除く必要があったのです。事によれば、イエスご自身がそのように弟子達を訓練しておられたことも、十分にあり得る話であります。教会はこの基本精神を守り切れず、ペトロを第一とする序列化と権威付けに走って行ったことはパウロが手紙の中で批判を加えている所を読んでも分かります:

「(エルサレム教会の主だった人たち、この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでも良いことです。神は人を分け隔てなさいません。・・・しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていないのを見たとき、皆の前でケファ(ペトロ)に向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。』」(ガラテヤ書2:6、14

 弟子達の序列化と権威付けは、マタイやルカ、使徒言行録などを読んでもその流れを跡付けることができます。しかし、マルコ福音書ではこうした流れに逆らっています:

 「弟子の中で一番先になりたい者は、すべての人の一番後になり、すべての人に仕える者とならなければならない」(9:3510:45) そしてイエスは、無力で保護される必要があり、傷つきやすさの象徴である、子供を手に取り、抱き上げ、会衆の真ん中に置いて、「わたしの名のために、誰でも子供を受け入れる者は、わたし(イエス)を受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9:37)と言っておられます。イエスは後に、人が天の国に入るには実際に子供のようにならなければならない」とまで、語っておられます。

 

 教会の開かれた姿勢について、私たちも、聖書の教えと物語については理解している積もりでありながら、実際には、会員の中でも重要な役割を負っている人を重んじたり、序列に繋がるようなことをしていなければ幸いです。とりわけ、新来会者への配慮を忘れて、全く知識の乏しい人々に、言わばキリスト教に対して幼な子のように何も知らない人々に、信仰の物差しを作り上げて、告白文の唱和を求めたり、これに同意できなければ、信者にはなれないような垣根を設けようとしていなければ幸いです。そのことが、次に来るエピソード:「逆らわない者は味方」(9:38〜41)で、宗門の内にいる弟子達や、また、この代々木上原教会にむかっても、問いかけておられるのです。

 弟子達は自分たちの仲間でなければ、イエスの話をしたり、イエス宗団と同じようなことをしてはならない、と考えています。しかし、イエスのお答えは明解です。弟子でなくても、この集団に入っていない人でも、神の業を行うことができることを、ハッキリと指摘しておられるのです。

「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。ハッキリ言っておく。キリストの弟子だという理由で、弟子であると自称して、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いをうける」(9:41

 主の名によって子供を受け入れる姿勢に、知識や教えは不要です。イエスを慕って、その側近くに集まることで足りるのです。教えや知識に関心をもち、教義や信条をもって信仰を確かなものにしようとする、知的関心の高い大人は、イエスのもとで、遊び戯れ、声を上げて飛び回る子供たちを、邪魔者扱いにし、イエスの周囲から子供達を追い払おうとすることが起きるのです。「イエスはこれを見て憤り、弟子達に言われました。『子供をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。』そして、子供達を抱き上げ、手を置いて彼らを祝福された。」(10:14〜16) 弟子達が子供達をイエスの側から追い払おうとしたときに、イエスは「烈しくお怒りになった」。この言葉:アガナクトー(άγανακτώ)は、「我慢できないほど、強く憤る」と言う意味の言葉です。幼な子や子供に信条はいりません。ただ、主を慕って側近くに来るだけで良いのです。私たちの教会も、かくありたいと思います。ただ、主のもとに集まるだけで良いのです。信条を持ち出したり、教義をもって教えの世界に分け入ると、交わりの中に分裂が生じ始めます。正しい教えと誤った教えの選り分けが始まります。正統が異端を退ける、弾圧や抵抗の争いが始まります。不幸なことに、過去の教会は、こうした分裂と戦いに明け暮れてきたように思います。やっと、20世紀になって、ことに第二次世界大戦の後になって、せめて、主の教会であるならば、教会は1つにならなければいけないことに気付きました。それが、プロテスタントでは世界教会会議(1948年)であり、カトリック教会では第二ヴァテイカン公会議(1962〜65)です。カトリック教会の場合には対象をプロテスタント教会や、キリスト教の諸宗派に対してばかりでなく、仏教やユダヤ教、イスラム教など、世界の諸宗教にむかって、開かれた教会への脱皮が教皇ヨハネス23世と、パウルス6世(1963〜1978)のもとで推し進められました。世界と教会の間にある深い溝を埋めるために、教会を「世界に開かれた教会」へと転換すること、そして福音の光に照らされて、世界に奉仕する教会へ改めること、それが第二ヴァテイカン公会議が目指したことでした。私たちが現在、使っている「新共同訳聖書」はこの教会改革によって出来たものである、と言っても過言ではありません。それまでは、1545年にトリエント公会議で決められたラテン語訳の「ヴルガータ(一般の、すべての人に知られた、標準の意)」以外の聖書はカトリック教会では用いることが出来なかったのです。従って一般の信徒は殆ど聖書を読むことができなかったし、また、読む必要もなく、その解き明かしは聖職者に委ねられていたのです。しかし、公会議以降では、ミサと呼ばれる礼拝も、それぞれの国の言葉で行い、聖書も讃美も自国語で、誰もが分かるように改められたのです。そうなると、プロテスタントが陥ったように、多様な解釈がなされる恐れが生まれるのですが、教会が広く社会に開かれて行くためには、多様な解釈をも認め、包み込んで行くような寛容性を公会議では認めるに至ったのです。ある意味では、プロテスタント教会以上に、世界に開かれた姿勢をカトリック教会は持つことになりました。他宗教、他宗派の信徒、教職も広く神の国に包み込まれていることを認め、今までの独善的姿勢を改めようとしたのです。その行き方はこの公会議でも活躍した司祭の一人・ヨハネ・パウロ二世が1978年、教皇に選ばれて、更に推進されたことは、記憶に新しいことと思います。2000年にはユダヤ人とユダヤ教への謝罪と和解のためにヨハネ・パウロ二世はエルサレムを訪問し、3大宗教の聖地でミサを執り行い、ベツレヘムではアラファト議長も参列してイースターのミサを執り行ったこと、十字軍遠征などの暴力と不寛容、異端排斥など、カトリック教会が犯してきた数々の過ちを世界に向かって謝罪し、懺悔の祈りを捧げたこと、また、日本へは、広島、長崎に原子爆弾が投下された悲劇を2度と繰り返さないよう、平和宣言を発し、原爆被災者を問案するなど、記憶に新しいところです。

 本日の聖書に即して見れば、「宗団の外にいる人でも、わたしに逆らわない者はわたしの味方である」とイエスが言われたことは、宣教の開かれた姿勢を教え、現しています。教会の外にいる人々について、こうした人々をも、なお、宣教の対象に加え、カトリック教会では、仏教徒でもイスラム教徒でも、こうした人々を「これから信徒になり得る人々」と看做し、「匿名のキリスト者」とまで言って、仲間に加えているのは、何と開かれた姿勢ではないでしょうか。既に教会に連なっている信徒は後になり、すべての人に仕える者になる、と言うイエスの御言葉も、世界に向かって開かれた教会であるべきことを私たちに示しておられます。

 このような開かれた姿勢は、排他的であった今までの教会に対する反省から来ていることに間違いはありませんが、私たちが聖書を通して聞こえてくるイエスの開かれた宣教姿勢に立ち返って、教会を内側から変革しようと試みているからです。それは、他宗教、他宗派の人たちを、教会に呼び込もうとする意図が無いわけではありませんが、それ以上に、宗教の究極的目標が、全ての人々と平和に過ごすことであり、助け合いの精神と働きは、全てに共通しているからであります。こうしたカトリック教会の変貌に合わせるかのように、プロテスタントの神学者にも60年代以降に変化が見受けられます。私のユニオン神学校でご指導頂いたポール・テイリッヒ(1886〜1965)もその一人でした。彼は、どの宗教にも共通する救いの内容に注目して、取り分け、仏教とキリスト教との対話に心を砕き、そのためにも日本を含めてアジアに何回も足を運んでおられました。第二ヴァテイカン公会議より更に一歩先を行く、宗教の統合を目指して活動されました。赤岩 栄先生も同じ方向でお働きになり、教会の機関誌『指』には他宗教の指導者(市川白弦禅僧・佐伯真光僧)と意見交換をされ、そのような運動の中で、八木誠一さんも執筆に加わるようになったばかりでなく、講壇を担当されたり、上原教会の交わりにも入って下さいました。八木さんを介して、田川建三さんも教会に加わり、外に開かれたイエス共同体が広がりを見せ始めたところで、赤岩先生が亡くなられたのは、大変残念なことでした。もし、ずっとご健在であられたら、日本の教会改革は更に進展していったに違いないと思います。テイリッヒの後を受け継ぐような形で、イギリスからジョン・ヒックス(1922〜 )が排出しています。彼によってこうした一連の宗教界における統合への運動は三つに整理され、発展的に纏められています。

 第一段階は宗教排他性(Exclusiveness of religions)の時代です。カトリック教会は第二ヴァテイカン公会議を経て、今では、第一段階から第二段階に移っています。しかし、今なお排他的宗教が存続していることは、誠に残念なことです(どの宗教にも残存している宗教原理主義)。ヒックスによる統合への第二段階は宗教包括主義(Inclusiveness of religion)と名付けられています。カトリック教会はここに留まっています。それは、他宗教による救いを認めながら、組織としてはカトリック教会を保持して行こうとする姿勢です。当然のことながら、プロテスタントも仏教もイスラム教も、それぞれの組織と教義、また、宗教儀礼は他宗教を尊重しつつも保持して行くのがこの第二段階です。

 ヒックスは更に踏み込んで、宗教多元論(Pluralism of religion)を提起し、終局の方向を示唆しています。カトリック教会のような包括主義では、自分の宗教に信仰の基いを据えながら、他宗教との協調を図る行き方ではあるが、未だに独善性を克服しきれていない。どの宗教宗派も究極的には一つになるべきものである。富士山に喩えれば、登山口と登山道は多元的であるが(現況の宗派、宗団は幾つもあるが)、頂上は一つであるように、諸宗教諸宗派も頂上を目指す、入り口と求道の道として多元であっても、やがては一つになるべきものである、とする見解です。しかし、これは理想論、もしくは机上のプランであり、現在は宗教包括論の止めるべきであると、私は考えます(赤岩榮先生の『キリスト教脱出記』への反省)。むしろ、せっかく、第二ヴァテイカン公会議のあと、開かれた教会を目指し、宗教、宗派が協力して「救いの道」にむかって歩み始めたにも拘らず、信条や宗教儀礼を物差しにして、再度分裂を深める方向に進むことを止めなければなりません。宗門の外にいる人々に向かって、水一杯でも差し出す方向に、私たちも踏み出すことが、イエスに倣う道である筈です。しかし、弟子達と同じように、今の時代にも、排他的で独善的な宗教とその指導者は多く存在しています(日本基督教団内にも)。主イエスを再び十字架に引き渡してはなりません。

 主に倣って私たちが望むべきことは只一つ、それは、御言葉をもって真理を証しすること、また、仕えられるためではなく、仕えるために世に来られたキリストご自身の仕事を、今の時代にあって受け継いで行くことにあるのです。

 

 本日、共に読みました旧約聖書、イザヤ書49章のうち、14節と15節はマザー・テレサが1979年12月10日・ノルウェーのオスロでノーベル平和賞を受けた時、その式典の中でマザーが演説に引用した箇所であります:

「シオンは言う。『主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、』と。女が自分の乳飲み子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」

 マザー・テレサの受賞演説は、いつもと変わらず簡単なものでした。祈りの言葉が織り込まれ(アッシジのフランチェスコによる「平和を求める祈り」)、続いて、この聖句を読み上げて「神の愛の宣教者団」では、主の呼びかけに応えて来たばかりである事を強調され、終始、謙虚な姿勢をち、居並ぶ人々が正装し、着飾って出席しているなかで、彼女一人が、何時もの労働着である木綿の白いサリーと青いストライプが入った頭巾に身を包んで、何時もと変わらない姿で壇上に立たれたのです。69歳にしては背中が丸くなり、日夜、働いて来られた姿に、世界中の人々は深い感動を覚えたことも忘れられません。

 マザーが開いた「死を待つ人の家」は、使われなくなったヒンズー教の寺院を借りて、1952年から現在でも使われています。路上で行き倒れの人をこの家で保護する時、マザーが最初に聞くのは、「あなたの宗教は何ですか」という問いかけです。それは、亡くなった時、どのような方法でお送りするかを決めておく為でした。ヒンズー教徒、仏教徒、そして、キリスト教徒、それぞれに相応しい送り方をマザーは用意していたのです。「神の愛の宣教者団」はカトリックの修道士が集まるところでしたが、このように開かれた姿勢をマザーは貫いておられたのです。ですから、1997年9月5日にマザーが87歳で天に召されたとき、カトリックの典礼に従いながら、ヒンズー教も仏教も取り入れた国葬をもって、インドの民衆に慕われながら、世を去って行かれたのです。彼女のアイデンテイテイはカトリックの修道女で、毎朝、4時にはミサを捧げ、聖餐に与ってから、「死を待つ人の家」や、カルカッタ(コルカタ)のスラム街、時にはハンセン病棟に出かけ、そこで、、倒れている人であるキリストから愛を受ける働きを、開かれた聖餐として受ける信仰の生活を生涯貫いておられます。閉じられた聖餐は、教会の外に向かって開かれていなければなりません。「神の愛の宣教者団」は、このようにイエスの教えに倣って、開かれたイエス共同体を今に伝えているのです。

 終わりに、マザー・テレサが座右の聖句として心に刻み付けていたイエスの言葉を私たちも共に与りたいと思います:

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである。あなたがたはわたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢獄にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ福音書25:35〜40

 キリストは今も路傍に倒れている人々の中にいて、聖体のパンを私たちに授けようとしておられます。

 


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