2009.10.18

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「罪を赦す」

廣石 望

詩編40編1-7 ; マルコ福音書2,1-12

I

 「人の子は地上で罪を赦す権威をもっている」――今日のテキストのイエスは、そう言います。

 「罪の赦し」はキリスト教にとって大切な言葉です。使徒信条にも「(我は)罪の赦し(を信ず)」とあります。もっとも近代のプロテスタント・キリスト教は、「罪(の赦し)」をとりわけ個人の実存の問題に結びつけて理解してきました。他方、今日とりあげる治癒奇跡物語では「罪」は病気ないし障がいに、さらに「罪の赦し」はイエスの十字架の死ではなく、病気や障がいの治癒に結びあわされています。

 病気のどこが「罪」なのでしょうか? 「罪を赦す」とは、しかも「地上で赦す」とは何のことなのでしょう?

II

 まず「罪」について、有名な楽園追放の物語(創世記3章)を手がかりに考えてみましょう。この物語によれば「罪」とは本来的な関係、生かされて生きる人間の諸関係の破綻とその結果です。そこには神と私個人の関係だけでなく、人間相互の関係や自然との関係までが含まれます。

 ご存知のように、禁令を破ったアダムとエヴァは、神に問われてこう答えます。「蛇がだましたのです」(3,14)、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木からとって与えたので食べました」(3,12)。神と人の関係、男と女の関係は、蛇や女のせいにされて哀れにも破綻しています。

 神は人間による禁令破りを受けて、女には子を産む苦しみと男性による支配を、男には呪われた大地での労働をそれぞれ科します(3,16-19)。男と女の隠すところのない裸の関係は、こうして恥と支配(/被支配)の関係に、育み・育まれる自然と人間の関係は呪いにみちた労働と搾取の関係に変わってしまいました。

 いったいアダムとエヴァは何を望んで禁令を犯したのでしょうか? 創世記は、「神のように善悪を知り」「賢くなる」ことを望んだと言います(3,5-6)。人は本来、被造物として、他の被造物との関係の中で生かされて生きる存在です。しかし自分が立てる価値尺度(よい/悪い)によって他者を序列化し、上に立つ者、絶対者になりたいと欲したことが、逆に神・他者・自然との関係に破綻をもたらしたというわけです。楽園の生活は崩壊しました。

 「罪」と呼ばれる関係性の破綻には、個人の内面だけでなく、人種・性別・宗教・職業・貧富などを価値尺度とした差別や、資源の乱獲や環境破壊までが含まれています。人の罪には、社会や自然を歪めるほどの魔力があるのです。

III

 次に、病気を「罪」の結果とする理解について考えてみましょう。

 ありがたいことに現代の医者は、患者に向かって「あなたの罪のせいです」とは、もはや言いません。医者の仕事は罪の赦しではなく、病気の治癒だからです。宗教的な「穢れ」の観念に由来する差別は、現代医学から原則的には排除されています。それでも現代社会には、病気にまつわる差別が残っています。

近代日本には、元ハンセン病患者を隔離し、その子孫を残さないための法律がつい数年前まで存在しました。そのための療養所が全国にありました。この事業に携わったのは医療関係者と並んで、多くのキリスト者でした。背景には、この病気を「とくに罪深い病」とみる差別意識と、それゆえにこそ神の格別な憐れみが注がれるという宗教観念が絡み合っているように感じます。

 さらに新型インフルエンザのような感染力の強い病気の場合、今でも罹患者は正当かつ強制的に「隔離」されます。しかし隔離という現象は、容易に宗教的な「穢れ」の観念に結びつきます。約30年前、最初のHIVウィルスの感染者が確認されたころ、少なからぬ人々とりわけキリスト教右派の人々が、この病は同性愛という大罪に対する「神の罰」だと言い立てました。ウィルスのキャリアーたちは「罪人」の烙印を押されて、社会的な忌避と排除の対象になりました。日本でも、電車のつり革に触れることすら嫌がる人たちが増えました。旧約聖書に、月経中の女性がふれた椅子や机にさわると、その人に穢れが〈乗り移る〉と考えられたのと大差ありません。薬害エイズの被害者たちは、まずこの偏見と戦わなければなりませんでした。

 さらに、医学の進歩や知識によって克服することの難しい接触恐怖があります。今年のインド研修旅行に参加した学生の一人が、エッセイの中で、孤児院の子どもたちと遊びたくても、子どもたちの体はおろか、洋服にふれることすら恐ろしかったと正直に告白しています。帰宅直後には念入りに手足を洗い、洋服も全部着替えて洗濯したというのです。「彼らに触れたことですべてをきれいにしなければならないと、そのときの私は思いました」。――もともと彼女は「差別なんてとんでもない」と信じていたので、自分の内なる差別感情に直面して、たいへん苦しみました。彼女のその後については、後でふれます。

 いずれにせよ「病気」への恐怖は、今なお私たちに「穢れ」や「罪」の観念を呼び起こし、人と人の関係性を遮断してしまうのです。

IV

 イエスが中風患者――原語である「半身麻痺者」は中風に限りませんが――に、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と言ったことの意味は何だったのでしょうか? 「罪」が〈生かされて生きる〉という本来的な関係性の遮断であるならば、この言葉は、〈あなたが病のゆえにこうむってきた疎外と関係性の破綻は、今ここで回復される〉という意味だったように思います。

 現代医学は病気を治しますが、罪の赦し、つまり破綻した関係性の回復を宣言することはできません。現代の裁判所は犯した罪への償い(賠償)を命じることはできても、犯罪によって破綻した人間の関係性まで回復することはできません。ではイエスの場合、それはどのように生じているでしょうか?

 多くのイエスの治癒奇跡物語と同様、この物語にも、被治癒者と支援者の信頼関係が見てとれます。同じ地域共同体で生きる仲間たちが、病人をイエスのもとにかついで運び、草葺の屋根の一部をはがして、寝台に乗せた病者をイエスの前に吊り下げたのですから。「イエスはその人たちの信仰を見た」(5節)とあります箇所は、「イエスは、この人たちの信頼にみちたふるまいを見て」と訳すことが可能です(本田哲郎訳)。治癒奇跡の背後には、イエスと被治癒者および支援者たち相互の信頼関係があります。

 さらにイエスは病者に向かって、「床を担いで家に帰りなさい」と命じます(11節)。「家」とは、この人が共に生きるべき仲間たち、彼にアイデンティティを与える社会的関係の場をさしています。彼は、家族との新しい関係へと送り返されました。この物語は、疎外からの回復をさして「罪の赦し」と言っているのです。

V

 さて、この喜ばしいできごとに対して、ある人々が密かに反発しました。すなわち律法学者たちは心の中で、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかにいったい誰が、罪を赦すことができるだろうか」(8節)と言いました。

 彼らにとって「罪の赦し」とは、最終的にはエルサレム神殿で祭司の助けをかりて遂行される贖罪の犠牲祭義と結びついていたのでしょう。これは、神とその民との関係性の破綻を修復するための公的なシステムでした。一人のラビの言葉として、次のものが伝えられています。「病人はその罪がすべて赦されるまでは起き上がれない。〈汝のすべての罪を赦す方が汝のすべての病を癒す〉(詩編103,3)と書いてあるのだから」(ラビ・アレクサンドライ、AD270年頃)。――病気と罪が結びつき、神だけが罪を赦すとされる社会では、病人は治るまで罪の中にあると言われるのです。

 日本語の古語でも、「ツミ」とは「聖なるものを侵犯する行為、共同体の構成員として秩序を破る行為、またその結果、身に受けるけがれや罰をいう」そうです(『岩波古語辞典』)。――ある社会で病気が罪の結果とされ、かつ罪の赦しが「聖なる」制度によって保障されるとき、病者への差別は宗教的に正当化され、赦しの権威は宗教的に「聖なるもの」とされるに違いありません。現代医学がとりわけ感染性の病気に関して、今もその権威を独占している可能性は排除できません。

 だからこそイエスが、そうした公的システムの外側で罪の赦しを宣言したとき、その内側にいた人々はこれを神への冒涜だと感じたのです。これはあらゆる宗教、あらゆる公的権威が晒されている誘惑であると言わねばなりません。

VI

 これに対してイエスは、「人の子は地上で罪を赦す権威をもっている」(10節)と返答します。この言葉は、〈唯一罪の赦しを宣言できる神から特別な権威を授かったこの私であるから、地上にあっても罪を赦すことができるのだ〉という意味なのでしょうか。なるほど「人の子」という表現は、イエスが自分をさすときに用いる表現ですし、マルコ福音書は「神の子」イエス・キリストの権威をそのように理解しているのかもしれません。しかしそうだとすれば、イエスはひとつの公的に認知されたシステムに対抗して、自分の権威というもうひとつのシステムを立てているだけのことになりかねません。

 他方で、「人の子」という表現は「人は誰しも」という意味にも用いられます。そうとればこの言葉は、〈人間は誰でも自分が生きているその場所で、関係性の破綻を乗り越えて生きる権利を神から授かっている〉という意味になるでしょう。つまりイエスは、自分の特別な権能によってではなく、たまたま今病気である者に神が本来与えている尊厳にもとづいて、その人が生きているその場で――「地上で」とはそのような意味なのではないでしょうか?――病気や障がいを治そうとしているのです。

VII

 人は誰でも自分が生きているその場所で、関係性の破綻を乗り越えて生きる権利を神から授かっている。――先に一人の学生のインドでの体験を紹介しました。いっしょに遊ぼうとする子どもたちに触れることができず、自らの内なる差別感情に直面した彼女は、しかし一念発起して、ホームステイ先に幼い子どものいる家庭を選びました。

 そしていっしょにでかけた友人たちが、その家庭の2歳になる幼児と一生懸命に遊ぼうとしている姿に感心しつつ、はじめは人見知りしていたその子どもが自分にも笑ってくれ、遊んでほしいというしぐさを見せるので、やがて「かわいいな」と思ったそうです。そして、この子が家族の中で本当に大切にされているのを見て、「人はみな祝福されて生まれてきたのだ」と感じたと書いています。「人はみな祝福されて生まれてきた」――イエスが宣言した「罪の赦し」とは、このことだったのではないでしょうか。

 キリスト教とりわけ近代プロテスタント教会は、「罪」を個人の内面の問題、良心の問題として扱ってきました。しかし創世記の理解によれば、「罪」は神や世界との関係性の問題です。またキリスト教会は伝統的に、「罪の赦し」を贖罪死としてのイエスの十字架刑に結びつけて、このことを信じることで人は罪赦されて救われる、死後に天国に行けるが、信じない人は地獄に落ちると教えてきました。しかし私たちの物語のイエスは、「地上で罪を赦す権威」について語りました。それは私たちが生きているこの世界のことです。

 人は誰でも自分が生きているその場所で、関係性の破綻を乗り越えて生きる権利を神から授かっている。私たちには、そのことを祈り求めつつ生きることが許されている――先週の主日礼拝で村上牧師が紹介されたディートリヒ・ボンヘッファーの言葉、「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」も、深いところで同じことを指していると思います。



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