2011.10.30

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「主よ、あなたを呼び求めます」

村椿 嘉信

詩編130,1-4; ヨハネによる福音書16,31-33

旧約聖書:詩編130編,1-4

01 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
02 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
03 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
04 しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。

新約聖書:ヨハネによる福音書16,31-33

31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

深き淵/悩み

 今日の説教のタイトルは、「主よ、あなたを呼び求めます」としました。この祈りの言葉は、詩編130編の1節の言葉からとりました。その部分は、「深い淵から」という言葉で始まります。新共同訳聖書では「深い淵の底から」と訳されています。ヘブライ語のもともとの聖書では「深いところから」という言葉がつかわれています。

 ルターは、今日の週報を見ていただくとわかりますが、「深いNot から」と訳しました。Not という言葉は、その週報にもあるように「悩み」と訳すこともできます。Not というドイツ語の言葉は、「困窮」、「苦境」などとも訳せます。あるいはここにあるように「悩み」、「苦悩」とも訳せます。さらには「必要」とも訳せますが、「必要」と訳すと、英語の「need」と同じ意味になります。

 ルターがこの部分を「苦悩(Not)」 と訳したのは、前後関係を考えると、名訳だと思いますが、もともとの意味は、場所を表すことばでした。

 このあたりは、10月の第2週の祈り会で、詩編130編を取りあげた際に、そこで確認したことでもあります。

 「深い淵の底」と訳されている言葉は、詩編69節の2節では、「深い底」と訳されています。その前後を読むと、「わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流(つまり激しい、荒れ狂う水の流れ)がわたしを押し流します」(3節)とあります。底なしの沼、足がかりのない沼にはまり込み、もがけばもがくほど深みにはまってしまう‥‥という状況が描かれています。その先の部分を読みますと、たとえば15節に、「泥沼にはまり込んだままにならないように、わたしを助けだしてください」、「大水の深い底から助け出してください」と続きます。詩編69編の詩人は、洪水が起こったために、そこから救出を求めているわけではありません。大水の深い底にはまり込んだというのは「たとえ」として言われているのであって、実際には、自然災害からの救出を求めているのではありません。

 これは詩編130編でも同じです。ルターは、苦境や苦悩を表すNotという言葉を用いてこの部分を訳したのです。日本語で「悩み」と訳すと、心の中の迷いだけを指すような感じを受けるかもしれませんが、詩人は、ここで、人生の中で私たちもおちいることのある逆境、苦悩の日々を描こうとしています。

 それは底なしの深みであり、水面から遠く離れた場所、あるいは光の当たらない場所、光からもっとも遠く離れた場所です。そしてそれは、詩人にとっては、神さまからもっとも遠い場所でもあります。

 その深みから、詩人は、神さまに向かって、「あなた」と呼びかけています。「あなたを呼び求めます」と叫んでいます。この部分は、原文では、「深い淵の底から、あなたを呼び求めます、主よ」という順序になっています。神さまを常に讃美しようとする信仰的な表現を用いようとするなら、「主よ」、「あなたを呼び求めます」、「深い淵の底から」という順序になるのかもしれません。しかしこの詩人は、まさに神さまから遠く離れた苦しみ、思い悩みの中で、そのような模範的な「信仰の言葉」を表現することができません。まず、自分の置かれている苦しみの現実の中から、「深い淵の底から」と語りはじめ、そして「あなたを呼び求めます」と身をもだえながら叫び、そして最後に「主よ」と呼びかけています。

 この時、この詩人が具体的にどんな苦悩のどん底に置かれていたのかは、わかりません。しかし、私たちは、人間の苦しみというものがどういうものなのかを、主イエス・キリストの地上での苦しみを通して知ることができます。

 

主イエスの苦しみ

 主イエスは、私たち人間と同じようにこの地上を生きることによって、私たちがこの地上で受けなければならない苦しみを、苦悩を、味わうことになりました。

 主イエスは、誕生してすぐにエジプトへ避難しなければならなかったと聖書に書かれています。歴史的には裏付けることができませんが、幼少時代を外国で過ごしたということが事実であったとするなら、イエスはまさに外国人労働者の子どもとして、エジプトで、きわめて不安定な、そして貧困の中で幼少時代を過ごしたことになります。そのようなことから始まって、イエスは、人間であれば誰もが味わうかもしれない苦悩や悲哀を経験したと考えられます。食べるものがなければ空腹にとらわれる、旅をすれば体力が消耗する、鞭や棒でたたかれれば、痛みを感じる、すべてイエスが経験したことでした。

 でも主イエスの苦しみや、苦悩はそれだけにとどまるものではありませんでした。神さまの子として、神さまのみこころに従って生きようとするところからくる苦しみや悩みがありました。

 それは人を愛そうとすれば、愛そうとするほど、逆に、その相手から嫌われ、恨まれ、見捨てられるという苦悩でした。

 イエスは、神さまからいのちを与えられた人間が、平気で人のいのちを奪ったり、傷つけているのをこの地上で見ることになりました。自分が相手を傷つければ、その仕返しとして、相手が自分を傷つけるようになり、その連鎖がとまらないどころか、憎しみが憎しみを生み出し、拡大していくという、この世界の現実を見ました。

 神さまから与えられた知恵は、お互いがともに生きるために用いられるべきであるのに、その知恵を悪用して、それぞれが自分の利益ばかりを追い求め、その結果、競争が激しくなり、この世界が誰も本来の神さまに創られた人間として生きることのできない世界になっている現実を見ました。

 イエスは、この世のあらゆる人たちを愛するゆえに、その神さまにそむく人間の歩みを止めようとしましたが、この世は、そのような神さまにそむくみずからの歩みを止めようとはせず、むしろイエスの歩みを止めようとしました。

 イエスが人々を愛そうとして、人々のところに近づけば近づくほど、この世の人々はイエスから離れようとし、イエスをこの世から追いだそうとし、イエスに危害を加え、イエスを死に至らしめようとしました。

 イエスはこの世の人々を愛したゆえに、人々から見捨てられました。

 イエスは平和を望んだゆえに、人々から暴力を加えられました。

 それは、私たち人間が、「自分が生きているのは、自分の力によるのだ」という思いを捨てきることができないからです。さらに「自分に与えられている知恵は、自分の利益のために用いて当然である」という思いを捨てきることができないからです。

 「いのち」と「知恵」とは、神さまから与えられている人類の共有財産です。お互いの「いのち」をお互いに守り、お互いの「知恵」をお互いのために用いるためには「愛」がなければならないという聖書の教えをきこうとせず、人類は、さらに底なしの深みにはまり込むばかりです。

 主イエスは、ヨハネによる福音書の16章33節に書かれているように、「あなたがたはこの世では苦難がある」と語りました。

 この世で私たちが体験する苦難とは、自分の望みが適わないときの苦しみとか、失敗したときのくやしさとか、自然災害によって大切なものを失ったときの悲しみとか、怪我や病による身体的苦しみとか、ありとあらゆる苦難を含めてとらえることができますが、わすれてはならないのは、私たちがイエスに従って生き、人を愛そうとするときに、私たちが引き受けなければならない苦しみです。

 イエスは、同じヨハネによる福音書の15章の18、19節で、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない」と語っています。

 ここで語られていることは、世がイエスを憎んだということです。そして私たちがこの世に属す者ではなく神の国に属す者として生きるならば、私たちも世に憎まれるだろうということです。でも、だからと言って恐れる必要はありません。主イエスが私たちとともにいてくださるからです。

 

呼び求めること、ともにいると確信すること

 詩編の詩人は、まさに苦悩の中から、神さまを呼び求めました。主なる神が力を奮われることに望みを置きました。神さまを呼び求めるときに、応じてくださる神さまがおられることが、私たちの希望の根拠です、待ち望むときに、その願いに応じてくださる方がおられるということが希望の根拠です。それゆえ詩編130編は、希望に満ちた詩となっています。

 その希望に私たちも生きることができます。でも新約聖書は、それよりももっと奥の深いことを私たちに明らかにしています。それはまだ希望がかなえられなくても、まだ深い淵の底にとどまっているとしても、まさにその場所に、イエス・キリストが来てくださるということです。

 宗教改革者ルターは、詩編の中でも、詩編32編54編130編143編の4つを特にすぐれたものとみなしたそうです。その中でもこの130編を愛唱したと言われていますが、それは深い深淵に、絶望の極みに私たちがとどまっていても、すでに世に打ち勝った主イエスが、私たちとともにいてくださるという新約聖書の内容がここに記されているからです。ルターが強調しているように、イエスが私たちの罪を赦し、私たちを罪から解放させるからこそ、イエスとともに、私たちは希望をもって歩むことができるのです。

 週報の「今日の説教から」という部分に、私はいつもは要約を書くのですが、今日は、私が所有している一番好きな十字架の写真を載せました。受難週の聖書日課をつくったときに、すでにこの写真を載せたので、またインターネットでも紹介しているので、見覚えのある方がおられると思います。

 この世には苦難があります。この世には十字架の苦しみがあります。でも主イエスはすでにこの世で勝利されています。この写真は、十字架を背景に、苦難を背景に、復活されたイエスが私たちにパンを与え、私たちに交わりを得させてくださる姿を写しだしたものです。ドイツ語で、こう書かれています。「私はあなたがたのところにいる」。この部分は、「あなたがたとともにいる」と訳すこともできます。

 イエスがともにいてくださる、だから私たちは、今なお解決していないさまざまな問題の解決を求め、私たちの苦難がすべて解消されることを求めて、希望をもって、「主よ、あなたを呼び求めます」と祈ることができるのです。神さまはその祈りに答えてくださいます。


祈ります:

「主なる神さま、
あなたを呼び求めます。
私たちを困窮から、苦悩から救い出してください。
あなたは私たちとともにいてくださいます。
復活し、この世で勝利をおさめた主イエスは、
この世で苦難を負う私たちとともにいてくださいます。
主イエスによって勇気を与えられ、
あなたのもとで希望をもって、
この世を愛に満ちた世界へと変えていくことができますように。
あなたから与えられている「いのち」を自分のものだと考える人たち、
「知恵」は自分の利益のために用いるべきだと考えている人たちの、
考え方、生き方があなたの愛によって変えられますように。
そして私たちがともに平和な世界、共存することが可能な世界を
つくりだしていくことができますように。
この祈りを主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン」
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