2011.5.15

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「他者への愛」

村椿 嘉信

詩編17,6-8; マルコによる福音書12,28-34

テキスト(旧約):詩編17,6-8

あなたを呼び求めます
神よ、わたしに答えてください。
わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を
立ち向かう者から
右の御手をもって救ってください。
瞳のようにわたしを守り
あなたの翼の陰に隠してください。

テキスト(新約):マルコによる福音書12,28-34

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

<ふたつのことがら>がひとつである −その1

律法学者の一人がイエスのもとに歩み出、イエスに尋ねました。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。
この問いに対して、イエスは答えました。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(12章28−31節)。

 このやりとりを聞いて問いと答えがちぐはぐであることに気づかされます。律法学者の一人が「どれが第一でしょうか」と質問しているのに、イエスは「第一はこれであり、第2はこれである」と二つの答えを出しています。国会などで質問をする議員が「質問に的確に答えてください。余計なことは言わないでください」と語っているのをテレビの中継で見る機会がありますが、それと同じように、イエスはどれが第一なのかを質問されたのに二のことを語りました。それには理由がありました。イエスはこの2つを分けて考えることはできなかったのです。二つそろって一つだからです。

 第一の「神を愛する」とは、私たちにいのちを与えてくださり、私たちの心や身体を生かしてくださる神さまを信頼し、神さまの愛に応えて歩むということです。ここで私たちの神さまに対する信仰が問われているといえます。

 第二の「隣人を愛する」という部分では私たちの隣人に対する愛が問われています。

 信仰と愛とどちらが大切なのかというと、神さまにいのちを与えられ、神さまに生かされているのだからこと、私たちは愛をもって歩むことができるのであり、その意味では信仰が第一と言えます。

 でも使徒パウロは、コリントの信徒への第一の手紙の中で、その13章の2節で、「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」と語っています。パウロは、ここで愛がなければ、私たちが考える信仰は信仰ではないと語っています。その意味で、パウロは信仰と、希望と、愛の中でもっとも大いなるものは愛であると語りました。

 信仰と愛とどちらが大切なのか、それぞれの具体的な事例の中で、信仰が第一だとか、愛がもっとも大いなるものであるとか、あえて答を出すことはできます。でもその場合でも、この2つのものを切り離して考えることはできないのです。

 だからこそ、イエスは、何が第一の戒めですかという律法学者の問いに、神への信仰と、隣人の愛の二つを指摘したのです。だからこそ、パウロは愛のない信仰はあり得ないと語ったのです。

<ふたつのことがら>がひとつである −その2

 さて今日の聖書の箇所には、「二つのものがワンセットになっているもう一つのことがら」があります。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」という部分です。イエスは、ただ単に「隣人を愛しなさい」と語ったのではなく、「自分のように愛しなさい」と語りました。この部分は、内容的に、「隣人を、自分のことのように愛しなさい」とも、もう少し踏み込んで「隣人を、自分を愛するように愛しなさい」と理解することができます。いずれにせよ、自分に関わるように、隣人に関わりなさい、その二つのことは、ひとつのことがらであるとイエスはとらえました。

 イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」というように「隣人」のことと「自分のこと」をワンセットにして語ったのは、福音書記者の解釈ではなく、イエスみずからが伝えようとした極めて重要な点であると私は考えています。

 私たちは、正しい仕方で、自分を愛さなければなりません。ただしい仕方で愛するというのは、自己本位に自分を愛するのではなく、神さまの前で自分を見いだし、自分を受け入れ、自分を生かすという意味です。

 神さまは<私>という人間にいのちをあたえてくださいました。<私>を愛を持って生かしていてくださいます。<私>の罪を赦し、私に賜物を与え、神とともに歩むように<私>を招いておられます。その自分を大切にするということは、私たち誰に対しても、求められていることです。

 イエスはそのことを前提に、私たちが、神に受け入れられている自分に正しく関わらなければならないように、隣人をも愛さなければならないと語りました。それは神さまが、<私>だけでなく、<隣人>にもいのちをあたえてくださっているから、<私>だけでなく、<隣人>をも愛を持って生かしていてくれるからです。<私>だけでなく、<隣人>の罪を赦し、隣人に賜物を与え、神とともに歩むように<隣人>を招いておられるからです。

 神さまにとって、<私>も<隣人>もかけがえのない大切な存在です。だから私たちは、神さまのゆえに、「隣人を自分のように」愛さなければならないのです。神さまが罪を赦し、悔い改めて生きるように望んでいるのは、<私>ばかりでなく、<私>の<隣人>に対してでもあります。だから神さまの意志が行われるように祈り求め、また神さまに導かれ、神さまととともに歩もうとするときに、私たちは「隣人を自分のように愛する者」となるのです。

<ふたつつのことがら>が分裂してしまう

 さて、神さまを愛することと、隣人を愛することをイエスはひとつのことにみなした。また自分を生かすことと、隣人を生かすことををイエスはひとつのこととみなしたということをお話ししてきました。

 しかし実際にそれがひとつのことにならずに、別々のことになってしまうということを私たちはよく体験します。日曜日の午前中は、神さまのために献げる。しかし午後からは家にもどって家庭のこと、また自分のことをしなければならないと考え、実際に今日の午後は何をしようかと計画をたてたるということがあるのではないでしょうか。あるいは日曜日は礼拝をささげる日、ウイークデーは、仕事をして、家族を支えたり、社会に貢献する日であり、私たちはあれかこれか、どちらかしかできないと考えることがあります。

 しかし私たちは教会で、それぞれ自分ひとりの救いだけを求めて礼拝を守っているのでは決してないと思います。家族や、親しい友人や、社会のことを思いながら、私たちはここで、感謝を献げ、神さまを讃美し、聖書の言葉を聞き、とりなしの祈りを献げているのです。神さまは、私たちを「地の塩」「世の光」として用いてくださいます。イエスは山上の説教の中で、たとえ信仰者の数がわずかであっても、それぞれの家庭や私たちの社会全体を味付けし、光をもたらすことができるのだと語りました。

 そしてウイークデーに、家庭のため、地域や社会に何らかの貢献をしつつ生きようとする時にも、そこで、神さまのみ心が問われなければなりません。日曜日にだけ神さまに従えばいいのではなく、それ以外の日にも神さまに従うことが求められているし、日曜日にも、それ以外の日にも、家族とともに、隣人とともに生きることが求められているのです。

 でも実際にあれかこれかの選択を迫られる場合があります。たとえば日曜日に子どもの運動会があるとか、何らかの発表会があるというときに、私たちはどうするでしょうか。自分のことを優先させるべきか、目の前にいる相手のことを優先させるべきかという問いの前に立たされたときに、私たちはどうするでしょうか。

 イエスよりも前に、キリスト教が成立するよりも前にこの問題を考えた哲学者がいます。アリストテレスという哲学者が倫理学の著書の中で、「自己への愛」と、「他者への愛」を比較し、どちらが大切かということを論じています。ここで詳しく紹介することはできませんが、ふたつの論点を紹介したいと思います。アリストテレスにとって大切なことは、あくまで自分が立派な人間になる、自分の徳を高めると言うことでした。アリストテレスは、自分が立派な人間になるためにこそ、他者への愛が必要だと考えました。これが第一の論点です。

 もうひとつの論点は、あれかこれかのどちらかを選択するのではなく、その中間を取るということです。「中庸」という言葉で表現する人もいます。中庸とは、「過大と過小との両極の正しい中間を人間の英知によって定めること」を意味します。アリストテレスの考え方によれば、宗教は大切なものだけれども、宗教ばかりにのめりこんでしまうと、現実の生活がおろそかになってしまう。宗教を大切にしながらも、それだけに全力を尽くすのではなく、現実の生活のことも考えるべきだということになります。他者への愛を貫こうとすると、自分の時間も能力もすべてが相手のためにとられてしまう。でもそうならないように、他者への愛が、大きすぎもしないように、小さすぎもしないように、その中間を見つけ出すべきだということになります。アリストテレスは哲学的にものごとをとらえ、私たちも学ぶべき点があると思いますが、アリストテレスのこの考え方を私たちが簡単にまねようとすると、「ほどほどに」という考えになってしまうと私は思います。

 教会のことはほどほどに、地域社会のこともほどほどに、ボランティアもほどほどに、家族のこともほどほどに、会社のこともほどほどに‥‥。やり過ぎないように、のめり込まないように、だけどまったくしないというのではなく、節度を守ってやるべきだという姿勢に私たちはおちいってしまいます。

 でもイエスは、ほどほどに‥‥という生き方を勧めているのでは決してありません。

 イエスは、自分が立派な人間になるために努力を続ける律法学者に、自分が立派になるかどうかではなく、まず神さまを愛し、神さまに従いなさい。そして隣人を愛しなさいと語りました。ほどほどにあれもこれもしなさいということではなく、神さまを愛すること、それは当然隣人を愛することになるのであって、そのふたつをワンセットにして、もっとも大切な戒めとしなさいと語りました。

 したがって日曜日に教会に行くべきか、家族とともに過ごすべきかと選択を迫られるときがあっても、私たちは、神さまのことを第一にすべきだと思います。たとえ教会の礼拝に参加できなくても、聖書を開き、祈ることはできます。また家族の一人ひとりも、神さまにいのちを与えられ、神さまに生かされています。そのことを覚えながら、私たちはほどほどに家族とつきあうのではなく、家族の一人ひとりをしっかりと受けとめ、真剣に祈りながらともに神さまの前を歩む努力をすべきだと思います。イエスは、私たち一人ひとりがそれぞれ別個に、立派な人間になることを求めているのではなく、ともに力を合わせて、神の前に歩むことを求めたのです。

 自分のことを優先させるのか、隣人のことを優先させるのか、私たちにとってむずかしい選択が迫られることがあります。私たちは、決して、ほどほどにすべきだと考えてはなりません。ほどほどにと考え始めると、最後には、自分のとって都合のいい道を選択するようになってしまいます。

 イエスは、「自分のように」という言葉を付け加えましたが、「隣人を愛しなさい」と私たちに勧めました。そしてイエスみずからは、自分を犠牲にしても、「隣人を愛する」道を選択しました。私たちには、それはできないことなのかもしれません。

 でも私たちはそのような選択が迫られるときに、私たちは自分がつい自分にとって都合のいい道を歩んでしまいがちであることを反省しつつ、どうしたら隣人を愛することができるのかを問うべきだと思います。答えは聖書を読み、祈りつつ歩む中で与えられます。

 その時に忘れてはならないことは、私たちを愛し、私たちを支えてくれる神がいることをということです。そしてその神さまを愛するために、自分に何ができるのか、隣人に対して何をすべきなのかを問いつつ歩むことが大切なことです。

祈り

主なる神さま、
あなたを愛することと、隣人を愛することは、
異なるふたつのことではなく、ひとつのことです。
隣人を愛することと、私たちがあなたの与えられたものを生かして歩むことは、
異なるふたつのことではなく、ひとつのことです。
しかし私たちは、別々のことと捕らえ、
どちらを優先するべきかを自分の考えで決めようとします。
そしてどちらもほどほどにすればいいと考えることがあります。
どうか私たちがあなたに仕えていく道を歩むことができますように。
そのあなたが、私たちとともにいてくださり、
私たち一人ひとりを生かし、
また私たちに交わりを得させてくださる方であることを覚えることができますように。
あなたに従うためにこそ、
自分を生かし、隣人とともに愛をもって歩むことができるよう導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン

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