2010.9.19

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「本国は天に」

廣石 望

詩編37,1-11; フィリピの信徒への手紙3,12-21

I

 人から「あなたは誰ですか」と問われ、しかもそれがたんに名を尋ねているのではなく、「あなたは何者ですか」という意味のアイデンティティについての質問であるとき、私たちは何と答えるでしょうか。

 まず思いつくのは両親や生まれた家や出身地、母語や国籍などの〈生まれ〉にまつわる返答です。私たちは自分で選ぶより先に、ある環境の中に生れ落ち、それが私たちのアイデンティティの基礎をなすからです。次に考えられるのは、意識的に人生を歩み始めた後に積みあげてきたこと、つまり学歴や職業、地位や財産などについて答えることです。これは広い意味の〈業績〉にもとづくアイデンティティの説明でしょう。さらにもうひとつの説明として、〈出会い〉を通して与えられた大切な人たち、すなわち配偶者や子どもたちなどの家族、先生や友人たち、あるいは知人たちの名前をあげることで、自分が何者であるかを言うこともできるでしょう。

 それでも、こうした自己理解の根拠は、やがて時間とともに失われてゆくのではないかという問いが残ります。生まれ育った場所や環境で最後まで暮せる保証はないし、年齢を重ねればやがて社会の中で得たポジションも手放すことになります。私たちは時が来ればこの世から去ってゆく。高齢になれば大切な人たちと死に別れたり、あるいはそうした人たちのことを自分がうまく思い出せなくなることもあるでしょう。私たちのアイデンティティは過ぎ去るのでしょうか。また宗教は、とくにキリスト教はこうした問いにどう答えるのでしょうか。これらの問いをもって、パウロのテキストにとりくんでみましょう。

II

 今日のテキストの冒頭でパウロは、「私はすでにそれを得たというわけではなく…、何とかして捕らえようと努めている…。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…、目標を目指してひたすら走る」(12-14節)と言います。

 彼はこの手紙を書いたとき、すでにかなりの年齢に達していたのみならず、投獄されていました。客観的には、「私の人生はそろそろ終る」「後はだんだん手放すだけだ」と自分に言い聞かせてもよい状況です。それなのに彼は、前に進もうとしています。たぶん死ぬまで前進するつもりなのです。

 なぜなのでしょうか。彼は「自分がキリスト・イエスに捕らえられているから」だと言います(12節)。「キリストに捕らえられる」とは、キリスト信仰をもつに至るという意味でしょう。キリストの魅力に惹かれる、その圧倒的な恵みに出会い、それに基づいて生きる決心をするとは、どんなときも「もうこのくらいでいいだろう」とは決して自分から言わず、むしろ彼方の「目標を追い求める」ことであるようです。

 私たちも、あるとき信仰をもって生きようと決心します。しかしその決心そのものは、なるほど時の経過とともに過去へと押し流されてゆきます。しかしその過去は、つねに今の私を新しく捕らえ続けており、それが未来を目指すための根拠になるのだと思います。

III

 キリスト者のアイデンティティのありかについて、パウロは「私たちの本国は天にある」(20節)と言います。――ちなみに私の故郷の教会では、お葬式の行列に、「我らの国籍は天にあり」と染められた幟(のぼり)が、町内長寿会の幟と並んで行進します。故人は教会に通うキリスト教徒だったので、死んだら天国に帰りますという意味ですね。

 それはさておき、「本国」あるいは「国籍」と訳されたギリシア語「ポリテウマ」は、まずは国家とか政治政体という意味です。「市民権」と訳すことも可能でしょう。この言葉に込められた意味について考えるには、パウロの手紙の宛て先が都市フィリピのキリスト教徒たちであったことが手がかりになるかもしれません。

 フィリピはマケドニア東部の都市で、ローマ帝国の本国と東部をつなぐエグナティア街道の要衝にあり、軍事的・経済的に重要でした。近くには金山もあったそうです。「ポリテウマ」との関連で興味深いのは、皇帝アウグストゥスがこの都市に退役軍人を多数入植させ、ローマ市民権をもつ人々を中心とした植民都市にしたことです。都市は「イタリア権」つまりローマ本国と同じ政治および行政制度を行使する権利を与えられて、「フィリピにあるユリウス・アウグストゥスの植民都市Colonia Iulia Augusta Philippensis」を名乗りました。この町はミニチュア版の都市ローマだったのですね。そしてそうした植民都市(ラテン語「コローニア」)が、しばしばギリシア語で「ポリテウマ」と訳されたのです。

 すると、「私たちの本国は天にある」というパウロの発言から、「帝都ローマではなく、天にこそ私たちは属している」という響きを聞きとることができそうです。都市フィリピの支配エリートたちは、「われわれはローマと同じ権利をもつ都市の市民である」という自意識をもっていたに違いありません。それをパウロはやんわりと、しかし根底からひっくり返したのではないでしょうか。

IV

 なぜパウロは、古代地中海世界に生きた人々にとって非常に重要であった都市ないし民族への帰属意識を相対化し、「天」という超越的な本国を提唱することができたのでしょうか。

 彼は「キリストの十字架に敵対して歩む」者たちについて語ります(18節)。この発言を理解するには、パウロの個人史が参考になります。ご存じのようにパウロは、キリスト教徒になる前は教会の迫害者でした。ユダヤ民族のアイデンティティの根幹である神の律法への熱心さのゆえに、そうした掟を自分たちが理解するような仕方で遵守しようとしない者たち、とりわけキリスト教徒に対して、パウロは各地で破壊活動を行っていたのです。そしてその最中に、十字架につけられた神の子イエス・キリストが天から啓示される、という不思議な経験をしました。十字架刑という律法に照らせば呪いの死を死んだはずのイエスが、神として現れるという経験です。後にパウロは、「私は律法を通して律法に死んだ。神に生きるためである。私はキリストとともに十字架につけられたのだ」(ガラ2,19)と述べています。それは彼にとって、民族出自や宗教的熱心といった要素、つまり〈生まれ〉や〈業績〉にまつわるアイデンティティの根拠がいっきょに崩壊するという経験でした。そのキリストが今は天にあり、「そこから主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っている」(20節)。パウロが「私たちの本国は天にある」と言うことができた背景には、こうした個人的な事情があるだろうと思います。

 それでもこの発言の有効性は、パウロ個人に限定されません。彼は言います、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(21節)。――ここに表明されているのは、私たちのアイデンティティがキリストの働きによって変貌を遂げるだろう、私たちはキリストと同じ姿に変身するだろうという希望です。キリストが私を捕らえるとは、そのような信仰に生きることでした。だからこそパウロは、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」全力疾走することができたのだと思います。

V

 先月私は、学生たちといっしょに韓国を訪ねて、当地の「多文化主義」について学ぶ機会がありました。伝統的に民族の純血を重んじてきた韓国社会も現在、急速に国際化しつつあります。富裕層の国際結婚、農村部に流入する〈アジアの花嫁たち〉、底辺の移住労働者たち、あるいは難民たちなど、さまざまな社会レベルで異文化を生きる人たちの諸問題とそのとりくみについて、その当事者たちや支援者たちに直接出会って学ぶことができました。――私たちの国にも、同様の問題があることはすぐに分かります。国籍や市民権をめぐる問題は、現代社会において第一級の人権問題です。

 おそらく古代の都市フィリピにおいても、ローマ市民権をもつ人とそうでない人の間には大きな違いがあったことでしょう。「私たちの本国は天にある」というパウロの言葉は、さまざまな身分出身の人々からなる教会共同体に、ひとつの共通の超越的な市民権を宣言するものでした。同時にこの宣言は弱い立場の人々を引き上げ、強い立場にある人には弱者への連帯を促すものでもあったろうと思います。



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