2010.11.28

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「主の名によって」

廣石 望

詩編24編; マタイによる福音書21,1-9

 

I

 先ほど朗読したマタイ福音書の箇所は、本日、降誕節第1主日のために『ローズンゲン』が指定している箇所です。しかしイエスのエルサレム入城の場面は、福音書では受難物語の冒頭にあり、むしろ受難週にふさわしい箇所のようにも思えます。なぜ、この箇所が選ばれているのでしょうか。おそらくそれは〈到来〉というモチーフが共通しているからです。キリストのこの世界への到来と、イエスのエルサレムへの到来は、どちらも「主の名」によって来られる方の到来です。「主の名によって」イエスが来るとは、どういう意味なのかを考えてみましょう。

 

II

 「主の名」つまり神の名によって来る者は誰でも、高くて大きな要求を掲げます。その人は、実現されるべき聖なる約束について語るでしょう。ではイエスの要求は何だったのでしょうか。どのような神の約束を伴って彼はエルサレムに、そして究極的にはこの世界に来たのでしょうか。

 それは一言でいえば平和です。イエスはエルサレムに近づいたとき、弟子たちをオリーブ山の村に派遣して、「主」つまり神の名によって、ろばを連れてこさせます。そしてそのろばにのってエルサレムの都に向かいます。そのことを受けて、マタイ福音書が引用するのはゼカリヤ書9章9節です。続けて10節も見るとこうあります。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。

 「高ぶることなく、ろばにのって」来る王は、「戦車、軍馬、弓」を断ち、「諸国の民に平和」を告げます。つまりイエスのエルサレム入城は、謙遜と非暴力の表現です。「高ぶることなく」と訳された箇所は、マタイの引用では「柔和な」とあります。山上の説教のイエスは、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5,5)と宣言しました。「柔和さ」とは元来、社会の中で虐げられた者たちが経験的に知っている他者への思いやりのことです。イエスはそのような意味の「王」として到来します。

 同じことが、じつは入城の方角からも言えるという興味深い指摘があります。イエスはオリーブ山の方角から、つまり東側からエルサレムに入りました。これに対して西側からエルサレムに入ってくる人がいたのです。ローマ総督です。彼は通常は地中海沿岸の都市カイサリアに駐在していました。しかし過越祭のような大きな祝祭には、大隊を率いて地中海岸を南下し、やがて東進して、西側からエルサレムに入りました。歴史家ヨセフスは、フロールスという名の総督がエルサレムに到着するさまを次のように描きます。

民衆は総督の復讐心を前もってなだめようと、彼の兵士たちを歓呼して出迎え、フロールスを恭しく迎え入れる準備をした。(『ユダヤ戦記』II 297)

 都の西側から、それこそ「戦車」「軍馬」「弓」を誇示しつつ帝国支配の安定化を図るためにエルサレムに来る総督と、都の東側から「ろば」に乗って入城するイエスの姿は、一見同じことをしているように見えて、その実質は何と違っていることでしょう。この対比は、人々に強烈な印象を与えたに違いありません。

 ろばに乗るという象徴的なアクションを通して、「主の名によって」来るイエスは、平和のメッセージを発信したのです。

 

III

 しかし「主の名によって」自分の行動を正当化するなどという大それたことを、なぜイエスはできたのでしょう。なぜ彼は、あたかも民族の新しい王、メシアであるかのようにふるまうことを選んだのでしょうか。

 正確なところはもはや分かりません。しかし私たちは、彼が「神の国」の到来を告げたことを知っています。弱い者たちへの配慮に溢れる「父」と彼が呼んだ神の支配を、憐れみ深い父としてのみ「王」でもある神の到来をイエスは告げました。他方で生前のイエスは、自らを「神の子」「王」と名指すことはなかったようです。「王」であるのは神であり、イエスではありません。むしろイエスは自分を神に向かって透明にし、自分の身体を神の生きた働きが現れる場所とすること、私たちに親しい表現を使えば〈通り良き管〉となることを望んだと思います。

 しかしこのような繊細な違いを、人々は見分けることができたでしょうか。ろばにのってエルサレムに入城するという行動は自らを王、メシアとするという危うい自己演出と紙一重でした。つまり「平和な王」のメッセージは、自らの薄暗い権力欲を「主の名によって」カモフラージュするという危険から、決して自由でないのです。

 紀元前1世紀にファリサイ派によって書かれた旧約外典『ソロモンの詩編』17章には、明瞭なメシア期待が現れます。そしてそこには二つの矛盾する働きが、メシアに期待されています。最初にメシアに期待されるのは、外国支配の排除です(17章21節以下)。

主よ、ごらんください、あなたが予知なさっている時期に、
神よ、あなたの僕イスラエルに君臨するダビデの子を王に立ててください。
そうして彼に力の帯を締めてやって下さい。
不義な首長たちを打ち破るため、
エルサレムを踏みにじり破壊するもろもろの民からそれを清めるため、・・・
陶工の(ろくろの上の)器のように罪人の傲慢をこそぎとるため、
鉄の棒で彼らの本質を粉砕するため、
律法を犯すもろもろの民が彼の前から逃げ出すため。

 これは客観的には、民族主義的な浄化思想の表現です。自民族の伝統を受け入れない者たちを聖地から追い払うことが、イエスと同様に「ダビデの子」と呼ばれる「王」に期待されています。その人は、理想を実現するためなら暴力をも辞さないことでしょう。

 他方の期待は、まったく平和的です(17章33節以下)。

彼は馬・騎手・弓を望まず、
自らのために金銀を貯え、戦いに備えず
多数を頼んで戦いの日に備えない。・・・
彼は彼の口から出る言葉で地をとこしえに打ち平らげ、
知恵と善意で主の民を祝福するからだ。・・・
彼は生涯神により頼み、力を失うことはないだろう。
神は聖霊により彼を力ある者とし、
力・正義と並んで理解の意志を賦与して、賢明な者としたからだ。

 同じ文書の同じ章の中で、二つの合い矛盾する役割がメシアに帰されています。同様の期待が、ろばに乗ってエルサレムに入城するイエスにもかけられたと思います。彼を待ち構えていた悲劇的な運命は、一方では排他的な暴力と、他方では非暴力的な平和という、二つの合い矛盾するメシア期待によってあらかじめプログラムされていました。これが「主の名によって」来る者の危うさでした。

 

IV

 もうひとつの危うさがあります。それは「主の名によって」来る者を受け入れる側の問題です。誰であれ「主の名によって」来る者は、人々から検証されることを覚悟しないといけません。そのように行動する者は当然ながら人々の関心をひきつけますが、その関心はたんなる好奇心や善意だけでなく、疑いの眼差しや反感でもありうるからです。

 じっさいイエスとともに過越祭に参加するためにエルサレムに上った巡礼者たち、また都市住民たちは、彼を「ダビデの子にホサナ」という歓呼をもって迎えました。しかし私たちは知っています、はじめはイエスを歓迎した群集が後には総督ピラトゥスの前で、イエスを「十字架につけろ!」と叫んだことを。「主の名によって」来たイエスの大いなる平和のメッセージは当初は成功を収めたものの、最終的には拒絶されました。

 このことは現代社会においても、平和を訴えることがいかに難しいかを示唆しているかのようです。平和のメッセージは、それが人々に受け入れられるかどうかにかかっています。そして私たちは――とりわけ隣国の核兵器開発、領土問題、休戦海域での紛争などのニュースに取り囲まれている私たちは――しばしば不安であり、優柔不断であり、すぐにも力に頼って我が身の安全を図ろうとします。そればかりか、「God bless you」という言葉で、軍隊が送り出されることもあります。つまりこの世には、「主の名による」暴力も存在するのです。

 

V

 「主の名によって」――では、神自身にとってイエスの到来は何だったのでしょうか。そのことをここでは直前の文脈から見たいと思います(マタイ20,17-19)。

イエスはエルサレムに上っていく途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた、「今、わたしたちはエルサレムに上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」。

 この都合三度目の受難復活予告は、前半でイエスの平和のメッセージが民族の指導者によって拒絶されると予告しています。しかし最後にこうあります「人の子は三日目に復活する」。――「復活する」と訳された動詞のギリシア語原文は「彼は起こされるであろう」という未来時制の受動形です。その動作主は神、つまりイエスは「神によって起こされるだろう」という意味です。

 「主の名によって」エルサレムに、そしてこの世界に到来したイエスは、見まがうかたなき平和のメッセージを発信しました。しかし当時のメシア期待には非暴力のメシア像と並んで、暴力をも辞さない排他主義の傾向が存在していました。イエスを迎えたエルサレムの人々にも、また現代の私たちにも、平和を望む気持ちと並んで、力による安全保障と神の名による戦争という矛盾を抱えています。それがぶつかり合うとき、私たちの世界は多くの平和の使者たちを排除してきました。イエスもまた、この矛盾の犠牲になって殺されました。

 しかし神はイエスを起こされるであろう。そのときイエスは私たちの矛盾を照らすと同時に、それを赦し克服するための光であることが明らかになるでしょう。つまりイエスの復活のできごとを通して、イエスの到来が「柔和な」者たちの非暴力的な平和を実現するためであったこと、また彼の死が潜在的な暴力によって自己の安全を測ろうとする私たちの罪の結果であると同時に、その赦しでもあることが明らかになるでしょう。

 だから今年も、私たちは主イエス・キリストの誕生を待ち望みましょう。そのための時間を過ごす中で、私たちの助けになるかもしれないイメージを、今日のテキストからひとつもらいたいと思います。それは群集が、ろばに乗った「イエスの前を行く者も後ろに従う者も」祝福と喜びの叫びを叫んだという箇所です(9節)。人々はイエスの側にいて、彼とともに歩んでいます。イエスは、ゼカリヤの言葉を借りるならば「諸国の民に平和を告げる」人々とともに歩んでいます。この姿は、平和のための非暴力のデモ行進を想起させます。しかし私はより強く、待降節がその頂点に達する聖夜に行われるクリスマス・キャロルを思い浮かべます。そのとき私たちは大人も子どもも、その手に小さな灯りを灯して町中を歩きながら、こう叫んで喜びと平和を告げるでしょう。

「ダビデの子にホサナ、
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」。


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