2012.04.22

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「ガン闘病と復活信仰」

陶山 義雄

イザヤ書53,1-12 ; マルコによる福音書8,27-38

 

 先ほどご一緒に歌いました讃美歌(571番)は、受難週から復活節にわたって歌うに相応しい讃美歌です。これは宗教改革者ルターより一世代あとに、フラウエンシュタットでペストが大流行した中で、牧師のヴァレリウス・ヘルベルガーと、音楽主任のメルキオール・テシュナーによって造られた讃美歌です。この二人は葬儀で忙殺されていたのですが、何とかして教会員と亡くなったご遺族を慰め、故人を天国に送るのに相応しいものを考えて、この讃美歌が造られました。今日でも、最も美しい葬儀の歌としても歌われています。

「仮初めの世に私は別れを告げよう。罪深い悪しき生活を私は好みません。
天国でこそ、相応しく暮らそう 彼方を私は憧れています。
 地上であなたに仕えて来た者を、あなたは高めて受け入れて下さる。」
21−571−1「偽りの世に 別れを告げん。 罪と不正をわれは憎む。
       仕えし者に 報いて主は 住まわせ給う 永遠の国に」

この讃美歌では、この世の命に対して、これから迎えられる天国における永遠の命が対比されて歌われています。

   −2「神の御子なる 主イエスよ教え給え 如何に苦しみ忍ぶべきか
      わが弱き心を 支え強め 平和のうちに 約束の地へと去らせ給え。」

十字架は死を乗り越えて、天上へ導く道しるべとして歌われます。

   −3「心の内に 照り映ゆるは、 イエスの十字架のみ光りのみ
       御名をたたえて われ安けく、 死の大波を越え行かん。」

 本日のテキストに「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか(人, 全世界を儲くとも、己が命を失わば 何の益あらん)」(8:36)とありますが、ここには地上の命と天上の命(永遠の命)とが対比して語られています。この二つの命が私たちに迫ってくるのは、私たちが死を迎える時ではないでしょうか。本日の説教題は、教会で使われる用語から多少離れて居るかも知れません:「ガン闘病と復活信仰」 ガン治療と闘病は医師と患者の仕事であるのに対して、復活信仰は教会の扱う問題であるとすれば、この二つが並べられることに違和感を覚える方も居られるかも知れません。でも、ガンの告知を受け、あと数ヶ月が命の限界であるような宣告を受けた人にとっては、決して分けて考えることのできない問題になるのです。「この世の命と永遠の命」と言う題にしても良かったかも知れません。そして、先の聖書の言葉をこう、補足すれば更に今の問題と繋がっていることがお分かりになる筈です:

 「人は、たとえ地上の全てを手に入れることが出来たとしても、永遠の命を見失っていたら、何の得があるだろう。どんな代価を支払ったとしても、地上の富は全く役に立たなくなるのです。」

 

 統計によると、日本では3人に1人がガンで亡くなると言うことです。ひと頃、ガン告知率が先進国の中でも、日本では非常に低くあった時代がありました。この事については、今日の週報下段の「牧師室から」をご覧下さい。「終活」、「墓友」、「エンデイング・ノート」と並んで、ターミナル・ケアとガン告知率が日本では相変わらず低い理由に触れています。無常や諦念(諦め)を美徳とする日本人の宗教観に対して、死を積極的に受け止め、これを乗り越える宗教観、信仰、あえて申せば、キリスト教的死生観がないことも、ガン告知率が日本では低い理由に挙げることが出来ると思います。しかし、最近では医療の進歩によって、ガンは不治の病いではなくなりつつあるところから、患者の家族に対してばかりでなく、患者自身に向かっても医師団はガンの告知をして、治療に向かう方が、治り易いこともあって、告知率は改善の方向に進んでいると聞いています。

 

 私事になりますが、1995年に腎臓ガンが発覚したとき、最初、主治医は、患者である私に向かって、来週は身内と一緒に来る様に申し渡されました。私は事情を察して、どんな結果でも受け入れる準備は出来ていると思うので、今、直ぐ、直接、私に伝えて欲しいと医師の面前で申しました。腎臓ガンの可能性が極めて高いと言われ、早速その対策を医師から伺いました。他方では私も、死を覚悟し、遺書を書いたり、上原教会の皆さんにも、私の命について、先が長くは無いことを伝え、丁度、その頃、御国伝道所との合併話が善野先生から打診されておりましたので、村上先生に教会のご指導をお願いして、私は終わりへの準備に入りました。幸い、この病を乗り越えることができたのでありますが、2007年には胃ガンが見つかりました。この時は医療の事情も変わっていたように思います。

 患者の目の前で、内視鏡の画面を見せながら、胃ガンの疑いを聞くことになりました。がん告知が高まるに従って、患者と家族へのサポート体制と支援、また、死を乗り越える精神性を伝えることが、大切になって来ます。それは、キリスト者、牧師、教会の大きな役割であるように思います。

 

 聖書では、人生を、誕生から死までの見える世界で捉えるばかりでなく、誕生以前についても、また、死後についても視野に入れて理解することを私たちに促しています。私たちは何処から来て、どこへゆくのであるか、こう言う問いは旧約聖書の創世記第1章から、新約聖書・ヨハネの黙示録第22章まで、つまり、旧新約聖書を貫いて、聖書が私たちに問いかけている問題でありますし、また、はっきり答えている内容です。私たちは、神のもとから出て、神に帰って行くのです。パウロがローマの信徒への手紙11章36節で述べている通り、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

 

 ガン告知を受け、医師から、今の医療技術では残り僅かの寿命であることを告げられてから、人は、初めて自分の命に限りのあることを自分の問題として突きつけられるのです。手術によって悪性腫瘍を切除できても、現在の医療では3年、ないし、長くて5年の延命を告げられるのが現況です。私が腎臓ガンの手術を受けた時もそうでした。しかしそれから15年生き延びることができているのですが、今は胃ガンの手術を受け、1年後には5分の1になった胃袋の、今度は外壁にコブが2つ出来ていると言われて、現在も経過観察中の身であれば、3年ないし5年の延命は、そろそろ保証期限を迎えていることを覚悟しなければならないかも知れません。たとい、生き延びても、私たちの命には終わりが来るのです。ガン患者は余命のことばかりでなく、死後についても、身近な問題として関心をもたざるをえない状況に置かれるのです。

 

 讃美歌の1節に「主イエスはすすみて十字架につき、苦しみたまえど、われら知らず」(II−39番−1節=21−324番-1節)とありますが、自ら進んで死を覚悟し、十字架に向かわれたイエス・キリストを仰ぎ見るとき、それはガン患者に大きな希望と力を与えてくれるものであることを、私は体験から学ぶことが出来ました。

 「主イエスはすすみて十字架につき」、この歌詞に相応しいイエスの言動は福音書に記されている、受難予告物語です。それは、ガリラヤからエルサレムを目指して旅立つ準備の段階で弟子達に語られました。全部で3回語られていますが、本日取り上げたテキストはその内の第1回目の受難予告にあたります。(ちなみに、)第2回目の受難予告はマルコ福音書で言えば9章30-32節で、新共同訳では「再び自分の死と復活を予告する」という表題が付けられています(マタイ17章22-23節//ルカ9:43-45)。そして第3回目の受難予告は10章32-34節マタイ20章17-19節//ルカ18章31-34節)で「イエス、三度自分の死と復活を予告する」とタイトルが付けられています。マルコで言えば8章に続いて9章、また10章で、連続してイエスの受難予告が載っているのです。これだけ繰り返されると、イエスご自身による受難予告がどんなに強調されているかが良く分かります。今日は9章10章にまで広げて内容を見ることは出来ませんが、これらを、重ねて残した福音書記者の意図、すなわち、受難予告がどれだけ重要であるのかは、どなたも推察出来るのではないでしょうか。強調の意図は、そして、回を重ねると言うことは、丁度階段を上って行くように一段づつ高く、また、重みを増して重要な内容を福音書記者は用意しているに違いありません。ですから、本日の第一回に続く受難予告の第二,第三予告は次回以降で取り上げたいと思います。

 さて、第1回受難予告は凄いドラマの中で展開されています。イエスと弟子達一行はツロ、シドン、デカポリスの町や村を旅しながら、最後にヘルモン山の麓、フィリポ・カイザリアに来た時のことでした。ヘルモン山はパレスチナでは一番高い山で、標高が2830メートルあり、山頂に立てば、聖書の世界が一望できる絶景のスポットです。山にふり注いだ雨や雪が地下に沁み込んだあと、このフィリポ・カイザリアでその伏流水が泉となって溢れ出る、景勝の地にイエス一行も、しばしに休息をお取りになった模様です。イエスの胸中には、この川に沿ってガリラヤに戻ったあと、エルサレムに旅立つ覚悟を決めておられた様子が伺えます。そこでイエスは2つの質問を弟子達に投げかけます:「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」それに答えて弟子たちの、「預言者ヨハネだ」、「エリヤだ」、とか、「預言者の一人だ」、と言う話を聞きながら、真髄に迫る質問を投げかけています:「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロは答えます。「あなたは、メシアです」 メシアとは旧約聖書では「油注がれた者」の意味で、ギリシャ語では「クリストス」、私たちがキリストと言って親しんでいる称号をもってペトロは答えます。その答えを聞いてイエスは「ご自分のことを誰にも話さないように」と弟子たちを戒められた、と記されています。通常これは「メシアの秘密」と呼ばれている内容で、今までは、気の狂った若者が、悪霊の力を借りて「あなたは神の聖者です」(マルコ1:24f3:11f)と言わせた時に、「黙れ」、と言って悪霊を追い出し、狂人を正気にさせたとき、このことを誰にも言わないようにイエスが諭していたのですが、今度は弟子達に同じように緘口令を敷いておられます。福音書記者の意図としては、緘口令を敷けば敷くほど、イエスの名声が高まるという、効果を表す書き方に倣っていると思われますが、イエスのメシア性が本当に分かるのは十字架と復活の出来事を通してであり、今はお預けである、と言う意味が込められています。

 果たせるかな、ペトロはメシアとはどのような方であるのか、全く誤った理解をここで露呈してます。それが、第1回目の受難予告と繋がっているのです。

31節):「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。と弟子達に教え始められた」(32節)「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」

 ここで、「人の子」と言われているのはメシアと同じ意味で用いられていて、しかも、イエスはご自分を指して「人の子」と言っておられます。「メシア」、「キリスト」と並んで「人の子」も救世主をあらわす称号として、その当時、使われていた言葉です。ペトロや弟子達の告白物語では「メシア」と言う言葉がが使われていたますが、違いはありません。第1回受難予告が他の、第2回、第3回と異なる所は、受難、死、と復活のできごとを「そうすることになっている」と言われている所です。これは以前に言われてきたこと、メシアとはそのような存在であるという世間で期待されていた内容を思い起こさせる言葉です。ギリシャ語のデーイ(δει)、「必ず〜することになっている」と言う意味でありまして、メシア的必然を表わす内容をもっています。つまり、旧約の預言者以来、期待されていたメシアのイメージに擬えて、イエスご自身が十字架の受難と復活を予告しておられるのです。しかし、第2回と第3回の受難予告ではこの部分が変わって行くのですが,そのことについては、折を改めてお話したいと思います。さて、この第一回予告に現われた「メシアが受難と復活をすることになっている」「そうでなければならない」と言う期待は何処から来ているのでしょうか。最も近い言葉は、旧約聖書イザヤ書49章から55章に渡って語られている「主の僕」、とりわけ、本日、お読みした53章に記された「苦難の僕」に擬えることができると考えられています。

53:3f):「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。・・・彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。・・・捕らえられ、裁きを受けて彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らせたであろうか、わたしの民は背きの故に神の手にかかり、命あるものの地から断たれたことを。・・・多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」

 主イエスはご自身が果たすべき使命と役割を、一方では旧約聖書の預言者イザヤが待望していたメシアの姿を見据え、他方では、この時代の社会的状況を見据えながら、待望されていたメシアに倣って十字架の道を歩もうとしておられます。ペトロを始め、弟子達も只ならないその覚悟と決意を読み取って、「あなたはメシアです」と答えています。ところが、メシアとしてイエスに期待していた内容が、弟子達にあっては主イエスと大きく違っていたのです。その違いこそ、マルコ記者が、イエスの受難予告を3回にわたって掲げ、どこが、イエスと弟子達の間で違っていたのかを伝えなければならなかった理由であります。この第一回受難予告では、先ず、ペトロの無理解が露呈されています。「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」(8:32)とあります。いさめる、よりは「非難する」、「責める」、「咎める」などの方が分かり易いかもしれません。受難、十字架の死などはペトロにとって、メシアのイメージとは全く違っていたのです。まして、復活などについても分かる筈がなかった、と思われます。

 受難、十字架、死と復活を、「そうすることになっている」、と言う言葉をもって、以前から、期待されていたメシアのイメージを思い起こさせようとしています。言い換えれば、受難と十字架、死と復活はイエスによって突然現われた事ではなく、長い間、待ち望まれ、期待されていた所を思い起こさせています。しかしながら、偏狭な民族主義の中で、メシアへの期待が時代と共に狭く理解され、ユダヤ民族だけに限定された救世主へと変えられて行ったのです。この狭いイメージを突き破る、新しい役割をイエスは、これより十字架を覚悟して進み行こうとしておられます。これが第1回受難予告の大きな意味であります。ペトロや弟子達の誰もが誤解するのは、ある意味で、無理も無いことでした。受難と死のイメージはなく、イエスを栄光の姿をもってメシアとして迎えようとする弟子達はユダヤ人一般と変わらない無理解な存在です。その無理解が、これから、イエスの臨もうと決意しておられる受難と十字架の道に立ちはだかっています。これが、受難予告を巡る、イエスと弟子達の争点になっているのです。

 本日の説教題に、「ガン治療と復活信仰」としましたが、私の思いでは、受難予告に見受けられる、イエスと弟子達との見解のズレが、ガン治療を受ける患者と医師との間にも良くあるように思えた所にあるからです。患者も医師も治癒を目指して共に苦闘することに違いはありませんが、所詮、治癒には限界のあることを誰よりも知っているのは、医師の側であります。それはさながら、旧約時代から期待されていたメシアの役割をわきまえているイエスの存在が、淡い期待を抱き続けている患者を前にした医師に擬えることが出来るように思います。今までのデーターを元にして、個々の新しい患者の病いに挑んで行く医師に対して、ガン患者は自分の病状を的確には知らないまま、医師に過分の期待を寄せています。十字架の道が避けられないことを自覚しておられる主イエスは、ペトロのような無理解を正さなければならなかった様に、患者に破局が迫っていることを弁えている医師は、ガン患者が医師に寄せる淡い期待に対して、いつかは、終わりの近いことを伝えなければなりません。しかし、死を自覚し、これを受け入れた患者になると、状況は変わります。治癒は最早、究極の目標ではなくなります。一切を、医師に委ね、治ろうが、治るまいが、自分の病状と命を、将来の患者のための実験材料に提供したいという姿に変わりながら、ガン患者は、医師と同じ苦闘を分かち合うように変わります。復活とは比喩として、そう言う事ではないか、とガン患者である私は、のです。イエスと弟子達との間にあるメシアを巡る理解の溝は、イエスが復活を遂げられた後になって取り除かれるのですが、この溝をイエスの生前において、気付くことが出来るようにするにはどうしたら良いのでしょうか。それは、弟子達やイエスに従う人々が、自己本位な期待や甘い幻想に固執することを止め、イエスと共に、立ち向かうべき共通の課題に目を向けて、十字架を担って行くことでなければなりません。

 一人のガン患者が癒された時、そこには、何千という患者が過去において、癒されないで、無念の涙を流しながら死を迎えていたに違いありません。それは、さながら、第二イザヤが「苦難の僕」を描きながら、メシアの到来を待ち望みつつ、世を去って行ったことに似ているように思えます。ですから、イエスは「デーイ」(・・・することになっている)として、キリスト、救世主の到来が、長く待ち望まれていたことを想起させて、今、ご自分が、その待望に応えようとして、「・・・することになっている」と言っておられるのです。私が、腎臓ガンの手術を受ける時、主治医の先生方が仰った事は、腎臓ガンの手術は非常に難しい手術であって、これが出来るようになったのは最近のことで、しかも、この大学で教鞭をとられた、N先生が世界で最初の業績であったことを伺い、私は、亡くなった大勢の腎臓ガン患者が枕木のように横たわっている線路の上を、今、一歩、前へ進もうとしているのであることを自覚し、身の引き締まる思いがしたことを忘れることが出来ません。かって、「デーイ」であったことが、イエスによって出来事の事実となるように、ガン患者にも、期待されていた「デーイ」が、事実となって健康を取り戻せるに至る日が来る。それは、私が治ればそれで良い、と言うような独りよがりなことではなく、たとい治らなくても、これから治せるようになるために、医師と一緒になって壁を乗り越えるために体を提供できるだけでも満ち足りた思いをもって世を去っていく。そういうものでありたいとの願いは、主の復活のあと、イエスの十字架を担い、主に従い行く弟子達の新しい姿と重なるように思います。主の復活とはそう言うことなのです。

 弟子達のイエスへの信仰告白は「あなたはメシアです」と言ったあと、そのメシアについて全く誤った認識であることが露呈されています。イエスが覚悟しておられたメシアとは、受難、十字架、復活のメシアでした。しかし、弟子達の抱いたメシアは、この世の頂点に立つ、力強い王、もしくは、権力者のイメージであったのです。このことは、この後、第二、第三の受難予告物語の中で、滑稽なほど、すれ違った問答をイエスに浴びせる弟子達を通して明らかにされるのです。この第1回受難予告では、「サタンよ、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)と烈しくペトロはたしなめられています。そして、十字架を担うとはどう言うことか、が述べられています。

「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)。

 大変、厳しく、また、従うことが困難な難しい要求であるように聞こえます。しかし、その後の言葉を続けて読みますと、決して、そのようなものではなく、むしろ、私たちに必要で、身近な問題が薦めれれていることに気付きます。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、すなわち、福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:36

 ガン患者は、このままでは自分の命に終わりの来ることを知っています。彼が求めるのは、たとい、今、僅かに助けられたとしても、また、やがては、滅びるような命については、もう、希望を寄せることが出来ないほど、この世については限界を知らされています。地獄を見るとはそう言う心境です。私たちに必要な救いは、当面の病が癒されるばかりでなく、今の命が死後に於いても永遠に続く世界を求めているのです。」もはや、死で枠付けされた命ではなく、死を乗り越えて生きる命が救いになるのです。イエスの十字架はこれに答えています。イエスの目指すメシアの働きとは、正にこの「永遠の命」について開示しているのです。

 ガン治療に欠かせないのは、このような未来に開かれた救いであります。そしてこうした復活信仰こそ、教会が使命としていた宣教内容であり、今や、三人ないし二人に一人がガンで亡くなるこの状況にあって、教会は救いのメッセージを発信しなければなりません。マルコ記者の時代には殉教死をも覚悟しなければならない、命がけの宣教を負っていたことが、終わりの言葉でわかります。

「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。ハッキリ言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力に溢れて現われるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(8:389:1

 現在の私たちから見ると、このような切迫した緊張感を福音宣教について持ち合わせてはいないかも知れません。しかし、ガン患者の目からすれば、差し迫る命の終わりを目の前にして、一刻も早く、救いがもたらされることを待ち望んでいるのです。ホスピスの現場で、医療や看護、また、ボランテイアに当たる方々と一緒に、地上の命に限りがあろうとも、主が備えて下さった、永遠の命に生きる約束を信じて、看取る者も、旅立つ者も、最後の一瞬一瞬を生きて行くことができますよう、祈りつつ、進んで行きたく思います。

「十字架の主イエスよ、よみがえりの 力と喜び 与えたまえ」
「主イエスの愛に結ばれつつ、われらは憩わん、主の国にて」

祈祷:
主イエス・キリストの父なる神様
あなたが、お遣わしくださった主イエスの御言葉とお働きが、どれほど有難く、地上での私たちの命を、天上でのあなたが用意し居られる住家とを結びつける救いの力であるかを教えられ、感謝いたします。どうか、主の十字架を高く掲げ、救いの働きを地にある限り、担い、死の陰の谷を歩むとも、禍いを乗り越えて、人々に救いを証しして行くものとならせて下さい。


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